将太の手を引いて保育園に到着する。担任の先生と簡単な申し送りなどを伝える。

「今日も帰りには妹さんがみえるんですか?」

 担任の高木先生は、笑顔で話しかけた。高木先生はこの保育所で5年以上働いているし、前にも別の保育園にいたという話を聞いている。保育士としては若手から中堅に差しかった頃という感じだろうか。園児からも人気があり、武史としても信頼を置いていた。

「そうですね。なるべく早く来てもらえるようには頼んでいるんですけど」

 武史は少しすまなさそうに話す。年末が押し迫ったこの時期、会社としても仕事量が格段に増えていっているのだ。極力残業はしないようにしたいところだが、この時期ばかりはそうも言っていられない。運がいいことに近くに武史より3つ年下の妹、水野つばさが住んでいるので帰りの時間にはつばさが将太を迎えに行ってくれることになっていた。

「パパ、今日もつばさちゃん来てくれるの?」

 つばさは将太の叔母にあたるわけだが、まだ27歳という事もあって「叔母さん」と呼ばれるのに抵抗があるらしく、将太に「つばさちゃん」と呼ばせていた。

「うん。悪いな将太。ちゃんと言う事聞いて留守番するんだぞ」

「うん、分かった。パパ、今日はつばさちゃん泊っていくかな?」

「さあ、どうかな?つばさちゃんに聞かなくちゃな」

「うん、パパもお仕事がんばってね!」

 そう言うと将太は教室の中に入っていく。武史は高木先生に宜しくお願いします、と言って保育園後にした。

 





 武史はその後普段通りに出社し、仕事をこなした。書類を作り、打ち合わせしたり、営業に出かけたりする。昼食は会社の食堂でほかの社員と同じ場所で今朝作ってきた弁当を広げて食べた。「飯島さん、いいなぁ、今度私にもお弁当作ってきてくださいよ」などと女子社員から冷やかしとも本気とも取れない言葉をかけられ、苦笑いしていたりすることもあるが、みんな悪気があって言っているわけではない事はよく知っている。

 いつ誰が言い出したのか知らないが、武史のことを『育メン』だとか、『弁当男子』と呼ぶようになっていた。そんな流行り言葉ができる前から自分は育児もやり家事もこなし、健康を考えて弁当を作るようにしていた。これからおそらくそのスタンスは全く変わらないだろうと武史は思っている。いや、正直なところ目の前のことにしか目がいかず、必死なだけかもしれなかったが。

 昼食を終えてデスクに戻ろうとした時、携帯が鳴る。表示を見ると『水野つばさ 受信メール1件』となっていた。

【お仕事お疲れ様です。今日はわたしも早めにお迎え行けそうです(3時過ぎかな?)今日は遅くなりそうですか?よければ晩御飯作って待っています。連絡ちょーだい♡】

 武史は最後の♡はつばさらしいな、と思いながら返信をする。

【ありがとう!今日は遅くならないと思うので、将太と二人で先にご飯食べていてください。うまくいけば7時半には帰れると思います。遅くなるときはまたメールします。】

 武史は返信を確認すると、デスクで書類に目を落とす。とりあえず仕事を片づけることに集中した。ふっと目線を上げると袴田部長と目があった。反射的に武史はまずい、と思った。      

袴田部長は手招きをする。

「何でしょう、部長」

「飯島君、忙しいところ誠に申し訳ないんだが」

 そこまで言うと袴田部長は言葉を切った。嫌な間である。

「今回うちでやっている新製品のプレゼンをぜひ君にお願いしたいんだが、どうかね?」

 新製品のプレゼン。その言葉をこのタイミングで聞くことになろうとは。今まで若手社員のステップアップと位置付けてきたプレゼン指令。まさに最悪のタイミングで武史のもとへやってきたと思った。新商品のプレゼンには商品に対する知識力だけでなく膨大な資料づくりと綿密なテストを繰り返さねばならなかった。そのためには何日も会社に泊まり込むというのを聞いていた。現実問題、将太のこともあるのでプレゼンの仕事を引き受けられる状況になかった。

「お言葉ですが部長、ご存じだとは思いますが、わたしにはまだ5歳になったばかりの息子がいますので、新商品のプレゼンのような大役はとても・・・」

 そう言うと袴田部長の表情が一気に険しくなった。

「飯島君、いいかね。子育てをしなきゃならないのは君だけじゃない。他にしている人はいくらでもいるのは知っているだろう。なんなら君の親御さんの家に息子さんを預けたっていいのではないかね?

 君は仕事がしたくないからそうやっていつも逃げてばかりじゃないか。今まで目をつぶっていたが今回はやってもらうよ、いいね。上にはわたしから言っておくからな」

 そう言うと袴田部長はデスクの電話をとって内線番号を押した。

「待ってください、部長」

 あまりに強引すぎる袴田部長のやり方に、武史は怒りを覚えた。袴田部長の言う子育てしている社員はいる、というのは間違いではない。同じ部署に二人子育て真っ最中の社員がいるのは確かだ。しかし二人とも定時で帰るなり、それなりの配慮がなされている。武史と違うのは、それぞれのパートナーが分担し、協力し合って育児ができるという点にある。シングルファザーとして仕事と育児を両立させているのは武史だけなのだ。

「…それで、この間の新商品の件なんですが…」

 袴田部長は相変わらずの様子で上司に掛け合っている。男で育児をするくらいなら、会社に来るな。会社にとどまりたければそれなりの相手を早く見つけるんだな。以前袴田部長からそう言われたことを思い出した。思わず拳を振り上げそうになった武史だったが、将太の顔がちらついて何とか思いとどまることができたのである。しかし、今回は分からないぞ、と思った。全身から汗が噴き出す。気がつくと武史は右手の拳を強く握っていた。袴田部長の次の一言が、武史の行動を左右することになる。

「ええ。はい。…何ですか?…そんな、まさか。わたしには、まだ何も。はい、はい…分かりました。それでは、失礼します」

 袴田部長の声は次第に沈んだようになり、明らかに覇気を無くしていた。

「飯島君、いつまでそこにいるつもりだね。早く席に戻って自分の仕事でもやっていたまえ」

 袴田部長はいらついたように武史に言い放つと、オフィスを飛び出すとどこかに姿を消してしまった。

 後で聞いた話では、新商品開発の話はずいぶん前に延期となっていたらしい。欧州経済の不透明な情勢と円高、さらにタイの洪水が会社に打撃を与えたことにより、当分の間見合わせるということであった。現場責任者の袴田部長にはその話はなく、完全に孤立していることを露呈させた格好になってしまった。

 それによって武史はこの日、残業を少ししただけでいつもより早く会社を後にすることができたのだった。


つづく