はじめまして、koike60の娘です。
すっかり時間が経ってしまいましたが、6月4日(金)17時31分、入院先の病院にて母は永眠いたしました。
最期がどうだったかを投稿するように言われていますので、母に代わって投稿します。
5月24日(月)
外来の診察の際に咳がひどくなり
主治医の先生の判断で翌日から入院となりました。
いつもなら数日待たされる入院ですがこの日は緊急用に空けてあるベッドが割り当てられたそう。
この時の母の状態では酸素吸入が必要で、
麻薬(モルヒネ)の量も増やさなければいけないため、
その副作用に慣れるためと量を調整するための入院とのことでした。
6ヶ月はもたないと言われたのもこの日...
子どもたちと孫が実家に駆けつけました。
入院頑張ってね会が急遽開かれました。
これが自宅で過ごす最後の日となりました。
5月25日(火)
入院してからはモルヒネの副作用なのか癌そのもののせいなのか、
眠気と吐き気に苦しんだようでした。食欲もなし。
かろうじてアイス(アイスボックスとガリガリくん)は食べられました。
でも咳はかなりおさまり、酸素吸入のおかげで多少呼吸は楽になった様子。
5月31日(月)
入院して7日目、血液検査の数値がかなり悪く、
いつ急変してもおかしくない状況と宣告されました。
担当のお医者さんに言われたのは、、、
・癌性リンパ管症(癌が転移してリンパの流れを食い止める)により、
心嚢液(心臓の周りの液)が溢れている。
・DIC(播種性血管内凝固)という状態になっており、
血管の中で血が固まってしまっている。
医学的知識のない私には細かいことはわかりませんが、
とにかく状況がとても悪い。余命は数週間...
個室が空いていたので個室に移してもらいました。
コロナ禍にもかかわらず、特別に父と私で面会させてもらいました。
酸素吸入しても呼吸が苦しく、少し動いただけでぜーはーしていました。
起きているのも横になっているのも辛く、母は「身の置き所がない」と。
家に帰ってから、母が残していた「お葬式に呼びたい人リスト」の方々に片っ端から連絡をとりました。
そしてその方々から母に連絡をしてもらうようお願いしました。
6月1日(火)
仲の良かったお友達と電話やメッセージ、ビデオ通話をしたようです。
個室に移って本当によかった!
6月2日(水)
物の受け渡しの際に2分だけ会えました。
酸素は手放せないですが、歩いて来てくれました。
お友達が送ってくれたビデオメッセージを見せてくれました。
6月3日(木)
私の妹2人が会いに行きました。
1人ずつ個室での面会を許されました。
今がラストチャンスということで、退院の準備も進めていました。
でも酸素濃度が90を切ることが増えてきました。77まで下がることもあったそうです。
6月4日(金)
スマホの字が見えない、手が震えて打てないとのことで、メッセージではなく朝からビデオ通話。
「昨日はよく寝れたわ、でも気持ち悪い」と言っていました。
その1時間後、病院から電話。本人がかなり苦しがり、不安だから家族に近くにいてほしいと言っている、と。
駆けつけると、寝たり起きたりを繰り返していました。
コロナ禍にもかかわらず、1人ずつとはいえ面会させてもらえてありがたい。
順番に、母本人からお別れの言葉を言われました。本人は時が近いことをわかっていたようです。
ブログのこともこの時初めて知らされました。
そのあと家族みんなで個室に入れていただき、母との時間を過ごしました。
話すのは苦しそうで意識も遠のきがちな母は聞くばかりでしたが、懐かしい思い出話をしたりしました。
アイスボックス(氷)を何度も欲しがりました。
「なんで さいごに こんなに 苦しまなきゃ いけないのよ...!」と息も絶え絶えに言う母。
母が鎮静剤を希望しました。鎮静剤を打つと、もう会話はできないと伝えても考えは変わらず。
「本当にいいの?」とためらう父に、「うん!えっ?!まだなの?!」と催促する母。
父との温度差にみんなで爆笑してしまいました。
意識のあるうちに自分で判断したかったのだと思います。どこまでも母らしい。
最後のお別れをして、鎮静剤を打ち、母は眠りました。
病院で眠る母に私が付き添っていました。
看護師さんが痰をとってくださって楽になったかなと思った矢先、母の呼吸が止まりました。
みんな再集合して病室でお別れをしました。
そして6月8日(火)、母の希望した無宗教の音楽葬を行いました。
コロナ禍ではありましたが30人ほどご友人にもご参列いただき
みんなで思い出の歌を歌いました。
たくさんの方に愛された母でした。
こちらでお世話になった皆様もありがとうございました。
母もブログで教えていただいた情報を治療に生かしていたようです。
癌と戦っている皆様のお力になれるかもと思い、このブログはこれからも残します。
すっかり時間が経ってしまいましたが、6月4日(金)17時31分、入院先の病院にて母は永眠いたしました。
最期がどうだったかを投稿するように言われていますので、母に代わって投稿します。
5月24日(月)
外来の診察の際に咳がひどくなり
主治医の先生の判断で翌日から入院となりました。
いつもなら数日待たされる入院ですがこの日は緊急用に空けてあるベッドが割り当てられたそう。
この時の母の状態では酸素吸入が必要で、
麻薬(モルヒネ)の量も増やさなければいけないため、
その副作用に慣れるためと量を調整するための入院とのことでした。
6ヶ月はもたないと言われたのもこの日...
子どもたちと孫が実家に駆けつけました。
入院頑張ってね会が急遽開かれました。
これが自宅で過ごす最後の日となりました。
5月25日(火)
入院してからはモルヒネの副作用なのか癌そのもののせいなのか、
眠気と吐き気に苦しんだようでした。食欲もなし。
かろうじてアイス(アイスボックスとガリガリくん)は食べられました。
でも咳はかなりおさまり、酸素吸入のおかげで多少呼吸は楽になった様子。
5月31日(月)
入院して7日目、血液検査の数値がかなり悪く、
いつ急変してもおかしくない状況と宣告されました。
担当のお医者さんに言われたのは、、、
・癌性リンパ管症(癌が転移してリンパの流れを食い止める)により、
心嚢液(心臓の周りの液)が溢れている。
・DIC(播種性血管内凝固)という状態になっており、
血管の中で血が固まってしまっている。
医学的知識のない私には細かいことはわかりませんが、
とにかく状況がとても悪い。余命は数週間...
個室が空いていたので個室に移してもらいました。
コロナ禍にもかかわらず、特別に父と私で面会させてもらいました。
酸素吸入しても呼吸が苦しく、少し動いただけでぜーはーしていました。
起きているのも横になっているのも辛く、母は「身の置き所がない」と。
家に帰ってから、母が残していた「お葬式に呼びたい人リスト」の方々に片っ端から連絡をとりました。
そしてその方々から母に連絡をしてもらうようお願いしました。
6月1日(火)
仲の良かったお友達と電話やメッセージ、ビデオ通話をしたようです。
個室に移って本当によかった!
6月2日(水)
物の受け渡しの際に2分だけ会えました。
酸素は手放せないですが、歩いて来てくれました。
お友達が送ってくれたビデオメッセージを見せてくれました。
6月3日(木)
私の妹2人が会いに行きました。
1人ずつ個室での面会を許されました。
今がラストチャンスということで、退院の準備も進めていました。
でも酸素濃度が90を切ることが増えてきました。77まで下がることもあったそうです。
6月4日(金)
スマホの字が見えない、手が震えて打てないとのことで、メッセージではなく朝からビデオ通話。
「昨日はよく寝れたわ、でも気持ち悪い」と言っていました。
その1時間後、病院から電話。本人がかなり苦しがり、不安だから家族に近くにいてほしいと言っている、と。
駆けつけると、寝たり起きたりを繰り返していました。
コロナ禍にもかかわらず、1人ずつとはいえ面会させてもらえてありがたい。
順番に、母本人からお別れの言葉を言われました。本人は時が近いことをわかっていたようです。
ブログのこともこの時初めて知らされました。
そのあと家族みんなで個室に入れていただき、母との時間を過ごしました。
話すのは苦しそうで意識も遠のきがちな母は聞くばかりでしたが、懐かしい思い出話をしたりしました。
アイスボックス(氷)を何度も欲しがりました。
「なんで さいごに こんなに 苦しまなきゃ いけないのよ...!」と息も絶え絶えに言う母。
母が鎮静剤を希望しました。鎮静剤を打つと、もう会話はできないと伝えても考えは変わらず。
「本当にいいの?」とためらう父に、「うん!えっ?!まだなの?!」と催促する母。
父との温度差にみんなで爆笑してしまいました。
意識のあるうちに自分で判断したかったのだと思います。どこまでも母らしい。
最後のお別れをして、鎮静剤を打ち、母は眠りました。
病院で眠る母に私が付き添っていました。
看護師さんが痰をとってくださって楽になったかなと思った矢先、母の呼吸が止まりました。
みんな再集合して病室でお別れをしました。
そして6月8日(火)、母の希望した無宗教の音楽葬を行いました。
コロナ禍ではありましたが30人ほどご友人にもご参列いただき
みんなで思い出の歌を歌いました。
たくさんの方に愛された母でした。
こちらでお世話になった皆様もありがとうございました。
母もブログで教えていただいた情報を治療に生かしていたようです。
癌と戦っている皆様のお力になれるかもと思い、このブログはこれからも残します。