ここ、空とるかね?」
一瞬、間があった。最初は自分に掛けられた言葉ではないのだと思ったからである。
「すまんが、座ってええかな?」
携帯の画面から顔を上げると一人の男が傍らに立っていた。片手に杖をつき、もう片方ではいましがた買って来たのであろう。買い物袋が握られている。
「あ・・・はい、どうぞ」
西脇和也がその言葉を発するまで男は身動き一つせず、和也の言葉を待っていた。ようやく座れる、という安堵の表情を浮かべ、「どっこいしょ」とわざとらしく声をあげて座る。
とある大型商業施設の一角に出来た、休憩スペース。日曜日ともなると、家族連れなどで賑わっている。夕方ともなると買い物客で混雑していた。休憩スペースのベンチはほとんどが埋まっている。
「ここは、年寄りには広すぎるなあ。買い物するにも隅から隅まで、歩くとなると難儀でかなわん。おたくさんみたいな若い人ならへっちゃらやろうけどな」
独り言のようにそう言うと男はわざとらしくにかっと笑って見せた。上の前歯が一本抜けていたのがみえた。和也は何と答えていいのか分からず、はあ、とだけ言った。
男の年齢はいくつくらいだろうか。着ているものは地味だが、粗悪品とは思えない。背筋は曲がっておらず、姿勢はいい方だ。むしろ和也の方が猫背ぎみなくらいである。
「お兄さん、大学生?」
男の質問に、少し戸惑いながら、また、はあ、と答えた。正直、面倒だな、と思った。年寄りの相手などしたくはなかった。
「そうかそうか。いや、急にこんなこと言うのもなんだが、もう少し上なのかとも思ったんだが。あ、気を悪くせんでくれ、落ち着いているっちゅう意味じゃから」
「別に、気にしていませんよ」
和也の抑揚のないしゃべり方は、生まれつきだ。本人はそのつもりがないのだが、人と話していると「機嫌が悪いの?」とか「怒ってる?」と聞かれることがある。弁解してもなかなか分かってもらえず苦労する。特に初対面の人には受けが悪かった。
「いや、わしの若いころによく似ておるな。人付き合いが苦手で、特に初対面の人とはなかなか話しづらいじゃろ?」
「いえ、別にそんなことは・・・」
図星だった。いましがたあった日この男にズバリ指摘されてしまうとは。「私は人付き合いが苦手です」と顔に出ていただろうか。そんなオーラを周りにまき散らしていたのだろうか。
「ところで、今、一人かな?」
男はにこやかに尋ねる。見て分からないか、と和也は少々いらついていた。
「それじゃ、その顔」
「えっ」
和也の表情が固まった。
「すまんすまん。気を悪くせんでくれ。気持ちが正直に表に出るというだけのことじゃ。いい言い方をすれば素直ってことだな」
「悪い言い方だと、嘘がつけないって言うんじゃないですか?」
和也が言うと、男はさも愉快そうにははっと声を上げた。
「物は言いようじゃな。まあ、言えとるなあ」
男はまた独り言のように話すと、表情を崩した。顔一面の皴が年齢の高さを物語っていた。
「俺、もう行かないと」
そう言って和也は腰を上げようとした。正直この年寄りと一時でも長くいたくないというのが本心である。人の欠点に付け込んでずばずば物を言う。デリカシーのかけらも見られないではないか。
「あ、そうかそうか。いや、気を悪くしたのなら謝る。しかしな」
男は一旦言葉を切った。一瞬嫌な間が開いた。
「少しは人の付き合いも頑張ろうとしたほうがええかもしれん。まあ、時間はかかるかも知れんがな」
「言われなくても自分のことはわかってますよ」
つっけんどんな言い方になってしまってはいたが、この男に今の感情を隠す必要などなかった。和也は立ち上がり、そそくさとその場立ち去ろうとした。
「まあ、待ちなさい。儂も言いすぎた。お詫びといては何なんだが」
そう言うと男は買い物袋から買ったばかりのおにぎりを一つ、和也に手渡した。和也は何か言おうとしたが、男は取り合わず、その場を去って行った。杖をつき、あれほどまで歩く事が困難だと思っていた和也は、男の身のこなしの速さに驚きを隠せずにいた。
「なんだよ、まったく・・・」
和也は不貞腐れたような顔をしつつ、男から渡されたおにぎりを見た。なにがお詫びだ。言いたいこと言ってただけじゃないか。
おもむろに「製造年月日」と「賞味期限」に目をやった。製造日は今日の朝方。賞味期限は今日の夜になっていた。何も不思議なことはないはずだった。ただひとつ、製造年は今から50年後の数字が印字されていた。
和也は下げていた目線を戻し、男が向かった先を探す。いくら足が速かろうと、店内は驚くほど広い。男の姿をとらえてもおかしくない筈だったが、運悪く人ごみに紛れてしまったらしい。
確証こそなかったが、きっとあの男は未来の自分の姿だろう。何となく分かるのだ。感情が表情に出る癖は、ずっと直らなかったらしい。男から受け取ったおにぎりを手に、和也はそっと歩き出していった。