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クリスチャンkokoiroの信仰ブログです

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スノーボール・ビバーナム


コリント人への手紙第一 4章Ⅰ-5節

4:1このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。 4:2この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。 4:3わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。 4:4わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。 4:5だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。




説教まとめ

説教「私に求められていること」 S牧師




言い換えると「神が私に求めていること」…がテーマ。

自分が神に求めていることより、神が私に求めていること(期待していること)の方が大事。

1 私たちは「神の奥義の管理者」である。
2 忠実であれ


神の奥義とはなにか?
その管理者として神に忠実に従うとはどういうことか?
自分は神の求めにどう応えているか?

背景として、コリントの教会はとても活発な教会で、その分問題も抱えパウロも悩んでいた。

キリストの愛によって教会生活を送ること。神の求めに忠実であること。
キリストの愛をいついかなる場合でも人に伝えているか?

3節以降

人は不完全な者である。

①人の目人の評価にとらわれず(4:3)
②自分自身の評価をせず御心を求める(4:3.4)
③自分を過信して安心しない。さばくかたは神である。(4:4.5)



▽ヨハネによる黙示録2:10
あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。

~死に至るまで忠実であれ。
戦時中キリスト教プロテスタント教会は日本基督教団に統一されたが、ホーリネス系の牧師を中心に兵役を拒否し獄死した人がいた。
今日本はそういう信仰を貫く上で困難になるような問題はないが、苦難のときも忠実であるためには、今日忠実であることである。
いらぬ自信や過信をせず、今与えられたことに忠実であることである。




《私のノート》

何に忠実であればいいのか?獏として見失いそうになるけれど、やはり日々の生活の中で自分と人とをおろそかにしないことかなと思う。誠実で寛容で、、、あれ、ガラテアの御霊の実みたい!書いておこう。

ガラテヤ5:22-23
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

これらの聖霊のむすぶ実の中に神の奥義は展開されるのかも。
神の奥義とは、これらの生活の中に神ご自身が働いてくださるということなのかも。








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オダマキの芽がそっともちあげる雫



ガラテヤ人への手紙5:16-26(口語訳)

5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。





16  わたしは命じる という強い言葉
   御霊によって歩む→肉の欲望を満足させることはない
17  肉と霊は対立する

※  例えば人は働き、働きによって満足もする。奉仕であっても同様である。それは悪くはない。
  しかし例えば奉仕であっても霊的な奉仕であったかどうかは神のみぞ知る。
  自己満足で喜んでいるのならば神の奉仕とはならない。(肉と霊の対立)
  しかし紛らわしいことにそれらは分離できず混在している。 


創世記3:6,2:9/16 善悪知識の木  この木からは食べるな

※  キリスト教を禁欲的にとらえる人がいる。しかし決して禁欲的なのではない。
  肉体の喜びを得なさい。味わうことを楽しみなさい。しかし神との契約は守りなさい。
  どの木の実も採って食べても良い。しかし善悪知識の木からは食べるな。。。という契約。
  ダメなものはダメ。神との関係は壊すな。


Ⅰ テサロニケ5:23  どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめてくださるように。
         また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、
         わたしたちの主イエスキリストの来臨のときに、
         責められるところのない者にして下さるように。

※  神との関係を深めながら味わう。霊とたましいと体は分裂しない。


結局「御霊によって歩む」とは?

肉の欲だけ、自己満足だけでは欲がはらんで罪を生む。罪がはらんで死を生む。
肉と霊は分裂しない。両輪で働く。全人格的。
肉の奴隷とならず、御霊の実を食べながら祈りを持って歩む。
主に導かれること。
聖霊によって確信を持って、外なる人内なる人が調和していく生き方。


Ⅲ ヨハネ2  あなたのたましいがいつも恵まれているのと同じく、あなたがすべてのことに恵まれ。
      またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。




《ここいろノート》

奉仕をするとき、必要があると認めて通常はやりたくてやっているわけではないことが多い。
祈ってはじめる。
それでもやり続ける中でやり過ぎてしまうことがよくある。
私は私の認める基準までその奉仕を高めたいと思ってしまいやすい。
霊的な奉仕が自己実現の場に転換してしまうことはよくある。これは偶像礼拝。
精一杯捧げることと、その精一杯を主がお喜びなのか?はよくわからない。
確信があるということが、実は違うのかもしれない。
主にある怒りはアリか?例えば他人の罪への怒り。
聖化に党派心が介在しないといえるか?
祈りつつ、み声を聴きつつ、時に立ち止まって、吟味して進まなければわからない。
御霊の実を大切にしよう。
跪い委ねた者が得られる自由とか大胆ってあるんだから。







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今日は(ユダヤ暦ではすでに昨日ですが)イエス・キリスト復活祭。
イースターです。


みなさん、死者の復活を信じますか?

神話のようなものをのぞき、
死からよみがえったのはイエスさまだけです。

そして、もしイエスさまが実際に復活していなかったら、
キリスト教はすでに消滅していたと思います。


聖書にはイエスの十字架の死の意味を理解できずに
つまづいた弟子たちの姿がくわしく描かれています。

イエスを裏切って否定して逃げて隠れた弟子たちが、
どうして殉教の死をも厭わず「イエスはよみがえった」と宣教できたのでしょうか?

イエスは弟子たちをマインドコントロールなどしなかったのですね。
(当たり前ですが^^;)
それが、イエスが捉えられるシーンでの弟子たちの姿…
実際に裏切るユダ、
3度もとらえられたイエスを知らないと裏切るペテロ、
裸同然でゲッセマネから逃げた弟子などを通してわかります。
とても人間的な、ある意味当たり前の行動です。

決して、「私たち的には死んでないんですっ!」と、
こないだも事件がありましたが…^^;
そういう状態ではないです。

死んだあとも、
女たちはちゃんと埋葬の準備ができずに墓に入れられたイエスのために、
安息日が明けた朝に死者を弔うための準備の香油をもって墓を訪れます。


すべてが
「救世主などではなかった」
「こわくなって逃げた」
「イエスは死んでしまった」
「イエスのことより自分の保身だ」という状態を示しています。


ではどうして、そういう弟子たちが、
生きているイエスを知っている人がたくさんいた時代に、
イエスは神の子であり救い主(油そそがれたもの=メシア=キリスト)だと,
殉教の死をかけてまで宣教できるようになったのでしょうか?


まず、確かに死んだのに、復活してびっくりしたから…
そして壁を抜けたり一緒に食べたりの生活のあと
40日後に目の前で天に上げられたから…
ペンテコステに自分たちに聖霊がくだり、
無学な者に聖霊によることばと復活の力が与えられたから…
それ以外にどういう説明ができるでしょうか?



さて、私は別の宗教からキリストに乗り換えた派です。
私にはパウロほどではないにせよ、神秘体験がありました。
全部受け入れました。
そうでなければ信仰を替えませんでした。
イエスさまが十字架の死をもって私の罪を購ったということと、
そして死にとどまらず復活なさったことがわからなければ、
私はイエスを主とは言えませんでした。


4年半前に召された夫も
「(イエスを)信じる者は死んでも生きる」というみ言葉によって救いを得、
そのことばに頼って闘病し、死の間際までちゃんと、ものすごく立派に生き続けました。

それは信じる者には絶えず復活の力が与えられるからです。
死んだら天国で永遠に生きるのだという恵みにとどまらず
一瞬一瞬生きる力です。
困難にあっても迷っていても、主によって生き続ける力が与えられます。
そしてその生き方は世の中にあって光となりえます。

クリスチャンは主によって自分が購われたことが真実だと知っており、
復活の力を与えてくださるのもまた主の復活によるのだと身をもって知っています。




キリストの復活と死者のよみがえりについては
パウロもコリントの人に向けてこう言っています。

コリント人への手紙第一 15章12-20節

「さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。 もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。 すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」