私の「信じていたというけれど」(7月2日)の記事に
キリスト教徒の方がコメントをくださり、
そこで一冊の本を紹介してくださった。

「隠されたる神」(山形謙二)

中古本ならさほど高くはないので、
さっそく取り寄せて読んでみた。
まだざっとしか読んでいないのだけど、
趣旨のようなものは飲み込めた。

病老死や突然の災害や障害などの不条理について、
それは神の領域だから自分には問えない
という趣旨の事が書かれていて、
おおまかな所は同じことをいってらっしゃると
読んだが、

キリスト教においては
やはり最後は納得に至るように
できているのではないかなという感想を持った。

ーーキリスト教を批判するのではないので、
ご了承いただきたい。
ただ長年信じてきた教えなので
自分なりに、どういうことだったのか
総括する意味で考えている。。

神が創られたこの世界のことは神に任せる
と書かれていて、
他力信仰のような形になってはいるが、

山形さんだけでなく、
キリスト教全般に言えるのかもしれないが、
不条理に遭遇した時、
苦しみに意味を持たせようとしている点が
垣間見えた。

神はこの苦難を通して
自分に何を学ばせようとしているのかと考えたり、
あの世へ行ってから
天国といういい目にあうので一時の辛坊だ、
というような考え方が見え隠れしているのだ。

そこにあるのは、
最後はやはり自分の納得
ということではないだろうか。
キリスト教界全体の納得というような。

最後には救いがある・・
メシア論というのはそういうことだろう。

ヨブ記の事も言及してあったが
詰めが甘いという感が否めなかった。

ヨブ記はハッピーで終わるという結末にも
それが表れている。

ある方の解釈なのだが、
度重なる苦難によって回心したヨブが
最後は幸せに暮らすという結末部は、
あとから加えたものではないかといっている。
本筋とはあきらかに違っていて、
なにかとってつけたような感じがする。
キリスト教会があとから付け加えたのではないかと。

最後の方では、ヨブが、
神をこの目で見たと告白する部分があるのだが、
これは何を意味しているのかというと、
神に立ち返るということでいいと思うのだが、
問題はそのあと。
神に立ち返った者には
幸福が待っているというストーリーだ。

ここがキリスト教徒の方と
自分の大きな違いだ。

先の解釈した方もそうだが、私も、
ヨブは納得しないところに納得する
というところに至ったのではないかと思う。

晩年のヨブは安らかに生きたのではないかと
推測するが、それは
あの世に行ってからいい思いをするからとか、
神の意図がわかったからということではなく、

自分はわからなくていいのだということが
腹の底からわかったからではないだろうか。

イエスも十字架上で
最後はあなたのご意思に任せます、
といって亡くなっていった。
そこには、意味を求めたり
天国へ行けるから一時の辛坊だ
というような発想は微塵もない。

イエスの生き方と
のちのキリスト教の教えの矛盾する点はここにある。
イエスを祀り挙げているにもかかわらず
イエスと同じように生きようとしてはいない。

出来事に意味を持たせたい
納得したい

というのは、おそらく
人間の欲望なのだ。

ーーかくいう私もメチャクチャ
納得したくてこうして書いているのだが・・

キリスト教が一見他力のように見えて、
自力の宗教と考えられる所以はここにある。
今回のことでそれがますます明確になった。

人間の側からすると
面白くもなんともないが、
出来事に意味などないというのが真実だ。

いや。

もしかすると、
作り手である神にはあるのかもしれないが。
しかし、その意味は人間にわかることは
まったくもって不可能だ。

私たちはただ与えられたものを
ハイ、そうですかと受け取るだけ。

救いのない結末
悲惨なる人生・・

辛い事だがそういうことだ。

しかし、

このことが腹の底からわかるとき、
ここにどっしりと坐る時
なにか清々しさといった心持が
やって来る事だけは確かだ。