今日もブログにお越しくださり、
ありがとうございます。


今日は世の中がもっと善くなるようにと願うひとりの人として、知り得た情報をシェアしたいと思います。


つい先日Twitterから知った内容で、自分で調べる時間も取れなかったので「こうしてくださいね」というより、「こんな情報があります。どう思いますか?あなたのハートに問いかけハートの向くようになさってください」という意味で書きますね。





古来から豆とは魔を滅することで鬼を退治することではありません。
お金(お札)は式神、別名鬼神。

節分に「鬼は外」と唱えると、お金が入ってこない術式が発動します。
お金様は僕たちを嫌うのね。わかりました、となくなります。
また2月2日は124年ぶりの節分です。
2は角の日です。角の日はとても強く力が発動します。
いつもより鬼も内にしないといけない年です。
子どものことを「ガキ(餓鬼)」と読んだり、古来昔は女性は結婚するまで鬼だと思われていました。
だから白無垢に角隠し。
結婚して初めて人になり、黄泉の国から命を運ぶ聖なる人と考えられていて、奥さんのことをおかみさん=お神さんと呼んだのです。

鬼を払ってはいけません。
魔を滅する、疫病を払うのが大切なんです。
「福は内、鬼も内、コロナ消えろ」が正解です。

人は鬼。
魂とは伝える鬼。
「鬼は外」とは自分の魂を殺す言葉。

なぜ節分に福は内、鬼は外?
福の神様はお腹を空かした餓鬼を連れてくる。
福の神様は家にガキや女は餓鬼は家に入るな、
「福は内、鬼は外」になった。
子どもに食事を与えない。
本当は貴族から始まった奴隷に対する扱い我々国民は伝える鬼。魂は体は塊、我々は鬼。
角を合わせたら人。国民を蔑む言葉。鬼は外。


*以下はレスポンス
・「福は内」は福の神は座敷に上げてお接待、「鬼は外」の鬼は福の神の従者なので外で待機しているので外でお接待。
鬼を排除しているわけではないのですがいつの間にか変わってしまいました。
(↑に対して)
本当にその通り。室町時代の応仁の乱で餓死者が出て人を見下した貴族が変えてしまった。

・「魔は外」ならいいのでしょうか?
(↑に対して)
それでもいいと思います。
「魔よ滅せよ」

・豆は普通にまいていいのですか?
(↑に対して)
昔は大黒柱から円を描くようにまいたらしいです。





他にもツイートが続きますが、ここまでとします。




ちなみに奈良県にある天河神社でも
「福は内」「鬼は内」と唱えながら福豆をまくそうです。

(以下、天河神社HPより抜粋)

節分祭では、御尊家皆々様の諸厄難を除き、家内円満にして、家運の隆昌、諸業繁昌、交通安全、入学祈願、健康祈願等、諸々御祈祷を申し上げ、併せて護摩祓いを斎行致します。
天河社社家は役行者と供に祀られております前鬼、後鬼の子孫と言い伝えられており、節分祭宵の晩に『鬼の宿』として、鬼(神)を迎えます。夜更け、一番座敷に布団をひき、にぎりめし、梅干しを供え、縁側には澄みきった真水を手桶に張り、一晩そのままにしておきます。
そうすると節分祭当日早朝、手桶の水を見ると、鬼が手を洗ったのか、足を洗ったのか底に砂が沈んでおり、鬼が泊まられたという証を賜る事ではじめて節分祭が執り行われます。
よって、鬼は大いなる御宝をもち、全ての意識を越えて物事を正しく見るという古来からの信仰から「神」として崇め奉られ、神事儀礼においても、「福は内」「鬼は内」と唱えながら福豆を撒きます。
(ここまで)
鬼は神であり、
先祖であるのでお迎えするという神事だそうです。



ちなみに私的には
そうかもしれないと思うところがありました。

この他にも、本当に大切な日本の神様が鬼として封印されているとか読んだこともあります。

人には荒ぶる神、荒ぶる魂も持っています。
荒御魂です。この魂を鬼と表すこともあります。

鬼は人であり、その鬼を排除することは人を排除することにつながってしまうとこのツイートで言われていました。

特に日本語は言霊の強い言語ですから。


今、スピリチュアの世界では「統合」や「ワンネスの意識」が大事とされています。

ならば人の心にもいるという「荒ぶる鬼=(ネガティブな自分とも理解できますね)」も自分の一部として大切にするという意識は私の中では腑に落ちる感覚があります。


さて、皆さんはどう思われますか?