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岩波ジュニア新書です。

何人かの作家の方が、若い頃の自らの読書体験を綴ったものです。


この中から、読みたいなって思った作品もあったので、ぜひ探して読んでみたいと思います。



人間にとって言葉は、意志や感情などを伝える重要なコミュニケーション手段の一つだ。

だから一生懸命に言葉を選ぶ。

そうやって言葉をあらためて観察してみると、ぼくは時々危惧する状況に遭遇する。


うわべだけの言葉が昨今多くなったように思う。

入魂された言葉ではないのだ。

だからぼくは、できるだけ言葉が自分の伝えたいこととしっくり合っているかどうか考えるようにしている。

そして、選んだ末に発するように心がけている。


そう言霊を込めて。



言葉の発信方法も大切にしたい。 

今、メールからツイッターにいたるまで、コンピュータテクノロジーの発展の恩恵を受けて、多様な「発信」方法が登場し、リアルタイムで言葉を交換できるようになった。

日本にいても世界の人と会話ができる。


そして言葉だけに依存しなくても、パソコンや携帯電話で動画などの映像を同時に送ったり、喜怒哀楽を示す「マーク」を使ったりなどが容易にできるようになった。

その一方で、「発信方法」としての言葉は簡略化され、短くされてきているように思う。

人間が使う言葉が変わることは当然である。

それ自体をぼくは否定しない。

しかし、ぼくも多用するこれらの「発信方法」の中で使われる言葉に、なにか粗雑なにおいを感じるのだ。

もっと丁寧に言葉を使えないだろうかと。


話し言葉も書き言葉も同様に、自分の意志や気持ちをほんとうに反映している言葉を丁寧に選びたい。

加えて、相手のことを「思いやる」ための言葉になっているかどうかも忘れないようにしたい。



― 『光と影の世界に生きるぼく』 伊藤精英 著




文字で伝えられる情報量は、音楽と比べても、映画と比べても、悲しいくらい少ないです。

それはパソコンで保存した時のファイルのサイズを見ても明らかです。

でも、そのおかげで「余白」が生まれます。


例えば、「見渡すばかりの草原が広がっていた」と書いたとします。

これを読んだ人の頭の中に思い浮かぶ光景は、同じ「草原」だとしてもさまざまです。


アメリカのプレーリーを想像する人もいるでしょうが、菜の花畑でも水田でもすすき野原でも、草原には違いありません。

どんな光景を想像するかは、読者に委ねられています。


映画ですと、映っているものがすべてです。

水田が映っているのに、無理矢理プレーリーを想像するのは無理があります。

でも、小説はそのあたり、自由なのです。


書き手が必要と思えば細かく書き込みますが、話の本筋と関係なかったりすると、さらりと書き流し、あとは読む人の想像に委ねます。


ぼくは作者が書いただけではまだ、作品は未完成なまま「折りたたまれている」状態で、誰かに読まれてはじめて作品として展開し、完成すると、感じています。



読者の立場から言えば、自分が読むことで自分オリジナルの物語ができるんだと考えるとたのしくなりませんか?

ぼくが、このことを自覚するようになったのは、自分が書き手のひとりとして世に出てからですが、後知恵で考えると、ぼくが10代で読んできたすべての本・物語は、やはり、その時その時の自分のニーズにあわせて、自分なりに「完成させた」ものである気がします。



― 『物語は、自分が完成させる』 川端 裕人 著




心が疲れたり苦しくなったときは、あの子ども部屋でそうしたように、そっと目を閉じるのです。


多すぎる情報や知識で押しつぶされそうになった心を解き放ち、再び心の扉を開くために。

これはいくつになっても、魔法のような効き目をあらわします。



初めて図書館の扉を開ける時の感覚は、ディズニーランドのチケットブースを通るときに良く似ています。

それぞれ違うテーマを持ったエリアが手招きする前で、どこから回るかを選ぶ時のワクワク感、ただ一つ違うのは、それがしんと静まりかえった空間であることでした。


仲良しの友だちと一緒に行く時も、普段のように大声で笑ったりせず、秘密を知った者同士のようにそっと目配せしあう。

教室や校庭の喧騒とは全く違う厳かな雰囲気は、もうそれだけで私たちを大人になったような気にさせたものでした。


誰にも邪魔されずに歩き回り、気になった本を手に取っては開き、ゆっくりと眺めること。

図書館は私にとって特別な場所になりました。

私を取り巻く外の世界で何が起こっていても、ひとたび入ればまるで深い海の底にいるように、時間はゆっくりと流れるのでした。



― 『ワクワクが止まらない!』 堤 未果 著




子どもの頃、新しいことに向かおうとするとき、大人からはいつも「頑張ってやりなさい」「頑張ったらできるようになるよ」と言われ続けた。

でもどんなに頑張ってもできないことはたくさんあったし、できなくて悲しい思いやくやしい思いをしたり、ひどいときには人生のどん底でもがき続ける日もあった。

むしろそんな日のほうが、私の人生では多かったかもしれない……。


大人になった私はいつのまにかそんな日々や感情があったことを忘れ、そして生まれて五年しかたっていない娘に、何かのたびに「頑張れ、頑張れ」と言い、「頑張ればできるよ」と励ましてきた。

けれど娘もまた、頑張ってやってもできないことにこれからたくさん出会っていくんだろうなと思うと、あふれる涙を止めることができなかった。


大人になるということは、できなかったことができるようになっていくと同時に、生きていればできないことも失敗することもある、そんな現実を知っていく日々でもあるのかもしれない。

絵本からそんなメッセージをもらった瞬間だった。



昨今の風潮として、情緒豊かな子どもに育つためにと、読書に力をいれる人がいるけれど、果たしてどうだろう。


読書をその目的に使うのには、やはり違和感がある。

「カレーライスが好き。だから食べたい」と同じように、「本が好き。だから読む」でいいのではないだろうか。

読書に副産物を求めるのではなく、出会うきっかけをつくるだけで十分という気がする。



ただ、何かこれというものに出会ったとき、揺さぶられるこころを持っていることのほうがとても大切なような気がする。

だから一ヶ月に六十冊本を読んで「つまらない」とも「おもしろい」とも感じられない読書をするぐらいなら、一ヶ月にたった一冊しか読まなくても、そこにうごく自分の感情があるなら、そっちのほうがすてきだという気がする。



― 『読書なんて大キライ!』 中井 貴恵 著




自分なりに好きなことを見つけて、ひとすじに打ち込める人生は幸せ。

自分が周りにどう見られているか、なんてつまらないことは気にしなくていい。

夢や情熱に自ら限界を設ける必要はない――。


「将来の夢」なんておよそ見つけられそうになかった高校生だったけれど、キュリー夫人からそんな人生のエールを受け取り、おおいに勇気づけられたのでした。



生きていくなかで、思いもかけない困難や悲しみがめぐってくることがあります。

大切な人との別れに、心が押しつぶされそうにもなるでしょう。

そんなとき、一冊の本が、支えになるかもしれません。


ページを開けば別世界へ行けます。

つかの間でも悲しみを忘れられたり、本のなかのふとした言葉に慰められたりすることもある。

私はこれまでそうした本の力に救われてきました。



東日本大震災は、かけがえのない多くの命を奪いました。

東北から関東の広い地域を襲った大津波は、生きのびた人々の心にも深い傷を残しています。

原発事故による放射能汚染も起きました。

家族を失い、家を流され、故郷を離れざるを得ない人たちがいます。


失われたものはあまりに大きい。

けれど、災害が奪うことのできないものもあります。

一人ひとりの胸にある愛する人の面影や思い出。想像の翼。未来をつくる力。


心の中にしまってある本もまた、失われることはありません。

目には見えないし、おながいっぱいになるわけではないけれど、とても大切なもの。

苦しいときの支えとなり、前へ歩みだす助けとなる。

そう祈っています。



― 『いつでも帰れる場所』 畑谷 史代 著




川に潜った瞬間の水の揺らぎ、山の木々の間から垣間見た空の青さ、裸足になった足裏に感じる土の温かみ、みんな物語でした。

わたしたちは、勝手に物語をでっちあげて、河童になったり、異星人になったり、原始人になったりしました。

勇敢な騎士にも、家出少女にもなりました。

自然の中で、たっぷりと“ごっこ遊び”に興じられたことは、今のわたしが書く物語の底の底を支える力になっていると思います。



何て、すごい人だろう。何ておもしろい物語だろう。

そうか、物語ってこんな風に、人間を作り出せるんだ。

今、ここにいない誰かを今ここにいるように感じさせてくれるんだ。


わたしは、ホームズを読み、他の海外ミステリーを読み浸るうちに、さまざまなものを見、さまざまな音を聞き、さまざまな人々に出会いました。

霧に沈む十九世紀のロンドン、アメリカの片田舎に建つ旧い屋敷、咲き乱れる薔薇の匂い、摩天楼、ワイングラスの触れあう音……本を読むことは世界を知ることでした。

わたしの世界があらゆるものに繋がっていると知ることでした。



日本の片田舎の何の取り柄もない少女。

わたしは、ずっと自分のことをそう感じていました。


自己顕示欲も自尊心も人並み以上にあるくせに、自分の可能性を少しも信じることができなかったのです(でも、十代ってそんなものですよね。等身大の自分をちっきり認めるのは大人になってからで十分。枠からはみ出したり、寸足らずだったり、そんな自分と悪戦苦闘できるのが思春期の特権なんですから。と、この歳になったら何でも言えますよね。当時は足掻きに足掻いていたのに)。



自分を信じきれないという思いは閉塞感へと繋がります。

わたしは厚い壁に取り囲まれ、どこにも行けないような気分になっていました。


本はその壁が壁でなく、扉なのだと教えてくれたのです。

扉は開きます。

開いた向こうには、わたしの知らない世界が広がっていました。

扉を出て、一歩、一歩進めば、さらに別の世界が待っていました。

それを希望と呼んでも差し支えないでしょう。

本は、わたしの世界は閉ざされているのではなく、開かれ繋がっていることを教えてくれたのです。



― 『本によって、世界に触れた』 あさの あつこ 著