惑星的。

惑星的。

僕たちはどこから来たのか、どこにいるのか、どこに向かうのか。

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日韓関係が悪化している。「徴用工」の問題、韓国の「ホワイト国」指定解除、そして慰安婦問題。「なぜ韓国はいつまでも過去を掘り返して日本に難癖をつけてくるのか?」と思っている人も多いだろう。

たとえば徴用工の問題。日本政府はスジ論で「韓国は日韓条約ですべての請求権を放棄したはず」と主張する。一方で、「国家間で請求権放棄を決めても、(国家と個人は別の主体だから)個人の請求権は消滅しない」という意見(たとえば宇都宮健児・元日弁連会長)もある。慰安婦問題についても、日本の保守派には「軍が強制した証拠が本当にあるのか」「他国も同様のことをやっているのに、なぜ日本だけが責められ続けるのか」といった思いがある。これらは、それぞれに、厳密に吟味され議論されるべきことだと思う。

 

でも、僕はちょっと違う視点から考えてみたい。

これだけこういう問題が尾を引くのは、どっちが正しいかという議論以上に、韓国の多くの人たちが「日本政府の中心メンバー(や多くの日本国民)が、あの戦争で日本が韓国に対してやったことについて本気で謝罪したり反省したりしていない」と感じているからではないだろうか。

だとしたら、いったい、なぜそうなのか。
 
あまり公然と言われないことだけれど、それは要するに、「あの戦争を推進した当時の支配層が、そのまま今の日本の支配層として居座っているから」なのではないか。
たとえば安倍首相は、満州国の産業政策を指揮し東條内閣で商工大臣をつとめた岸信介の孫で、岸を尊敬し遺志を継ぎたいと公言している。麻生太郎財務相は、戦前、まさに多くの朝鮮人徴用工を炭鉱で働かせていた麻生財閥の御曹司だ。自民党の中枢には、連綿と、戦前の支配層の末裔が居続けているのだ。
 
これは、よく考えればおかしなことだ。日本は戦後、国民主権の民主主義国家になったはずで、戦前の華族制度はなくなったし、特権階級などいるはずもない。選挙で選ばれたはずの有力政治家が、なぜか戦前からの(ということは明治維新以来の)支配層の流れを組むというようなことが、なぜ起きてしまうのか。その詳細は省くが、事実としてそうなっている。
そして、そういう人たちが日本の政治を動かし、教育内容を決め、外交を行ってきたのだから、あの植民地獲得戦争を本気で反省するはずがないし、学校教育でも本気でそのようなことを教えるはずがない。心ある教育関係者の働きで、ある程度は戦争の実相は伝えられてきたものの、基本的には「戦争はよくない」「軍部の独走が悪かった」というだけの話になっており、(天皇制も含めた)戦前戦後の支配層の連続について深く考えさせることもない。自分たちが主権者であるはずなのに、自分の国の権力システムやその成り立ちについて深く知らされていないのだ。だから国民も、なんだかわけが分からず、マスコミに流されて周辺諸国に対していらだちを募らせ続けるだけになってしまう。
 
日本の戦後体制は、二重構造になっている。建前としての民主主義・国民主権・平和主義・基本的人権の尊重と、実態としての、戦前からの支配層を米国がコントロールするという政治的力関係と。その二重構造を理解しない限りは、私達庶民はいつも混乱させられ、支配層のいいように操られるだけだ。
戦後70年あまり。もうそろそろ、そんな不毛なことはやめて、建前と現実の政治を一致させるべき時ではないだろうか。
改憲をめざす自民党の議員たちは「基本的人権をなくすべき」「天皇を元首に」などと言っているが、それは「建前を変えて実態に合わせろ」ということだ。アメリカに強制された国民主権などやめて、戦前のように一部の支配層が牛耳る国にしよう、と提案しているわけだ。私達、主権者である庶民が、それを受け入れるのかどうか。それが現在の改憲論議の本質だろう。
僕はむしろ、「建前」と矛盾する不健全な「実態」の方を変え、理想主義的な民主主義・国民主権・平和主義・基本的人権の尊重という理念に、本当に血を通わせることこそが大事ではないかと思う。それが、私達一人ひとりが幸せになる道だし、戦前の「亡霊」から解き放たれる道だろうと思うのだが、どうだろうか。
僕たちは、隣国のふるまいにあれこれ言う前に、自分自身が主権者であるところの、この国の在り方を見つめ直すべきなのかもしれない。
 
 

久々にブログを書く。

 

安倍昭恵さんの不思議

安倍昭恵さんという人は不思議だ。エコ系のイベントなどに顔を出し、その方面のつながりが多い。スピリチュアルなことにも関心があるようだ。ホームページには、さまざまな社会活動が載っている。知人でも彼女と接触のある人が複数いて、とても自然体でいい人だという。たぶん、そうなんだろうと思う。
彼女は、夫と違い自分は脱原発で「家庭内野党だ」と言っていた。それで、安倍政権の原発推進や改憲に疑問を持つ人は、彼女が内側から何か変えてくれるのではないか期待したりする。それはちょうど、「平和の党」を標榜する公明党が政権にいることによって「内側から」政権の右暴走にブレーキをかけてくれていると支持者が信じてるのに似ているかもしれない。でも現実には、公明党は政権内にとどまって自民党の選挙を支えて安保法成立に貢献したし、昭恵さんの脱原発姿勢にもかかわらず現政権の原発推進は止まっていない。少なくとも家庭生活と政治は別、ということなのかもしれないけれど。安倍昭恵さんは右翼的「愛国」教育をする小学校の名誉校長になったりしているのも気になる。

いったいこれはどういうことなのか。公明党の「平和主義」はさておき、エコロジストであり社会活動家としてのアッキーは、国家主義・ファシズムには寛容なのだろうか。

多くの人が、脱原発派は左翼で、エコロジストはリベラルだと思っている。日本の環境運動は水俣病など反公害運動から始まったことも影響しているかもしれない。でも、実はエコとファシズムは接合しうる。脱原発派の安倍昭恵さんは、ファシストではないかもしれないが、夫の右翼的思想に実はそれほど違和感を持っていない可能性がある。

 

ナチスの環境思想

そのことを考えるには、ナチスドイツの例が参考になる。ナチスドイツは環境保護を掲げていたし、ヒトラーは菜食主義で、神秘思想家シュタイナーが始めたバイオダイナミック農法がナチスの農業政策に影響を与えていた。ナチスが掲げた「血と土」というスローガンは、大地との結びつきを強調すると同時に、「血」の重視つまり民族主義的排外主義も含んでいた。そして戦後ドイツの環境運動や緑の党は右派から始まり、反原発運動も当初は保守の運動だったのだという。(「ナチス環境思想のインパクト ー ドイ ツ 環 境 運 動 と 緑 の 党 一」) 

 

「血と土」というスローガンは恐ろしい。どうすれば、そっちに行かずに、多様性を許容する方向に向かえるのか。分かれ目は、どこにあるのか。あるいはなぜ昭恵さんは、右翼的な夫に順応できているのか。

 

エコロジーと国家主義の関係

エコロジーと国家主義(全体主義)は、どういう関係にあるのだろうか。

エコロジーは、人間と地球の関係についての考え方・スタンスだ。つきつめれば、地球の主人公は人間ではなく、多様な生命はそれぞれに価値があり、響き合って共存していくべきだ、ということだろう。

国家主義やファシズム、全体主義は、人間界のあり方についての考え方。要は個人より国家の方が大事だ、というものだ。国家のトップにいる人たち(天皇とか元首とか政治家とか)が全体をコントロールし、国家の利益になると思えば庶民の命を危険にさらして戦争もやる。ナチスも戦前の日本もそうだったし、かつてのソ連や北朝鮮も実は同じだ。安倍首相も、そういう戦前のような日本の社会秩序に憧れがあるように見える。

 

そうした国家主義的な秩序は、エコロジーとは相反するものだと僕は思う。エコロジーをつきつめれば、人も民族や貧富の差にかかわらず、それぞれ命として対等であり、誰が偉いということはなく、支え合い響き合って共存していくべきだということになる。だから、人間社会の中に偉い特権階級がいること自体、エコロジーと矛盾するはずなのだ。それにそもそも国というのはヒトが作った架空の存在で、いわば「群れ」の代替物だ。そのために生命を賭けるなど、あほらしい話なのだ。命がけで群れを守る動物もいるだろうという人もいるだろうが、同種の動物間でそんな争いをするのはヒトとチンパンジーくらいなものだ。エコロジーをつきつめれば、国家主義やファシズムではなく、クロポトキン安藤昌益が説いたような相互扶助的なアナキズムにつながっていくはずなのだ。

でも、それでは支配層は困る。特権的な、「偉い」人たちの存在を正当化する必要がある。だから、つじつまを合わせるために、「天皇」とか「偉大なドイツ民族」とか、何か超越的な価値を持ち出して人間界の秩序の正当性を示そうとする。

エコスピ・神道・国家主義

日本ではどうだろうか。実は昨今、日本ではエコロジカルなスピリチュアリズム(「エコスピ」)とでもいうべきものが広がっていて、そこでは神道が自然と共生するシャーマニズム的な思想だと持ち上げられたりする。でも、そこにはさまざまな誤解が入り込んでいる。今の神社や神道は、明治時代に人為的につくられた国家神道を経由していて、もとのものとかなり変わってしまっているし、そもそも神道というのは、民間のシャーマンを禁止して、精霊や神とつながる役割を天皇や祭司が独占することで生まれたもの。シャーマニズムとは似て非なる宗教なのだ。

 

個人がそれぞれに自然と深くつながっていくことができれば、ファシズムや全体主義、国家主義とは違う、新しい時代の心のよりどころになっていくはずだ。それは大和王権ができる前の縄文人や、白人国家ができる前のアメリカ先住民たちの、自然と交響する精神のありようとも重なっていくことだろう。

 

どこの国も「闇」を抱えている。
日本は、戦前の「闇」が酷かった。美化するような国ではなかったのだ。
満州傀儡国家。憲兵。特高。思想弾圧。特務機関。満鉄利権。アヘン貿易。財閥と右翼の関係。731部隊の人体実験。従軍慰安婦。
アメリカも闇の深い国だ。プルトニウム人体実験。軍産複合体。CIAの謀略。NSA。ユダヤとの関係。
ロシアも、イスラエルも、中国も、底知れない闇を抱える。
一方で、比較的風通しがよく、オープンで、「闇」の少ない国もある。北欧諸国とか、ブータンとか、コスタリカとか。
一般に、権力とカネの集中が激しいほど、そして権力が国民に強圧的であるほど(あるいは軍が強いほど)、闇は深くなる。
日本は今、新たな闇を抱え込もうとしている。秘密保護法。武器輸出。日本版NSA。プルトニウム。
どんどん闇を深め、格差を広げる道を選ぶのか。
その流れを食い止め、オープンで風通しのいい国への道に向かうのか。


ISISにつかまったという湯川氏の民間軍事会社は、秘密保護法とセットで作られた日本版NSCのもとに作られつつあった、戦時中の児玉誉士夫のような「特務機関」であったのではないかとの指摘がある。(「世に倦む日々」
もしかしたら官房機密費あたりから出たカネで、元フリーターの湯川は中東に通っていたのではないか。湯川のブログでは、田母神や元外交官、元自衛官らとの「打合せ」が行われていたことが書かれている。

だれか、全部洗い出してほしい。
日本を戦争に引きずりこんだのは、226事件の青年将校にカネを渡してたきつけた資本家であり、大陸で戦争を起こすべく謀略を重ねた関東軍や特務機関などであった。
外交により平和を保つ国には、諜報機関の謀略も、特務機関もいらない。そんなものをつくらないでほしい。闇の深い国にしたくないのだ。
また終戦の日を迎えた。

僕らは学校で、悪い「軍部」が暴走して戦争を起こし、日本人もアジアの人達も皆ひどい目にあった。それで戦後は平和主義の憲法をつくった、と教わった。今もそれは、大筋では間違っていないと思っている。
いっぽうで今の政府や国民には、「日本は悪くなかった、あれはアジアの平和を守るためで、侵略ではなかった。日本軍も立派だった、その名誉を汚すような奴はサヨクか中韓の回し者だろう」などと考える人が多くなっているようだ。この人達の論は、「自分たちの国は正しい」という結論が先にあって、それを支持する材料を集める感じがある。それにこういう論は、戦争を直接に知る世代が少なくなるにつれて広がってきたところもある。

では、ほんとうのところはどうなのか。
僕が戦争のことについて本当に考えるようになったのは、911テロへのアメリカの報復攻撃からだった。飛行機がハイジャックされてビルに突っ込んだことの「報復」として、なぜか遠いアジアの最貧国アフガニスタンが爆撃され、さらにその後、あまり関係なさそうなイラクも攻撃された。日本はそれに賛成し協力した。
テロという犯罪行為に対して、犯罪者を処罰するのが当たり前だろうに、アフガニスタンやイラクという「国」を攻撃し、政権を転覆させ、アメリカの意のままになる政権を据える。この様子を見、アメリカ政府高官の関わる会社が「戦後復興」を受注したこととか、イラクが産油国でアフガニスタンには石油パイプライン計画があったことなどを知るうち、「この戦争はビジネスではないか?」という疑いが生じてきた。それで、「では日本の戦争はどうだったんだろう」と調べ始めた。
いろいろな本を読んだ。いろんな人が、いろんなことを言っていた。軍部の独走、天皇が果たした役割、メディアの扇動、世界大恐慌による閉塞感と青年将校の決起、欧米の帝国主義への対抗上やむをえなかったとする説、日露戦争のときに道を誤ったとする説・・・。どれもそれぞれに、そうだろうなと思い、シンプルに「これが原因」と言えない複雑さに、頭が混乱した。
そんな中で出会った、薄い一冊のブックレットがあった。戦前生まれのドキュメンタリー映画監督・高岩仁さんの「戦争案内」。読んでみて、目からウロコだった。226事件にカネを出していた財閥の存在。満州の農作物をめぐる利権。そこには、日本の「あの戦争」も、裏にはやはり市場開拓や資源獲得を狙った大資本の画策があったことが、データとともに書かれていたのだ。
著者はフィリピンの歴史学者に、こう言われたという。
「日本の歴史書や歴史教科書をたくさん調べましたが、今まで日本が行なって来たアジアに対する侵略戦争の張本人をすべて軍人や政治家として描いています。しかし基本的に軍人や政治家は金で操られた操り人形の役をしたにすぎません。戦争を必要として計画して金で軍人や政治家を操って莫大な利益を上げてきたのは、財閥・資本家たちですよ。しかし日本の歴史書には、このことはどこにも書いてありませんね」と。
この小冊子を読むと、日本の戦争もビジネスだったとわかる。そして今、集団的自衛権容認や武器輸出容認などの動きが、経団連の後押しで行われている意味も見えてくる。敗戦で憲法は変わり、日本の支配層の上にアメリカが君臨するようにはなったけれど、財閥や官僚や政治家などの支配層も、天皇の権威で統合するやり方も、実は変わらなかった。過去と今は、つながっているのだ。

高岩さんは数年前に亡くなり、彼の映画もあまり上映されなくなり、この「戦争案内」も入手困難になった。それでも、図書館横断検索(http://calil.jp)で探せば、いくつかの図書館には置いてあることがわかる。ぜひ探して、読んで、そしてその内容を広めてほしいと思う。



「戦争案内」の紹介記事(書いてる人は、なんか左翼系の党の人らしいけど^^;)

ちょっとした骨折で入院している。
同じ病室に、Nさんという老人がいる。歯が抜けていて、うまく喋れない。背骨の骨折と肺炎を併発し、入院してきたときは痰がからんで呼吸するたびに異音が。酸素吸入に点滴、排泄はおむつ、自分で食事もできない状態。痛みのひどい日はずっと唸っているし、なにかあれば自分でナースコールボタンを押せずに「もしもし、もしもし。。。」「先生、先生。。。」と声を上げ続ける。注射されると「殺される~」と叫ぶし、時々わけのわからないことを言っていて、どこまで正気なのかもよくわからない。点滴の針を勝手に抜く。ベッドに味噌汁をぶちまける。
それでも看護婦さんたちは辛抱強く看護を続けるのには脱帽する。「はい、ご飯ですよ~」と、まるで赤ちゃんに接するように。

Nさんだって、昔は一人でいろんなことができたはずだ。息子さんが時々来るから、家族を養っていたのだろうし。しかし今では、病室内で一番手がかかる患者。

人は老いる。大学教授だろうが、社長だろうが、いつしかNさんのように赤児のようになり、あたりをはばからず奇声を上げるようになりうる。年を重ねるにつれて地位が上がり、収入も上がり、それなりに業績を上げて認められるだろうが、その先にこのような時間が用意されているとしたら、人間界でのそうした達成に何の意味があるのかとも思えてくる。
たとえば、美味しい野菜をつくって多くの人を養った人。医師として多くの人の命を救った人。科学者として画期的な発見をして、人類の知見に新しいピースを加えた人。普通に会社勤めをして妻子を養ったり、主婦として子供を育てた人。そういうさまざまな人生には、もちろんその時の意味や意義があるのだけれど、しかし最期に振り返ったときにこの世に存在できてよかったと思えるのは、どのような生だろうか。

そして、これまでの人生を振り返ってどうのということより、自分で自分の世話ができず、意識が朦朧として身体の自由もきかなくなったとき、今その状態で生きていることの意味や喜びや張り合いはなんだろうかとも思う。
たぶん、Nさんを見ていて僭越ながらそう感じてしまうのは、身体的状況というよりも、意識の不自由さや混乱具合から来るような気もする。もうちょっと達観しているようなところがあれば、こういう老い方もあるのかなと思えるかもしれない。

人は老いると、赤児に近づくという。天真爛漫な赤児に近づくのならいい。しかし何事かをなしとげ、人からも尊敬されるようになった人は、特に男性に多いが、その分自分を特別な存在と思いプライドが高くなる。プライドの高い赤児ほど始末の悪いもはないだろう。手がかかるくせに、高飛車。Nさんがそうだというわけではないけれど、たまにそういうお年寄りを見かける。

せめて自分は、何事かをなしとげることができたとしても、あるいはできなかったとしても、余計なプライドをまとわず、天真爛漫な赤児のような、達観した年寄りになりたいと思う。