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けっこう読みたてほやほや。

2,3日前に読み終えた本です。


やっぱり、中村航さんの作品好きだな。

久しぶりに、すごく甘酸っぱいっていうか、キュンっていう気持ちを味わった気がする。


読みながら笑顔になるっていうのかな。

読んでて、なんだか、自分の中学校の頃の気持ちとか、実際の思い出とか、疑似体験してるみたいだった。

こんなことがあったら、すごくステキだろうなって。

でも、これ、きっとあるんだろうなって。


遠いところの話じゃなくて、わたしにもあるような、そんな近いところにある話だなって思ったから、余計にキュンキュンしてしまいました。


癒やされました。



あの頃、僕らの日々は、コップの中のカオスのように揺らいでいた。

不良はワルぶり、おしゃれさんは前髪を整え、普通の者は背伸びをし、面白男子はおどけた。

部活小僧やスポーツガールは基礎体力を伸ばし、サブカル者やガリ勉君は己の道を行く。

十何人かの男子と十何人かの女子は、一つの箱の中で、沸点を忘れた液体のようにもみあっていた。


記憶できることって限られてるだろ。

なのに貴重な脳のリリースの一部を、おでんの歌が占有してるってのは、もったいない話だよな。


門前さんが忘れちゃったら、この歌は人類の記憶から永遠に失われちゃうんですよ。

この歌があるのとないのじゃ、人類の記憶の総体の向く方向が、ほんのちょっと変わりますよ。


彼は財布から千円を出し、王手、という感じに僕の前に置いた。

このあと僕はその千円と自分の数百円を出して、二人分のお勘定をまとめてする。

一緒にランチを食べに行くとき、僕らはそういうシステムをとっている。

門前さんとしては、「一応先輩面したいから、みそ汁ぶんくらいはおごらせてくれよ」ということらしい。


記憶ってのは、と僕は思う。

それは律義で気まぐれな神さまが、意志とは無関係に管理している。

いつか必ず口の中で消えるフリスクとは違って、覚えておきたいと思っても忘れてしまうし、忘れたいと思っても覚えている。


お勘定を済ませ、僕らは店を出る。

ごちそうさまでした、と、みそ汁分のお礼を言うと、おう、と、みそ汁分の返事が返ってくる。


何かが始まるとき、今がそのスタート地点だと意識できることなんて、ほとんどなかった。

そのとき始まったと思っていたことは、後から考えてみると、もっと前から始まっていたりするし、始まったと思っても実はまだ何も始まっていなかったりする。


快晴だった名残が、流れる風や空気に淡(うす)く含まれている気がした。

結局この季節が一番気持ちいいんだな。

まだ少し暑くて、でも涼しくて、そろそろ寒いこの季節のことが、結局僕は一番好きなんだな。


目の前の晴海通りは渋滞していて、ヘッドライトを点けた車が連なっていた。

交差点の信号が赤になると、歩く人々の足が順番に止まる。

電線にとまるスズメのように、人々はばらばらと集まり留まる。


いいねえ、とか、かみかつって何だ、とか言いながら、順に頼むものを決めていった。

教科書を忘れた中学生みたいに、僕らは二人で一つのメニューを眺めている。


引き出されることなく、けれども十年間ちゃんと潜伏していた記憶が甦るのは、“思いだす”という言葉でいいのだろうか。

それとも、“忘れていた”なのだろうか。

“覚えている”と“忘れていた”の間には何があるのだろうか。


「あと、うちらのポケットには、“ほのかな恋心”が入ってたよ」

うはははは、と僕らは声を合わせて笑った。

他にも例えば“切ない片思い”や、“柔らかな痛み”や、“覚えたてのラブソング”が中学生女子のポケットには入っていたらしい。


あの頃は会うのに理由なんか要らなくて、朝の八時半になるとお互いが隣に座っていた。

今では会うのに理由がいるし、会うことの意味をちゃんと考えなければならないこともある。

でも基本的に、会いたいんだったらいつでも会えばいいと思う。


十年を短縮して短いトピックを並べれば、人生は箇条書きのようなものになる。

それはかつて隣にいた人と、今目の前にいる人との空白を、一行一行、埋めていく。


肉体が若返るというのは、冷めたお茶が自然に熱くなるようなことと同じで、時間の流れに逆らうようなことだ。

成長とともに刻まれた個体の記憶は、若返った後、どこに行ってしまうのだろう・・・・・・。


分裂、と私は思った。

分裂して増えた後の個体も、それは元の細胞が分裂しただけだから、元々の本人自身だ。

一匹が二匹になっても、その二匹とも、最初の一匹自身。

二万匹が四万匹になっても、彼らはすべて最初の一匹そのもので、君もあなたも彼も彼女も、私自身だ。

自分が死んでも、自分自身は、まだまだたくさん生きている。

命って何だろう・・・・・・。

生きるとはどういうことなのだろう・・・・・・。


自分がどうしてこんなものを書くんだろう、と、私はときどき考える。

この物語にタイトルはないけど、つけるとすれば“終わらない物語”だ。

決して終わることのない物語だから、私は安心して書くことができる。

終わらないことに安心するために、私はこの物語を書き続けているのかもしれない。

何かが終わったり、何かを選んだりするのはとても怖いことだ。


「奈良とか京都とかって、何度か行くからいいのよ」

「修学旅行とかで若いころに初めて行くでしょ?

そのときって漠然と行って、漠然と帰ってくるんだけど、それから十年経ってもね、京都とか奈良って変わらずにいてくれる場所が多いから」

「二度目に行くと、覚えていないこととか忘れていたこととかが、甦ってくるってのもあるし、自分が変化しているから、同じ場所でも見え方が違うってのもあるし」


「多分ね、青木くんは他の男子に焚きつけられて、その気になっちゃったんじゃないかな。

修学旅行ってお祭りみたいなことだからね、青木くんはきっと、みんなの期待みたいなものを代表して、告白しに来たんだよ」

新幹線は再び動き出す。

車両の形に区切られた空気ごと、人々は東京に運ばれていく。


誰かが誰かの特別になるというのは、とても不思議なことだ。

特別というのは順位の問題ではないし、こだわりや好みともあまり関係ない。

運命といったら違う気もするし、縁というのもぴんとこない。

きっと偶然や必然を孕みながら二つの物語が交差し、誰かは誰かの特別になる。

時間や距離を巻き込んで、綺麗な気持ちや、欲望や、執着や、理性が、混ざり合うようにうねる。


繁華街を歩いていると、ふと音が止んで自分が薄まり、景色だけが後ろに流れていくような感覚になった。

街で神社を見つけると手を合わせてみたりして、でも何を祈ればいいんだろう、と思ったりする。


多分、何も始まっていないし、何も終わっていないのだ。

特別な気持ちは弱まることなく、“僕を奔らせるもの”から“僕が扱わなきゃならないもの”に変わった。


小学生男子だけでなく中学生男子も、意外なところで女子に会うと、それだけで好きになってしまうらしい。


触れるくらいまで接近すると、匂い立つような野生の迫力に少し怯んだ。

気強い生命の意志と、諦観と、麗らかさと静謐さと、それらを全部含んだ矜持のようなものが、角先から蹄にまでみなぎっている。


過ぎ去る景色を、飽きずに眺め続けた。

けれど本当は景色を見ていたんじゃんくて、色を見ていただけだった。

胸をからっぽにして外界を見ていると、景色というのは本当は、ただの色なんだとわかる。


混ざり合い流れる色を、眺め続けた。

流れていく。

色は混ざり、猛スピードで流れていく。

過去から未来へ、時間が流れるみたいに。


「でも教わる時より、教えるときのほうが人間ってのは成長するんだよ」


「こんだけ多様な価値観がある中でな、ある物事とかに対して、全肯定とか全否定とかはあり得ないだろ。

あるのは優先順位だけなんだよ。

だからいつも正しい優先順位を考えて、仕事でも人生でも、何が大切なのか理解するんだよ。

やりたいことを先延ばしにしすぎないようにな、人生の一時間一秒を大事にして、毎日どんな日も、人生を賛美できるといいよな」


「自分で開拓した仕事ってのは可愛いけどな、それに固執しちゃだめだよ。

自分ができるようになったことは、どんどん自分の手から放して、自分は新しいことに進むんだよ。

それを続けると、自分でも思わなかったところまで行けるよ」


「そりゃあ、お前、あれだよ。

女子ってのはめんどくせーだろ?

女子はおれらよりも、めんどくせーものを、自分の中にいっぱい抱えてるんだよ。

だからまあな、そういうことから守れるといいよなって話だよ」


こうやって話していると、人生は箇条書きのようなものにも思える。

だけど項目と項目の間は、こうやって笑い合って埋めることができる。