隆志が彩夏と出逢ったのは、大学でのことである。最初から気が合う二人、という仲ではもちろんなかった。ゼミで一緒になっただけ。ただそれだけの関係であった。
隆志にとって彩夏の第一印象は、名家のお嬢様、というものだった。調布の瀟洒なマンションに一人暮らし。いわゆる高根の花である。何の時だったか忘れてしまったが、彩夏が写真を持ってきていて、何の気なしに見せてくれたことがあった。隆志はその写真を見て度肝を抜かれた。
そこに映っていたのは彩夏と中年の男性、そしてその娘であろう人物と3人で撮った写真。ただのスナップではないかと思われるかもしれないが、そうは問屋がおろさない。なんと言っても彩夏は名家のご令嬢である。
写っていた彩夏以外の人物に見覚えがあったのだ。何かのテレビで見た記憶のある、「アラブの石油王」と、「アラブの石油王の娘」に間違いはなかった。
「なんでこんなすごい人と知り合いなの?」
「ただの遊び友達だもの。私も時々向こうに行ってるわ」
アラブの石油王の自宅に気軽に遊びに行く感覚の人と出逢ったのは、後にも先にも彩夏が初めでである。
そんなぶっ飛んだお嬢様なのに、偉ぶったりすることは決してなかったし、他の学生ともそれなりにうまくやっていた。ある時、ゼミの打ち上げで居酒屋を訪れた際、なぜなのかは分からないが飲めないお酒を浴びるように飲んだ彩夏を、自宅まで送って行ったことがあった。
「…飲めないのに無茶するなよな」
そう愚痴りながらも、調布のマンションへと到着する。なんだか別世界だと思いながらエントランスを通り抜けると、フロントが現れた。まさに現れた感覚である。まるでホテルじゃないかと思うようなたたずまいに居心地の悪さを感じてしまう。すべてにおいて隆志の常識の範囲を逸脱していると言っていい。それは決して悪い意味ではなく、ようするに住む世界が違いすぎるといったことだけである。
「もぅのめられなひのらぁ・・・」
酔っぱらった調布のお嬢様は暢気なものである。きっとゼミ仲間は、隆志と彩夏を二人きりにしてやろうという魂胆だったのだろう。しかし、隆志にとってはありがた迷惑以外の何物でもなかった。
部屋に何とか到着し、何事もなくマンションを後にした。何かしようなどという気持ちには到底なりそうにない。ホテル並みの豪華さと、フロントには常駐のスタッフ。ビジネスホテルか寂れた旅館にしかとまったことのない隆志にとって、どうやったらここに住めるのか不思議でならなかった。
翌日、ゼミ仲間がやけによそよそしい態度をとってくることは、隆志自身予想の範囲内であった。ストレートに、「昨日、あれからどうしたの?」などと不躾な質問するものは一人もいなかったが、あからさまにそう言いたげな目をしているので、『目は口ほどにものを言う』という諺を思い出してしまった。
教室に入ると、彩夏の姿を確認することができた。彼女を確認するのは容易だ。常にひとりでいる人を探せばたいてい間違いがない。人間というのは群れで行動するもので、二人以上で行動することが常である。隆志はわざと彩夏の視界に入らないように席を選んだ。
「何そんな後ろにいるんだよ。こっち来いよ」
とあるゼミ生が声をかけてくる。おせっかい焼きで有名な奴だ。確か彼は昨日の打ち上げには参加していない。特に強制されるものではないので、参加は自由なのだ。
「早くこっちに来いって。隣空けてやるから」
彼には申し訳ないが、隆志はそこに行くことをためらった。こともあろうに彩夏の真後ろではないか。みんなの視線が隆志に集まり始める。ここは意を決して流れに任せるしかないのか。
次の瞬間、中年の男性が教室に入ってきた。教授である。そして始業を知らせるチャイムが鳴った。突っ立っているのは隆志一人になってしまった。
「君、講義を始めるよ。座りなさい」
「あ・・・はい、すいません」
仕方なく、隆志はおせっかいなゼミ生の隣、彩夏の真後ろに座るはめになってしまった。
「なあ、昨日打ち上げ、何かあったのか?」
何も知らないゼミ生が小声で聞いてくる。隆志はいや、何も。と平静を装って小声で答えて、前を見た。彼はそれ以上何も聞いてこなかったが、周りの反応は明らから隆志に注目しているようだった。
講義が終わると、誰とも話をしまいと心に決め、一目散に教室を出た。次の講義までは少し時間がある。天気もいいので大学の外に行こうと思っていた。運よく誰も声をかけてくる気配はない。
「溝口君、ちょっと待って」
・・・誰だ、気配を殺して近づいたのは。隆志は後ろを振り向いた。声の主は案の定、上条彩夏であった。
「ちょっと話があるんだ。付き合ってよ」
そう言って手を掴んで引っ張っていく。あえなく御用となった隆志だが、彩夏の態度は明らかに怒りが含まれているように感じられたので、きっとこれは昨日のことであらぬうわさを立てられ、どうしてくれるのだと詰問されるのだろう。実に厄介な話である。一般的な大学生一人が名家を相手に問題など起こしたくないものだ。
彩夏は隆志を引っ張ってあれよあれよという間に屋上にまで上り詰めた。
「こんなところに来ていったい何の話だよ」
隆志は言っている自分がおかしいなと感じながら、彩夏に尋ねた。
「昨日は、ありがとう」
「ああ、その話か。いや、別にいいよ、そんなの」
正直、怒っているようには見えない。隆志は胸をなでおろす。彩夏は感情をさほど表に出すタイプではないので、正直なところは分からないが。
「それで、お願いがあるんだけど」
「何?」
「私と、付き合ってくれないかしら」
「ああ、そういうことね。付き合うって、何かの調べ物?よかったらこの間の講義のノート貨そうか?」
「そうじゃなくて」
彩夏の声のトーンが少しだけ上がった。
「・・・あ、はい」
何か雲行きが怪しくなってきたぞ。上条彩夏は、何が言いたいんだ?
「あの…私と、付き合ってください!」
この瞬間、隆志と彩夏の交際はスタートするのであった。