〈「空気読め!」それより部下の気持ち読め!〉
思わずニヤリ、だ。
今年の「サラリーマン川柳」人気投票で一位に輝いた。
どうやら「空気読め!」と叫ぶ上司が、ことのほか多いらしい。
場の空気を読めない人を指す「KY」なる言葉も、昨年あたりから流行している。

先ごろ亡くなった国語学者の大野晋(すすむ)さんは「僕には『KY』を『空気が読めない』とはどうしても読めない」と憤り、略語とも呼べぬ言葉がはやる社会は「危機的」だと憂えていた。
同感である。
だが、こんな言葉の命はどうせ短い。
それよりも私が「危機的」だと心配するのは、空気を読めない、あるいは読まない者をまるで悪者扱いするような最近の風潮だ。
確かに、その場の流れや雰囲気をつかむことは大事だろう。
しかし、「KY」に象徴される視線は、その空気に乗って大勢に従うことだけが善であり、異を唱えることなど許さない、と言わんばかりである。
そこに潜むのは、自分を殺しての保身と、少数者の排除。
長いものには巻かれろと言っているに等しい。

特に気になるのが、この風潮が若者たちに広がっている点だ。
社会に意異議申し立てをする若者の姿がめっきり減ったのも、このことと無縁ではあるまい。
空気といえば、山本七平著『空気の研究』を思い出す。

軍部などを例にとって時代や場の「空気」という「絶対権をもった妖怪」の正体を追っている。
いわく「徳川や明治の日本には『空気』に支配されることを『恥』とする一面があった」「ところが昭和に入るとともに『空気』の拘束力は強くなり、個人の責任を免除するとさえ考えられるに至った」
大切にするあまり、がんじがらめにされる。
平成の空気は、ますます拘束力を増しそうだ。
だから、あえて言う。
空気は読むな。

【080726 中日新聞編集局デスク 編集局長 加藤幹敏】


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考えさせられる記事でした。

わたしも楽しんでKYって使うからな・・・笑

別に使うことはいかんとは思わんし、それが今の世界の象徴にもなってるわけゃから。


確かに空気を読むことって大事。

でもそれは、自分の気持ちを押し殺すこととは違うし、多数の意見に乗っかることとも違う。

本当に大切なことって、その時々で変わってくる。

ちゃんと自分の意思をしっかり持ちたい。

流されない自分だけの意思を持つ。