ヤーハンが言うにはこの森すべてが彼のものらしい。
 だから、森の中にある私の村も、畑も、村人も、私自身も彼のものだそうだ。
 そんな突拍子のないことを言う彼を私は大好きだった。
 ヤーハンはいつも湖のほとりで釣りをしている。
 釣れたところは一度も見たことないが、会うたびに釣った魚の大きさを誇らしげに語ってくる。
 今日も一度もあたりがこない竿を湖に向け話し出した。
「それは蛇より細長く、熊より大きかった。俺はそいつを力の限り釣り上げ、木の枝にぐるぐる巻きつけ、焼いて食ってやったのさ。」
 そう言いながら大きく竿を上下させた後、竿に噛み付くふりをした。
「味は…そうだな、なかなかジューシーだったぞ。皮がパリパリでうまかった。」
 おまえにも食わしてやりたかったなと、ちゃかした声で言う。相変わらず顔は見えない。
 ヤーハンに始めて会ったのは1年ほど前だ。私が道に迷い森の中で泣き喚いているところに現れ、村まで案内してくれた。
 次の日、どうしてもお礼が言いたくて、森の中をうろうろしていると彼が現れ、湖を指して言った。
「俺に会いたければ、ここに来い。いつでもいるぞ。でも、必ず一人で来いよ。俺は恥ずかしがりやさんなんだ。」
 それから毎日彼のところへ通いつめているが、一度も素顔を見たことがない。
 彼はかならず木のお面をつけている。目と口と鼻だけ穴があけられたお面は木目のせいか老婆のように見える。
 昔、村の木彫り細工店から貰ったそうだ。(きっと彼のことだから盗んだんだと思う。)
 一度、ヤーハンにお面をつけている理由を聞いたこともあった。彼は少し考えた後、はずかしがりやさんなんだ…と言い、そのまま一言も発してくれなかった。
 それ以来、私は怖くてお面をつけている理由を聞いていない。
「おい、聞いているか?」
 ヤーハンが心配そうにこちらを見ていた。私は反射的に「うん。」と返した。
「それでな、川の近くに巣を作ったツバメのふーちゃんとヨーちゃん。あの2羽の子が今日巣立つ予定なんだ。」
 見に行こうぜ。そう言いながら彼は私を手招きした。
 この森すべてが彼のものというのは嘘ではないと思う。
 その証拠に彼はこの森で知らないことはない。
 野いちごの場所も、ウサギの巣穴も、熊の寝床もすべて知っている。
 きっといつも自慢げに語る釣果も嘘ではないだろう。
 だから時々怖くなることがある。ヤーハンが言うには私の村も私自身も彼のものなのだ。
 私が割ったお皿の枚数も、私がおねしょしていた年も彼ならわかるかもしれない。
 そう思うと気味が悪くてたまらない。
「ほら、見てみろよ。ピーちゃんとチーちゃんがもう飛び立ってるぞ。」
 私の思いを露ほども知らないヤーハンは無邪気な笑い声を上げながら指を指している。
 指された方向には、二羽のツバメが右へ左へ、上へ下へと急がしそうに飛んでいた。
 二羽とも先週見た時より一回り大きくなっている。
 そんな中あることに気がついた。クーちゃんだけが飛んでいない。心配になりヤーハンに問いかける。
「ヤーハン、クーちゃんは?」
 あそこだよ。さされたのは巣であった。しかし、いるのは親のふーちゃんとヨーちゃんだけのようだった。クーちゃんの顔は見えない。
「クーちゃんの姿…見えないよ。」
「巣の中に隠れてるんだよ。よく見てみな。オレンジの顔が見え隠れしてるから。」
 目を凝らすと確かにクーちゃんの顔が見え隠れしているのがわかる。
「クーちゃんはな、飛ぶのが怖いんだよ。一度も飛んだことがないからな。だから、応援してあげないといけないんだ。」
 ヤーハンはそう言うと、「頑張れー。頑張れー。」と声を張り上げた。
 私も負けじと声を張り上げる。
「クーちゃん頑張れー。」
 私たちの声に反応したのかはわからないが、クーちゃんがひょいと顔を出してくれた。
 応援する声にも一層力が入る。
 ふーちゃんもヨーちゃんもチッチッチッピヨピッピヨと声援を浴びせた。
 クーちゃんは大きく羽を羽ばたかせた。
 しかし、飛び出さなかった。羽をしまうと巣穴の中に隠れてしまった。
「今日はだめみたいだな。また明日こよう。」
 ヤーハンが力なく言う。私は彼の飽きっぽいところが嫌いだ。だから、つい反抗してしまう。
「でも、クーちゃん顔を出して羽まで広げたよ。もう少し応援しようよ。」
「今日はもう時間なんだ。」
 そう答えたヤーハンは太陽を指差した。後30分もすれば隠れてしまいそうだ。
 ヤーハンはいつも太陽が落ちそうになると、いそいそと森の奥へと帰っていく。
 夕食の用意をしなきゃいけない…そう言っていたのを思い出す。
 たいていの食材は村から盗んでいく。村のものは彼のものだからだ。
 よって準備にそれほど時間はかからないらしい。それでも日が昇ってるうちに帰らないと作ることが出来ないという。
「お前も早く帰れよ。また道に迷っても助けてやんねぇぞ。」
「もうヤーハンの助けが無くても一人で帰れるよーだ。」
 恥ずかしさのためか語尾に力が入る。
 ヤーハンはホント気をつけて帰れよと言うと森の中を走り去っていった。
 見送る背中は瞬く間に小さくなっていく。
 私は踵を返し、巣の方を見つめ、また来るねと小さく零してから歩き出した。

 ベットに体を滑り込ませる前に、私は毎日日記をつけている。
 ヤーハンと出会ってから書き出したこの日記には彼との思い出が詰まっていた。
 パラパラとめくる。ページが進むにつれてだんだん悲しくなってくる。
 私は彼のことを知っているようで知らない。寝床も知らないし、夜何をやってるのかも知らない。もちろんお面の下も。
 私が知りたいことは何一つ教えてくれなかった。
 窓を開け夜空を見る。雲ひとつ無い空に星が瞬いている。
 今日みたいな日は願いが叶うかもしれない。
 そう思うと自然に胸の前で手を組み、目を瞑っていた。
「お星様、私の知らないヤーハンを教えてください。ヤーハンが知っている私を教えてください。」
 目をあけると、そこには赤い尾を引いた流れ星があった。
 それは今まで見たことがないくらいほど長く、長く尾を引いていた。
 願いが叶ったような、そんな気がした。
 唐突にそれが落ちてくるまでは。
 ものすごい音と共に衝撃が襲った。
 ベットまで飛ばされた私は急いで窓まで駆け寄り外を見る。森が燃えていた。
 初めにヤーハンが、その後にクーちゃんの顔が浮かんだ。
「急がなきゃ。」
 そう漏らすと私は赤い森へと走った。
 森の入り口は思ったよりも綺麗だった。動物が騒ぐ声や木々が燃える音が聞こえなければいつもと変わらない。
「ヤーハン。」
 そう叫びながら奥へと進んだ。焦げ臭い匂いが私の鼻を刺激する。
 徐々に赤く染まった森が見えてきた。ヤーハンと会ういつもの湖はこの奥だ。意を決して中へと入る。
「ヤーハン。」
 叫んだ声は木々が燃える音にかき消される。白い煙が喉を刺激し熱が私の肌を襲った。
 ヤーハン…2度目の問いかけは思ったように声が出ない。
 赤くなった森へ数歩入っただけで、身動きが取れなくなってしまった。
 それでも懸命に…最後に力を振り絞って叫ぶ。
「ヤーハーン。」
 そのまま目の前が暗くなった。
 顔を上げると、人の頭が見えた。見慣れたヤーハンの頭だ。
「ようやく気がついたか。相変わらずとろいな。」
 私を背負ったヤーハンは言葉とは裏腹に優しい口調だった。
「歩けるか?」
 うん…と返し、降ろしてもらう。周りを見渡すと森は先ほど見た時よりも赤く燃えていた。
 しかし、不思議と息苦しくなく熱くもなかった。
「しっかし驚いたな。お前がここにいるなんてよ。何しにきやがったんだ。」
 その言葉で思い出す。
「クーちゃんは?クーちゃんは無事なの?」
「大丈夫。ほらここにいるぞ。」
 そう言って、ヤーハンは彼の首元をさした。クーちゃんが顔を覗かせる。
 よかった…安心すると涙が零れ落ちてきた。
「馬鹿。泣くやつがあるかよ。ホント泣き虫だな。」
「だって、心配だったんだもん。」
 そう泣きじゃくる私の頭を軽くたたいた後、ヤーハンはおもむろに手を出してきた。
「手…だせ。はぐれたらまずいだろ。」
 差し出された手に触れると強く握られた。それが少し嬉しくて私も強く握り返す。
 ヤーハンのお面が赤く染まっていた。
「急ぐぞ。」
 しばらく歩いてからヤーハンは私を後ろから突き飛ばした。
 驚き、振り返ると彼の下半身が燃える大木の下敷きになっている。
 人の焼けた嫌な匂いが漂ってきた。
「ヤーハン、大丈夫?」
 駆け寄ると彼は俯いたまま答えた。
「大丈夫だ。それよりお面を。」
 ヤーハンが指を指した方向にお面は転がっていた。
 急いで取りに行く。
 お面を拾うと唐突に思ってしまった。もしかしたらヤーハンの顔が見れるかもしれない。
 私はヤーハンの顔を覗き込むようにお面を渡した。
 彼と目が合う。ヤーハンの顔は酷く焼け爛れていた。
「あーちくしょう見られちまった。」
 引いた私の方を見ずにヤーハンは言う。
「まあ、見られたもんは仕方がない。小さい時にやっちまったんだよ。」
 お面をつけるとヤーハンは私の方を見つめた。私も答えないといけない。
「それでも、私はヤーハンのこと大好きだよ。」
 そっか…と恥ずかしがりながらヤーハンは言うと、首元からクーちゃんを取り出し渡してきた。
「そいつを連れて先に行け。湖にボートがある。それに乗って火の当たらないところへ行くんだ。」
「ヤーハンはどうするの?」
「俺なら大丈夫。この森は俺のものだ。必ず生き残る。」
 そう言いながらヤーハンは親指を立てた。それから彼は恥ずかしそうに続けた。
「そういえば…まだ名前を聞いていなかったな。」
 1年近く彼と一緒にいるが彼に名前を教えた記憶がなかった。彼の問いかけにつき物が落ちたような気がした。
「サクラ…。」
「サクラか…いい名前だな。また会おうサクラ。」
 そう言ったヤーハンを背に私は走り出した。
 彼の言ったとおり湖には1隻のボートが浮かんでいた。
 中には食料や水が入っている。
 私はボートに乗るとクーちゃんに話しかける。
 「もし生き残ったら一緒にヤーハンを探そうね。」
 ゆっくりとボートを漕ぎ出す。
 森は今迄で一番力強く燃えていた。

 どれだけの月日がたったのかわからないが、森は以前のように青々と茂っている。
 野いちごの場所もウサギの巣穴も熊の寝床も全部知っているけど、ヤーハンだけは見つからない。
 森でわからないことはないけど、ヤーハンの居場所だけはわからない。
 だから今日もクーちゃんと一緒に叫ぶのだ。
 「ヤーハン。」 終