「しみず・・・てんせい、さん?」
 たいていの人間は俺から名刺を受け取ると、こういった反応を示す。相手に聞かれないように心の中で溜息を洩らすのももう慣れてしまった。
「清水天晴と書いて、きよみず、あっぱれ、と読みます。なかなか初対面の方だとちゃんと読んでいただけないんですが」
 そういうと相手は決まってばつの悪そうな顔をする。そしてこう続けるのだ。「これはとんだ失礼を」と。失礼だと思うなら目の間の自分に直接「なんとお読みすれば?」と聞いてくれてもいいだろう。名刺に読み仮名を入れていないのは、そんな相手の反応を敢えてみようとする俺のいたずら心に他ならないのだが。
 その日の午後になって、突然ひとりの男が訪ねてきた。30がらみのやせぎすのその男は、くたびれた背広を着てワイシャツにはしわが寄っていた。よく見ると革靴は泥だらけだ。俺はそっと窓の外に目をやる。そうか、とうとう本降りになったのか、などと暢気なことを思い浮かべていた。
「直接ここに来られるということは、何か差し迫ったものがおありのようですね」
 俺は静かに言った。言い忘れていたが、ここは俺の経営する探偵事務所の応接室だった。応接室と言っても粗末ないすとテーブルが並んでいるだけの粗末なものだったが。この部分を見てもらうだけでも事務所の金まわりが知れてしまいそうだ。
 駅前とは反対側、それでもそれなりの賑わいを見せている通りの中でも特にこれといった特徴のない雑居ビルの2階に事務所はあった。国道に面しており、看板も大きく掲げている。『きよみづ探偵事務所』と。
 この看板を最初に掲げたとき、近所をたまたま通りかかった知り合いが親切に教えてくれた。
「きよみづじゃなくて、きよみずじゃないのか?」
 この人は何を言っているのかと思ったが、すぐに合点した。つまり『す』に濁点か、『つ』に濁点か。似ているようで大きな違いである。ためしにパソコンや携帯電話でこの名前を『つ』に濁点で打ってみてらいたい。・・・そう。もまともに変換されない。事務所開き初日から暗澹たる気持ちになった俺の胸中を察してほしい。
「あの・・・」
 ようやく男は重い口を開いた。喉の奥から絞り出すような声だった。なかなかはっきり言おうとしない男の態度に業を煮やし、助け船を出すことにする。
「まずはご用件をお話しください。大丈夫。個人情報は守りますし、ご費用のことだってちゃんと相談して決めていきますから。あなた、こういうところは初めてでしょう?」
「いえ、そういうのではないんです。実は、知人の紹介でここに来たわけでして。もしかしたらお調べいただけるかな、と思ったんです」
 男のその言葉に俺は姿勢を崩して見せた。相手に警戒しなくてもよい、というシグナルである。
「ほう、それは有難いですね。お知り合いの方のお名前は何とおっしゃいますか?」
 視線を下げていた男の顔が不意に正面に向き直った。度のきつい黒縁メガネの奥の眼光が一瞬鋭くなった気がする。
「知り合いというのは正確じゃありません。身内、といった方がいいかもしれない」
 男の言葉には妙な緊迫感が感じられた。何かに追い立てられるかのような、そんな雰囲気である。
「・・・それは、誰です?」
 ここは俺の事務所だ。俺が気圧されてどうする。そう思いたかったがこの男のただならぬ雰囲気も無視できない。俺は男の言葉を待った。手のひらにはじんわり汗をかいている。一体誰なのか。嫌な予感がする。
「実は私、こちらで働いていらっしゃる鈴木はるかさんの恋人なんです」