日付も変わろうとするころ、山口沙織はようやく最寄り駅にたどり着いた。

電車から吐き出され、駅を出て、歩いて15分ほどのマンションへ向かう。


これも、『女の一人歩き』と呼ぶのだろうか。

毎日のことなので今更警戒心も起こらない。

時たま後ろを振り返る程度で、特に早足になるでもなく自宅を目指す。

大通り沿いにしばらく歩いていって、途中の路地を曲がったところにあるマンションが沙織の寝床だ。


いつものように路地を折れる。

そこにはぽつんと明るい自動販売機が立っていて、ここでミルクティーを買うのが習慣になっている。


今日も同じようにミルクティーを買うため、小銭を入れてボタンを押そうとしたが、運悪く売り切れていた。


― なあんだ。

がっくりしたが、久しぶりに自分で紅茶を淹れるのも悪くない。

まあこんな日もあるだろうと釣り銭のレバーに手をかけようとしたとき、気付いた。



― 後ろに誰かいる。

沙織は身を硬くした。




― しまった…。




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ここ数日、沙織は不穏な空気を感じていた。

沙織は、ある有名予備校の事務員として働いている。

今年で二年目なのだが、短大を卒業してすぐに勤め始めたので、先輩事務員よりも生徒達との方が年が近い場合がある。

浪人生の中には沙織より年上の生徒もいるくらいなので、生徒達も沙織には遠慮が少ないらしく、気安く話しかけてくれる。

一昨日のことだ。

よく話しかけてくる女子生徒の一人が、わざわざ受付に来て興味深そうに話し出した。

 「山口さんさあ、彼氏とケンカとかしちゃったの??」

 「なあに?喧嘩なんかしてないわよ。いやなこと言うのね。」 

 「えー?ほんっとーにほんと?」

いつもなら無駄話は早めに切り上げ、生徒を自習室に向かわせるのだが、この日は生徒の意味ありげな様子がどこか引っかかった。

 

 「本当よ。でも、そう言えば先週くらいから連絡がないけど……どうしてそんなこと聞きたがるの?」

 「だってさっき予備校の前でさ、25歳くらいの男の人に、山口さんのこといろいろ聞かれたから。」

 「ええ?どんな人?」

 「どんな人って…。えっとね、背は高くて、スーツ着てて、おしゃれなベージュのコートで、メガネかけてたよ。山口さんの彼氏イケメンだね。」

 「彼はチビだし、メガネもかけていないし、コートだってダサい紺色のだもの。それは私の恋人じゃないわよ。」

 「じゃあ…あの男の人、だれ?」

それは沙織のほうが教えてほしいくらいだった。

女子生徒が受付を離れたあと、同僚が声をかけてきた。

何事かと顔を上げると、いつになく真剣な顔をしている。

彼女は沙織を休憩室に連れて行き、「言うべきか迷ったんだけど…」と前置きをしてから話し出した。

彼女の話では、前日の昼食時にも例の男が現れたらしい。

沙織と連れ立って近場のカフェへ向かう際、予備校付近の公園の中から男が出てきたというのだ。

 「それが、その人背が高くて、ちょっとかっこよくてさ…それで覚えてたのよ。」

それだけではない。その男は沙織たちがカフェに入るまで、ずっと二人の後を付いてきたというではないか。

 「私達のどっちかをナンパでもするのかと思って、その、ちょっと期待してたんだけど…。でも、お店を出たときにはもう、いなくなってたわ。少しがっかりして、あと恥ずかしくなって、何となくあなたには言えなかったの。」

しかし今朝、その男を予備校の前で見たのだそうだ。

まだ開いていない校舎の玄関の前で、煙草を吸っていたらしい。

彼女は、少しの喜びと期待に胸をふくらませ、精一杯すまして男の前を通りすぎた。

男は何の反応もせず、駅の方向を見ながら煙草をふかしていた、と彼女は言った。

 「私ね、あぁ彼のお目当ては沙織さんだったのかって思ったら急に気持ちがしぼんでしまって、急いで玄関の鍵開けて、逃げ込むように館内に入ったの。あとは開館の準備やら昨日の伝票の整理やらで忙しくしていたから、あの男の人のことは忘れていたんだけど…」

先程の女子生徒の話を聞いているうちに思い出したのだ、という。

その日彼女は早番で、朝は8時頃に出勤したはずだ。

沙織は遅番だったので、時計の短針が下り始めてから出勤した。

その男は沙織の出勤を待つのを諦め、生徒に聞き込みをすることにしたのだろうか。

― なんのために?

背筋に冷たいものが走った。

更に昨日、お調子者の同僚がにやにやしながら話しかけてきた。

 「山口さん、生き別れたキョーダイとかいるんすか?」

普段なら決して相手にしないのだが、流石にきのうのきょうでは気になってしまう。

 「なんですか?何か、私のことで誰かに質問でもされたんですか?」

 「いや、写真撮られてましたよ、山口さん。」

 「写真!?」

全身に電流が走ったかのようなショックを感じる。

 「うん、デブでハゲのおっさんが、ケータイで。さっき山口さんが出勤してきたとき、玄関で。」

 「おっさんって、いくつくらいの人ですか?」

 「そこまではわかんないなあ。俺だって昼休み時間ギリギリで戻ってきたから急いでたし。それに、おっさんってデブだと若く見えるし、ハゲだと老けて見えるんだよね。てか山口さん、気付いてなかったんすか?」

 「…気付いてたら撮らせませんよ。」

 「まあそうか…。え、じゃあヤバくないすか?なんであのおっさん山口さんの写真撮ってたんすか?」

― こっちが聞きたいわ!

怒鳴る代わりに肩をすくめ、パソコンに向かって仕事を始める。

同僚は少しのあいだ沙織の傍に立ち尽くしていたが、やがて自分のデスクへ戻っていった。

沙織の仕事は捗らない。どうしても、見知らぬ男達のことが頭をよぎる。

― もっと、普段から身を守るように心がけよう。写真を撮られるなんて…

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それなのに、今日、である。

油断していた。

今まで男達が現れたのは、予備校の付近に限られていた。

自宅までは突き止められていないのだろうという考えが、警戒をゆるくした。

乗換えを何度もして、いつもより遠回りをして帰ってきたというのに。

― 駅からここまで、尾けられたんだわ。

レバーに手をかけたまま、沙織は動けなかった。

どうすれば逃げられるか、めまぐるしく考えているのだが、いい案が浮かばない。

こうしている間にも、背後から手が伸びてくるのではないか…恐怖で体がいうことを聞かない。

 「どうかしましたか」

背後の男が声をかけてきた。

びくりと肩を震わせたあと、振り返りながら「なんでもありません」と言う沙織のその腕を捉え、男は更に言った。

「山口沙織さんですね。…伊刈葉子さん、と呼んだ方がいいのかな。」

沙織は、崩れるようにその場に座り込んだ。

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男達は刑事だった。

ある青年実業家が殺された事件で、被害者の恋人であった伊刈葉子と名乗る女性の行方を追っていた。

捜査で出てきたあらゆる証拠が、彼女こそ犯人であると物語っていたからだ。

ところが、伊刈葉子という女性は存在しなかった。

彼女は偽名を使ってキャバクラで働いており、そこで被害者に近付いたらしい。

そして約1年の蜜月の後、被害者を被害者たらしめたというわけである。

伊刈葉子は、本名も、住所も、なにひとつ手がかりを残さずに姿を消した。

キャバクラの給料は月末手渡しだったため、銀行口座もわからない。

捜査は行き詰ってしまった。

長引くのか…

刑事たちが弱気になっていたときに、伊刈葉子によく似た女性を見かけたという情報が警察に寄せられたのである。

刑事たちは活気を取り戻し、まず若手刑事に公園で張り込みをさせた。

その結果、メガネで長身の彼が山口沙織を目撃し、カフェに入るのを見届けたのである。

彼女の制服の胸元に刺繍された「山口」の文字を、彼は見落とさなかった。

更に、彼女が着ていた制服が、有名な予備校の事務員のものであると知っていたその刑事は

(彼もその予備校の卒業生であった)

校舎の前で女子生徒に “事務の山口さん” について質問をした。

女子生徒はよく喋る子で、思いのほか多くの情報を手に入れることが出来たのだ。

― 山口さんは朝が苦手みたい。このごろ少し早番で入る日も増えたけど、前は絶対遅番しかやらなかったもん。模試とかで朝早い日なんか、大あくびしちゃってさあ。

― 山口さん、彼氏がお金持ちなんだって!彼氏、まだ若いのに、車は3台持ってるとか!確か、ベンツとアルファなんとかって言ってた。

― 山口さん美人だよね、声も話し方もキレイでさ。

これらの情報は、捜査陣の足取りを軽くした。

朝が苦手なのは、夜中にキャバクラで働いていたからではないのか。

被害者の車は、ベンツ2台とアルファロメオ1台、フェラーリ1台であったが…

伊刈葉子もアナウンサーのような美しい話し方をしたという証言が得られている。

翌日、山口葉子の写真を撮り、首実験を行った。伊刈葉子の同僚にも確認を取った。

そして今日に至るわけである。

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逮捕された後、山口沙織はこう語ったという。

 「女子生徒とのお喋りが、自分の首を絞めるなんて…。

でも私、あの人のこと自慢してた時期もあったんですね。偽名で付き合ってたくらいですから、もとは適当に遊んだら別れるつもりだったんです。あの人は背も低いし、服もダサいし、モテそうになかったから、この私と付き合えるだけ幸せでしょ、夢見させてあげてるのよ、なんて思ってたところもありました。

だけど、本当に夢を見せてもらってたのは…お姫様になった錯覚を覚えていたのは、私のほうだったのかもしれませんね…。」


 「現実は、彼が王子様だった?」

刑事の問いに、沙織は少し笑って答えた。


 「彼も王子様なんかじゃなかったし、私もお姫様じゃなかったんですよ。現実に張り付いて生きているくせに、夢の中で生きていけるような気になってただけで…。

いつの間にか、夢と現実の区別があいまいになっちゃってたんだわ…。」

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学級活動の時間。

秋のにおいについてクラスで話し合いが持たれた。



 秋のにおいってなんでしょうか。

そう先生が尋ねる。



 さんま焼くにおい!

 きんもくせい!

 なんか、ヤマトノリみたいなにおい!

口々に答える生徒たち。




 あなたは?



先生がこちらを見据えて微笑んだ。




 …ドーナツのにおい…。



正直に答えたのだけど、先生は不思議そうな顔をしたし、生徒たちはくすくす笑いを隠そうともしない。







5年前、まだ小さかった弟が死んだ。

弟の誕生日は、10月の始まりの日だ。

その日になると、母さんは毎年たくさんたくさんのドーナツを焼く。


弟は小さくて、ほんとうに小さくて、ドーナツなんか食べられなかったはずなのだけど、

お母さんはたくさんたくさんのドーナツを焼く。食べきれないほど焼く。


毎年毎年、10月の始まりの日になると、父さんと母さんと三人でたくさんのドーナツを持ってお墓参りに行く。

帰ってきてからもドーナツを食べる。おなかがいっぱいでも食べる。

きっと来年も、再来年も、ずっと。




だから

5年前から毎年、秋の始まりはドーナツのにおいがするんだ。

油とお砂糖の混じった、少し胸につまるにおい。






きっと来年も、再来年も、ずっと。










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