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西さんの、エッセイ。
2冊出てたの、両方借りてきた!

めっちゃおもしろかった。
ざっくらばんやし、めっちゃ友だちになりたいとか思ってしまった。

共感、めちゃくちゃしたからね。



なんやったら…

「今近所で飲んでるから来いや~」
「……なんやったら行くわ」。
そしてそう言う時、彼は百パーセント来ません。
つまりその気は無いけど、はっきり断るのも面倒なときに、大変重宝するんです。

「今度うちの店に絵描いてや」
「……なんやったら描くわ」
描かない。

「今度家遊びに行かせて」
「……なんやったら呼ぶわ」
呼ばない。

まったく失礼な話です。
しかしその心無さが当時の私たちの雰囲気に大変フィット、多方面でそれを連発した私たちは、皆の信用を失ったものです。


身近な人の口癖というのは、いつの間にか自分の耳になじみ、なんとなくそれを聞かないと落ち着かなかったりします。
つまり、結局は心地いいのですね。
でも、それが例えば初対面の人となると、どうしても耳につき、時にはイライラしてしまうようなものもあります。


雨が降ると、ビニール傘を持っていこうか、お洒落傘を持っていこうか、迷いますよね。
出先に忘れてきてしまうことが多いので、ビニール傘だと大して悔しい思いをせずに過ごせるのですが、お洒落傘だと、とても悔しい。
かといって、いつまでもお洒落傘を使わないと、何のために買ったんだ、ということになり、それはそれで……。


小説というのは、自ら能動的にその世界に入らなければ、その物語を摑むことは出来ない、と思っていました。
例えばとても綺麗な赤色や、エロティックな肢体や、耳に響く轟音によって惹きつけられ、それに釘付けになり、衝撃を得るような、そんな類のものでないと、思っていました。
しかし、当時の私は、モリスンの紡ぎだす言葉に、文字通り打ち抜かれ、五感の全てを奪われ、ほとんど精神的に、常に勃起しているような状態になりました。


一見、ポジティブなようですが、ネガティブの針がふれてそうなっているだけ、デブが体重計に乗って針がひとまわりして五キロ、というのと一緒です。


わたしが幼少を過したカイロの空気は汚くて、衛生状態も本当に悪かったんです。
そんな中、生水をごくごく飲んでいたし、得体の知れない路上販売のお菓子を食べたりしていました。
それでも、私は病気一つしませんでした。
なのに、ここ最近、花粉症だアレルギーだ熱だ神経痛だなどと、体を壊し気味なのは、大人になってガタが来たというより、空気清浄機だ浄水器だサプリメントだなどと言って、自分が本来持っていた抵抗力を壊してしまっていたのかもしれません。


こういうことが日常茶飯事なのは、きっと先ほど言った西家の悪しき血だと思うのですが、そのかわりもうひとつ、良い血を受け継いでいます。

「このくらいで済ませてくれて良かった」と、思う気持ちです。
大恥をかいても、「これくらいで済ませてくれて良かった」。
財布を落としても「これくらいで済ませてくれて良かった」。

母がいつも言うのです。
「加奈子、それくらいで済ませてくれて良かったんやで」。


この気持ちは散財したり、楽しいことばかりしているときだけに限りません。
例えば人間関係で嫌なことが続いて、人をうらやんだり妬んだりする気持ちが多くなってきたとき、同じような気持ちになります。

「こんな嫌な感情ばかり持っていたら、いつかもっと大きな辛い出来事が起こる」
そうわかっているのに、黒い感情は止まらず、鬱々と心に溜め込んでしまいます。
その人のいいとこを見つけよう、気持ちを切り替えよう、と思うのですが、うまくいかない。

そういうときに例えば最近のように財布を落としたり、病気をしたりすると、「ああやっぱり」と思います。
そして、ホッとします。

「これくらいで済ませてくれて良かった」。
嫌な気持ちや鬱々とした気持ちは霧散し、代わりになんだか恥ずかしいくらい友人に会いたくなったり、両親に感謝したりします。


今まで東京駅などで何度か相撲取りを見たことはあるのですが、裸でがっぷり組んでいるところを見るのはもちろん初めて。
土俵が思ったより小さいなぁ→それに比べて力士はでけぇなぁ→ということは土俵の中に留まるのって難しいなぁ→……相撲って、大変やなぁ!
という当たり前のことに気付くことが出来ました。


歩くのも好きですが、自転車に乗っていると、なんとなくワクワクします。
あれ、なんでやろ。
漕ぎ出す瞬間の「行きまっせ~」いう感じや、鍵をかけるときの「到着~」いう感じ、それらは私の気持ちを高揚させ、悩んでいることやムカついていることを、少しずつ薄くしていってくれます。

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