ほころびは小さいと思っていたが、気がついた時には収拾がつかないくらい大きなほころびになっていた、隆志と彩夏の関係は、長い時間かけて築いていたものが、あっという間に崩れた、まさにそんな感覚であった。

 ケンカの理由はいろいろである。関係がうまくいっている時は相手の短所はえてして気にならないものだが、うまくいかなくなった今となっては些細なことも気になってしまう。そのたびに喧嘩になるのだ。関係は改善の兆しなどあるはずがなかった。

「どうせあなたには解りっこないわよ」

 最近の彩夏の口癖である。

「そりゃ分るもんか、何考えてんだよ」

売り言葉に買い言葉。売られた喧嘩を買っている状況であった。

「大体彩夏と俺とじゃ生活レベルとか全然違うじゃないか。どだいうまくいくはずないんだよ」

「それはあなたが勝手に思い込んでるだけでしょ」

「いいや違うね。分かりやすく言うと彩夏は薔薇だよ。それも真っ赤な。俺なんか花屋の店先なんかに絶対並ばない、名前のない雑草なんだよ」

 嫌味をこめて言ってやった。雑草魂。どこかのプロ野球選手が言い始めた言葉だっただろうか。努力し、挫折し、それでも這い上がったものの、再び挫折しかかった冴えない男。名前のない雑草。実にうまい比喩だと隆志自身思った。それを聞いた彩夏も負けじと言い返してくる。

「隆志、あんた何言ってるの?雑草だってちゃんと名前があるのよ。名前のない植物なんてこの世に存在しないんだからね」

「屁理屈じゃないか、そんなの」

「私は真実を言っただけよ」

「何が真実だよ、偉そうに」

 喧嘩はしばらく続いた。以前は彩夏の素直なところが好きだったのにな、と内心残念に思っていた。彩夏の隆志に対する思いもたぶん似たようなものだろう。どの道、長くは続かないだろう。隆志は漠然とそう思っていた。

そしてその日、ほぼ1月ぶりに会うことになった二人は、喫茶店で待ち合わせしていた。

「私たち、もう別れましょう。これ以上はお互いのためにならないわ」

 隆志は、飲みかけたコーヒーを思わず吹き出しそうになった。彩夏の突然の言葉に動揺する。

「・・・急に何言い出すんだよ」

「急じゃないわ。私なりに時間をかけてよく考えて出した答えなの」

 ついにこの時がきた。隆志はそう思った。

「なんかこう、漠然とした不安というか、このままでいいのかなって思ったのよ」

「世の中不安を抱えてみんな生きてるんだ。不安がない人なんていないじゃないか」

 そんなことをいくら言ったって、彩夏との関係が元に戻るわけではない。隆志には解っていた。

「私はずっとあなたが変わってくれるのを待っていたの。でも変わらなかった。もう我慢はしたくないのよ」

 彩夏はそう言うと、静かに席を立つ。隆志は何も言わず、どっしりと椅子に腰かけたままだった。彩夏の手には二人分のコーヒー代が書かれた伝票が握られていたが、敢えて止めようとしなかった。大富豪の娘と平凡を絵に描いたようなサラリーマンの自分。どちらがおごるかなど、議論にすら全くならないのだ。

 妙に明るいカフェの店員の声に続いて、ドアベルの音。この瞬間、溝口隆志26歳の恋は終わりを告げたのであった。

 考えてみれば、学生時代を合わせて約4年という歳月は、長かったのかもしれない。彩夏にしてみれば、もっと早く「次の答え」が欲しかったのかもしれないな、と思った。今頃気がついたとしても、遅かったけれど。

 要するに自分に甲斐性がなかった。そういうことである。とやかく今考えたって始まらない。彩夏は彩夏の新しい恋を掴んでくれればいいと思っていた。そして隆志自身も、これでやっと次の一歩を踏み出せるのかな、と思っていた。

 隆志は何気なく外をみる。見覚えの赤のアウディが走り去っていく。

「何だ、そういうことか」

 隆志はつぶやいた。

アウディを運転しているのは間違いなく彩夏のはずだ。じゃあ隣のスーツ姿の若い男は誰なんだろう。

 そう考えて、ふっと笑い声を上げた。そんなこと、もうどうでもいいことだ。隆志は喫茶店を出ると、携帯を手にとってダイアルを表示させる。

 相手は3コールで出た。

「あ、俺だけど。今から行ってもいいかな?」

 雑草は雑草らしく、生きていくしかないのかもしれない。


おわり