Koichi Sakaiのブログ

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デジタルオンリーだけどついに発売されました。iTunes, amazon、その他世界中のデジタルミュージックストアでダウンロード出来ます。

この曲、去年の震災の後にもやもやした自分の気持ちを吐き出すかのように書き下ろした作品。それまでジャマイカ人のMCクラッパー・プリーストと組んでアッパーなパーティーチューンばかり作ってたんだけど、あの震災の生々しい映像を見て正直そんな気持ちになれなくなってしまった。あの未曾有の大災害を映像で目の当たりにして楽しい気分になんてなれるわけがない。突然自分にとって音楽って一体なんなんだという漠然とした疑問にぶちあたり、それを音楽で素直に表現したある意味今までで最も自分らしい曲かもしれない。以前バンドで一緒に演奏してたミュージシャンとシンガーのサビーナ・チャレンジャーをフィーチャーして制作したソウルフルなナンバーで、地震や津波だけでなく原発、石油、戦争や暴動など世の中の問題を解決するために平和を"Make It Happen"しようという祈りを込めた曲ですので是非聞いてみてください。試聴はこちら;

http://soundcloud.com/ghetto-lounge/make-it-happen

ITunes;
http://itunes.apple.com/jp/album/make-it-happen-feat.-sabina/id515454079

amazon;
http://www.amazon.co.uk/gp/product/B007QFMZ8W

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あれから1年。あの時の出来事を、僕は決して忘れることがないだろう。

朝7時くらいだったと思う。ジャマイカ人のMCクラッパー・プリーストからテキストメッセージが届いた。“日本で大地震が起こった。”

僕はうとうとしながらラップトップをあけ、BBCのニュースを開いた。そこには地震の後の巨大な津波が押し寄せる映像が流れていた。地震による数十人の死者の情報があったが、その時点ではそれがどれだけ大きな被害をもたらすかなど予想できなかった。僕はすぐに東京の家族に電話し無事の安否を確認した。そして妹は僕にこういった。“地獄絵図みたいだった。”

被害の全貌があきらかになるにつれ、その想像を絶する悪夢のような映像は僕の感情を大きく揺さぶった。被災地の上空をヘリコプターが飛び、その現状の凄まじい報道を見るごとに、遠い異国に住み何もできない自分の無力さを罵った。いったいどうすりゃいいんだ???

僕は同じくDJのケイ・スズキに連絡してチャリティーイベントの話を持ちかけた。彼は当初乗り気でなかったが、話が進むうちに提案した僕が逆に乗り気でなくなってしまった。母国の兄弟家族がこんなに苦しい思いをしているのに、音楽かけて酒飲んでパーティーするなんて気分になれなくなったのである。。。

ところがそのもやもやした気分の直後に、ロンドンの親しい日本人仲間から立て続けに3本も電話があり是非チャリティーイベントを立ち上げて欲しいといわれた。それくらい皆も”何かしないと”という焦燥感にかられていたんだと思う。それでもやっぱり僕はどうしようか迷っていた。チャリティーイベントとはいえ、音楽と酒が入ると結局パーティーになってしまう事が不謹慎に思えてならなったのである。ところがヒーリングをやっているユミちゃんの一言が僕の考えを変えた。”皆のポジティブ気持ちがひとつになればそれがちゃんと日本にも届くから。”

そして僕は急遽メンバーを招集してPray For Japanを開催することに決定した。開催日は地震からちょうど1週間後の3月18日金曜日。場所は東ロンドン、ハックニーのエンパワリングチャーチ。決定した日は日曜日だったからわずか5日間という短期間での準備が始まった。僕らは日本にゆかりのあるDJ、ミュージシャン達に連絡をとり事の次第を伝えた。するとこの日本の状況を知ってか、あっという間に素晴らしいアーティストが勢揃いしたのである。BBCラジオのDJジャイルス・ピーターソン、元KISS FMのDJパトリック・フォージ、ムカツクレコードのニック・ウェストン、日本に住んでいた事もあるプロデユーサー/DJのアループ・ロイ、そしてライブにKyoto Jazz Massiveでも知られるソウルシンガー、ヴァネッサ・フリーマンと若手ジャズバンドのユナイテッド・ヴァイブレーションズ。このメンツに僕とケイ・スズキとイヌミカクのDJ3人と日本人のボランティアチームが集まり開催に至ったのである。

しかし僕の当初からの懸念は消えてなかった。これはあくまでもパーティーでなく、津波と地震の犠牲者達への弔いの儀式であるという事をしっかり皆にも認識してもらうために黙祷をする事にした。そして災害基金はもちろん、被災者達への寄せ書きメッセージコーナーと写真ブースを設け参加者たちにも思いを綴ってもらう事にした。

そして当日、7時の開場と同時に多くの人がやって来た。フェイスブックのイベントページのお知らせとジャイルス・ピーターソンのBBCラジオでの呼びかけも手伝って、日本の被災者のために国境を越えた500人以上の人たちが集まり、5000ポンド以上の募金を納める事ができた。イベントも終始和やかで、ライブやDJも素晴らしく、寄せ書きコーナーにはたくさんの人が思い思いに被災者達へのメッセージを綴り写真撮影をしてそれを壁に貼付けた。終わる頃には壁一面、ポジティブで愛にあふれた寄せ書きメッセージに埋め尽くされ、ひとつの芸術作品のような物が出来上がった。今までいろんなイベントをやってきたけどこんなに一体感を感じたイベントはなかった。

正直僕はあの地震以来いろんな意味で考え方が変わった。原発や石油などのエネルギー資源のあり方、戦争や政治なども含めた世界の将来や、自然と環境を考えた地球の未来。音楽を仕事とする自分にとって音楽とはいったい何なのかという個人的な事から、生きる道とか人生は何ぞやとか、常日頃感じている身近な疑問。結論はみんな愛だってわかっているのに、どうして人間はお互いを傷つけあわなきゃ生きていけないのだろう?どうしてこんなに物があふれている世の中に家がなかったり飢えに苦しんだりする人がいるのだろう?僕はこの地震が地球から人間に対する大きなひとつのメッセージであるような気がした。21世紀という新しい時代に僕らはもう一度見直さないと、考え直さないといけない問題がたくさんあるんだと。

僕はこの場を借りてもう一度あのイベントに参加してくれた皆に感謝の意を伝えたい。参加してくれたアーティストはもちろんボランティアで協力してくれたタロー(素晴らしいビデオありがとう)、アキラ(写真最高!)、ノリちゃん(寄せ書きブース、本当にいいアイデアだったね)、四季ちゃん、ユミちゃん、レイさん(ドアガールズお疲れ様)そしてベニューを提供してくれたクワジャ(エンパワリングチャーチはオレにとっての最高のベニュー!)ケイとミカクも寝ないでプロモビデオ作ったりフライヤー作ったりと本当にお疲れさまでした。

そして地震と津波の犠牲者たちと今現在も行方不明になっている方たちへのご冥福と、被災地のいち早い復興を心からお祈りします。

Pray For Japanとジャイルス・ピーターソンのメッセージ


寄せ書きスライドショー Photo by Akira Chatani


Ps: この地震の後、ロンドンのミュージシャン仲間を集めて1曲作りました。このブログにプレーヤーが埋め込みできないのでこのリンクから聞いてみてください。

http://soundcloud.com/ghetto-lounge/make-it-happen

今月で2周年を迎えたラジオショー。ロンドン大学にあるSOAS(School of Orintal and African Studies)という文化人類学科みたいなとこが運営する、いわゆるカレッジラジオ局で毎月1回更新しています。世界中の言語から民族音楽、武道(ここで剣道を教えてる日本人の方もいる)や政治的なことまで勉強できるコスモポリタンシティーのロンドンならではというマルチな大学の運営側から”好きな曲をかけていいから日本語で放送して欲しい”ということで引き受けたんだけど、日本のiTunesのおすすめポッドキャストに選ばれたりして、これまでに世界中から50,000以上のダウンロードがあり隠れた人気の番組です。現在進行形のロンドンサウンドからレアなヴィンテージサウンドまで、世界中のクォリティーの高いソウル、ジャズ,ファンク、レゲエ、ラテン、アフロビートなど幅広い選曲でお届けしているので、是非チェックしてみてください。

http://soasradio.org/ghetto-lounge

iTunesのポッドキャストにも登録されてます。
http://itunes.apple.com/gb/podcast/ghetto-lounge/id378296469

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27は謎めいた、摩訶不思議な数字である。ジム・モリソンジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョップリンカート・コバーンエイミー・ワインハウスなど、天才と呼ばれる伝説のアーティストたちは、皆この年齢でこの世を去っている。そしてこの人物も27歳で短い生涯を終えた天才アーティストの1人であることを忘れてはならない。

ジャン=ミッシェル・バスキアは1960年にニューヨーク、ブルックリンで生まれたハイチ系プエルトリカンのアーティスト。70年代中頃からSAMOという名でグラフィティ・アーティストとしてキャリアをはじめたバスキアは、GRAYというノイズバンドでミュージシャンとしても活動していてニューヨークのアンダーグラウンドでは既に知られた存在であった。カラフルで独創的なセンスはもちろんのこと、その名前と容貌も唯一無二のキャラクターであることに目をつけたアート評論家のレネ・リカルドにフィーチャーされ、一躍ニューヨークの売れっ子アーティストとなる。その後アンディ・ウォーホルにも気に入られ行動をともにするようになるが、重度の麻薬常習者であったバスキアはウォーホルの突然の死後、彼の後を追うようにヘロインのオーバードーズで他界した。

この映画、正直ダイレクションはいまいち(監督は同じくニューヨーク、ブルックリン出身のアーティストであるジュリアン・シュナーベル)なのだが、バスキアの人生を知る入門編としてはいいかもしれない。キャストも豪華で、アンディ・ウォーホル役にデビッド・ボウイ(彼の演技に甲乙はつけ難いが結構雰囲気はでている)、私生活でも収集家として知られた故デニス・ホッパーが著名なアート・ディーラー役で出ていたり、その他にもゲイリー・オールドマンクリストファー・ウォーケンなどの性格俳優やコートニー・ラヴまで客演していてそれだけでも見る価値はあるかも。主役のバスキアを演じるジェフリー・ライトもはまり役である。サウンドトラックも80年代のニューヨークアンダーグラウンドらしい選曲ではないけど、僕の大好きなトム・ウェイツやエンディングでジョン・ケールが唄うハレルヤなどが使われていてそんなに悪くはない。

僕個人的にはバスキアのアートは好きな物とそうでないものとはっきりわかれる。天才的な色使いは好きだけど、意味不明なメッセージが多かったり、中にはただの子供の落書きみたいな物もあって首を傾げたくなるような作品も少なくない。でもきっと当時のニューヨークはヒップホップやストリートカルチャーが誕生したばかりのすごく生々しいエキサイティングな時代だったんだろうなと想像する。キース・ヘリングのポップアートやラリー・レヴァンパラダイス・ガラージュもこの頃だしゲイ・カルチャーなんかが少しずつカミングアウトし始めた80年代の混沌としたニューヨーク、できることならタイムスリップして体感してみたいものですな。




雪が降って一夜明けたロンドン。街一面銀世界に雪化粧した美しい風景とは裏腹に、夕べ飲み過ぎたワインがたたって頭痛がし、正直あまりいい気分ではない。この一週間、今制作中の音楽をずっと編集していたので全然外出しておらずテンションがあがってしまい、調子に乗ってクラブを3軒もはしごしてしまった。刑務所から出所したばかりの囚人のごとくはしゃぎすぎた結果である。でもそんな日曜日の午後にはビル・エヴァンスが僕の二日酔いを癒してくれる。

あのジャズの金字塔といわれるマイルス・デイビスのアルバム“カインド・オブ・ブルー”に唯一白人として参加した天才ピアニスト。彼はバンドメンバーから人種差別を受けマイルスのバンドを脱退するが、その後自身のピアノ・トリオで何枚も名作を残している。ところが彼もチェット・ベイカーと同じく重度の麻薬常用者で、それが原因で肝臓を患い1980年、51歳の若さで他界した。

ビル・エヴァンス・トリオの魅力は彼の繊細なピアノさばきももちろんだが、ベースとドラムがそのピアノの隙間を縫うようにインタープレイを即興で演奏することだろう。あたかも3人が会話をしているかのようなアドリブプレイは、まるで抽象画を見ているかのような、混沌の中に秩序を見いだすような、そんな芸術作品をイメージさせる音楽である。不朽の名作ワルツ・フォー・デビーもいいが、今日はあえてムーンビームスをオススメしたい。この美しく繊細なメロディが二日酔いを癒す媚薬のように、僕の脳を優しく刺激してくれるのである。

僕は10年ほど前にこの音楽にはじめて遭遇した時、それが持つ強烈なパワーに一瞬にして虜になり、アフロビートと呼ばれるそのスタイルを確立させたこの伝説のアーティストを徹底的に追究し始めた。アフリカではオバマ大統領が誕生する前からブラック・プレジデントとして呼ばれていたこの男、彼の生い立ちとその生涯を知れば知るほどこの音楽の深みが増していく。

フェラ・クティ

1938年に西アフリカ、ナイジェリアの中流家庭に生まれ、一般的にはサックス奏者として知られるが、1958年にロンドンのトリニティーカレッジへ留学したときはトランペットを演奏していたという。彼はそこで最初のバンド“クーラ・ロビトス”を結成しミュージシャンとしてのキャリアをはじめ、当時西アフリカで流行していたハイライフ・ジャズを演奏していた。ナイジェリア帰国後も活動を続けていたが思うように花開かず、結構苦労したらしい。そんな時シエラ・レオーネからやって来たジェラルド・ピノジェームス・ブラウンのようなパフォーマンスに度肝を抜かれ、それが彼のその後の音楽スタイルに大きく影響を与えることになる。そしてあるきっかけからアメリカをツアーすることが決まり、そこから“アフロビート”の骨組みが形成されていくのだが、そのツアーはさんざんなもので、当時人種差別の風当たりも厳しい60年代のアメリカではたいしたギャラももらえず、マネージメントもずさんでビザも切れてしまい、路頭に迷うような酷な経験だったらしい。ところがロス・アンジェルス滞在中に当時ブラック・パンサーのメンバーであったサンドラ(彼女は76年にフェラのアルバム“アップサイド・ダウン”にシンガーとして参加している)という女性に救われ、それが彼の人生を内面的にも大きく変えることとなる。彼女はフェラにマルコムXや黒人解放を説き、そしてそれが彼の創る戦闘的で反骨精神あふれるアフロビートの哲学性にも結びついていくことになる。その後ナイジェリアに戻り新しいバンド“アフリカ70”を引き連れ、ミュージシャンとして、アクティビストとして活動を再開したフェラは、当時の首都だったラゴスに自らの王国“カラクタ共和国”を設立し、“シュライン”と呼ばれるナイトクラブで毎週のようにラゴスの夜を盛り上げ商業的成功をおさめる。ところが楽曲があまりにも政治的メッセージが強かったため政府からにらまれ、様々なでっち上げ理由から逮捕、投獄を何度とも繰り返すことになる。1977年、1000人の軍隊を引き連れたナイジェリア政府はカラクタを襲撃し、建造物を放火、破壊し当時77歳だったフェラの母親を窓から突き落とし、彼女はそのときの怪我がもとで翌年他界する。1978年、フェラはその襲撃を記念するべくバンドの女性ダンサー27人と合同結婚式を行う。1979年のベルリンツアー後、フェラはナイジェリアの大統領に立候補しようとするが政府から棄却され、また同時期に右腕であったドラマーのトニー・アレン含むほとんどのバンドメンバーが彼の過剰な行動に呆れてバンドを脱退しアフリカ70は事実上解散するが、息子であるフェミを含めた新しいメンバーを引き連れエジプト80として活動を再開する。その後もエジプト80と共に勢力的にライブ、レコーディング活動を続けるが、合計47枚のアルバムを残し1997年にエイズの合併症で他界した。

デレ・ソシミ

以上ざっとの略歴ではあるがこの奇行ともいえるドラマチックなフェラの人生を知った僕はさらにアフロビートを追究し始めた。アルバムを買い、本を読み、ロンドンで開催されるアフロビートのコンサートを探し始めた。そんな時、確か2003年だったと思う、“フェラ・クティ・トリビュート、デレ・ソシミ・ライブコンサート”のフライヤーを偶然見つけたのである。

僕はデレ・ソシミをフェラのアルバム“アーミー・アレンジメント”のクレジットでキーボディストとして参加していたのを知っていた。フェミと同級生だったデレは79年頃からカラクタに出入りするようになり、アフリカ70解散後、エジプト80にキーボディストして参加するようになる。フェラが84年に為替管理違反で投獄中にフェミと共にバンドリーダーとしてエジプト80を仕切っていたが、87年にフェミとともにエジプト80を脱退、新しいバンド“ポジティブ・フォース”を結成しバンドリーダーとして活動をする。その後独立し95年に渡英、ロンドンを拠点にデレ・ソシミとしてソロ活動をはじめる。

僕はいくらか興奮気味にそのフライヤーにあった番号に電話をかけてチケットを予約した。南ロンドン、治安が悪くて知られるペッカムの物騒なコミュニティーホールに友人と行くと、そこにはトニー・アレンを含む30人ほどのナイジェリア人男性とブロンドのフランス人女性が一人(当時トニーの愛人だったらしい)そして僕ら日本人2人という今考えると結構おかしなシチュエーションだったが、そこでスーパーホットなアフロビートライブを堪能したのである。キーボード、ギター、ベース、ドラム、パーカッションというアフロビートには珍しい小人数編成(通常は少なくても10人、フェラのバンドにはダンサーを含め20人以上のメンバーがステージ上にいた)だったが、デレが歌うフェラのカバー曲は彼のナイジェリア人アクセントのせいか、それが僕にはフェラの声のように聞こえたのは過言ではない。トニー・アレンもゲストで参加し、名曲“ウォーター・ノー・ゲット・エナミー”をライブで初体験した僕はそこであらためてアフロビートの洗礼を受けたのである。ちなみにその時一緒に行った僕の友人、サウンドエンジニアのユキミ君はそれがきっかけでデレの専属サウンドマンとなった。それから数年後、2008年に僕とデレは東ロンドン、ハックニーのクラブで再会し、DJとして活動していた僕と共に新しいイベントをスタートする。それがアフロビート・ヴァイブレーションだ。

<アフロビート・ヴァイブレーション>

昨今のアフロビートブームは目を見張るものがある。フェラの息子、フェミやシェウン・クティをはじめ、ドラマーのトニー・アレンはそのアフロビートのリズムのパイオニアとして70歳を過ぎた今もパリを拠点に現役で活動しているし、世界中でフェラの意志を受け継ぐ新しいバンドがどんどん誕生している。ニューヨークのアンティバラスをはじめ、カナダのソウル・ジャズ・オーケストラ、UKではデレ・ソシミを筆頭にロンドン・アフロビート・コレクテイブヤアバ・ファンク、日本でもキングダム・アフロックスジャリブ・アフロビートなど素晴らしいバンドが続々登場している。またジェイZとウィル・スミスがプロデユースしたミュージカル“フェラ”の影響もあってその知名度はかなり広がり、今では多くの人がアフロビートを認識している。毎年10月15日はフェラの誕生を祝うトリビュートイベント“フェラブレーション”がロンドン、ニューヨーク、パリなど世界中で開催されているし、隔月で開催されるアフロビート・ヴァイブレーションも毎回300人を超える動員数でロンドンのシーンを盛り上げている。このアフロビートの魅力は1曲が少なくとも10分以上、フェラのライブ音源など30分ぐらいあって普通の音楽と比べるとかなり長いのだが、噛めば噛むほど味がでるスルメイカのように、そのグルーブの渦に飲み込まれるとそこから抜け出せなくなりそれが快感となっていく。今年で4年目を迎えるアフロビート・ヴァイブレーションは毎回4時間のノンストップ・マラソン・ライブが売りで、フェラの名曲カバーからデレのオリジナルナンバーを観衆がぶっ倒れるくらい演奏するのだが、ライブ終了後はナイジェリア料理が無料で配給されるという至れり尽くせりのイベントである。いい音楽聞いて汗びっしょりなるくらい踊って、最後に腹減ったからみんなでメシ食おうぜ!というすごくアットホームなイベントであり、僕は胸を張ってこれがイギリス、いやヨーロッパナンバーワンのアフロビートイベントであると豪語したい。

正直僕はカラクタはもちろんナイジェリアにも行ったことないし、フェラのライブを生で見ることもできなかった。だけど僕にとっては兄貴のような存在であるデレからフェラの裏話やカラクタ、シュラインの話等々、彼のフィルターを通したアフロビートを伝授することによって、フェラのスピリットが親から子そして孫の代へと伝わるように、国境や人種の壁を越えて受け継がれていくのを感じるのである。

アフロビート・ヴァイブレーション


デレ・ソシミ インタビュー
ベティー・ブルー

僕は恋愛映画が大好きだ。アクション映画より、ギャング映画より、ホラー映画よりも何よりも、映画を観るなら恋愛映画に限る。その映画を観ている時、僕は主人公に憑依し、束の間のラブストーリーをエンジョイするのである。

ビーチのバンガローでペンキ塗りをしながら時間のあるときに小説を書くゾルグ(ジャン=ユーグ・アングラード)のもとへ、若くセクシーで美しいベティー(ベアトリス・ダル)が突然やって来て、彼の生活は一変する。それまでシンプルな生活をしていた彼は、ベティーの愛を120%受け入れ、彼女のためなら何でもすると尽くすのだが、やがて彼女の狂気じみた行動は歯止めが利かなくなり、衝撃のクライマックスへと展開していく。

冒頭から激しいセックスシーンで始まるこの映画、フランス映画ならではのエロスっぷりなんだろうけど、この映画はソフトポルノといってもいいくらい濡れ場シーンが多い。僕は3時間近くみっちりダイレクターカット版で観たけど、劇場版と違ってカットされていた絡みのシーンが結構あって、相当エロい。フェラチオするシーン(といってもパックリくわえてるわけではないが)もあったりして、この監督ジャン=ジャック・ベネックスの過激な性描写の試みにはリスペクトである。何といってもベアトリス・ダルのヌードがたまらなくやらしく、美しい。彼女のキャリアは後年、役柄と同じように波瀾万丈で、ドラッグに溺れたり盗みをしたり刑務所にぶち込まれたりと何かとお騒がせな女優なのだが、デビュー作であるこの作品の彼女はまだ若く、その弾力のありそうなきれいな白い肌とロダンの彫刻のような曲線美を観ていると僕は思わずよだれを垂らし、うっとりとしてしまう。あんな真っ赤な口紅を塗った大きな唇でにこっと笑って裸で目の前に立ってたら、それに反応しない男性諸君などいないだろう。うーん、たまりませんな。

でもベティ・ブルーは僕が今まで観た恋愛映画の中でも群を抜く衝撃的ラブストーリーである。美しい純愛ではあるが、こんなにも激しく情熱的で暴力的で狂気に満ちた女性は、いくら容姿端麗でセックスが楽しくても、できることなら避けたいものである。

これは僕が2009年にキューバで現地のミュージシャン達とCDアルバムを制作したときに書いたエッセーです。あれから3年たった今、キューバは少しずつ変革が進みこの記事を書いた頃とはいくらか違いがあるかもしれませんが、これは僕のパーソナルな記録として読んで共感してもらえたら嬉しいです。

***キューバ革命50周年とストリートミュージシャンたち***

フロリダの南145キロ、カリブ海に浮かぶ西インド諸島最大の島キューバ。こんなにアメリカから近いのに両国間に政治的国交はなく社会主義という体制と革命の歴史、そしてカリブのトロピカルな気候が他に類を見ない独特の雰囲気を醸し出している。さんさんと輝く太陽の下、学校を終えた子供達が紙を丸めたボールで野球をしているところを、革命以前から走る巨大なオンボロ車は真っ黒な煙を上げ、その横を痩せこけた犬が遠慮がちに通り過ぎてゆく。決して豊かな国ではないのにキューバ人達はいつも元気がよく、自慢のステレオを窓の外に洩れるくらい大音量にして音楽を聞きながら大きな声を上げて話している。そんな日常的な光景を見ているだけで僕は思わず笑顔がこぼれ自分が異国にいる事を実感し、このキューバという国に魅了されていくのである。ところが今年で歴史的な革命から50年を迎えたこの国は、今いろんな意味で変わり始めようとしている。

<革命50年のキューバ>

親米と独裁政治を率いたバティスタ政権を2年以上にも及ぶゲリラ戦で勝利を治め、革命を成功させたフィデル・カストロ。彼は50年たった今も国民から支持を受けるカリスマ的存在であり、その同士チェ・ゲバラは革命の象徴としてアルゼンチン人でありながらもその肖像を街中に見る事ができる、今やキューバだけでなく世界中のアイコン的存在である。こんなにも長い歳月国のトップに君臨するなんて日本の政治からはとても想像できないが、そんなカストロも生身の人間、患っていた病状が悪化し自分の死を意識したのか、革命50周年を目前に去年その政権を弟のラウルに譲る事を決意したのである。この歴史的な出来事にキューバ人達は期待と共に不安も隠せなかったのは、そのフィデルの偉大さ故だろう。ラウルは早速キューバ人達に対する携帯電話やその他の電気機器の所有を自由化させ(それまではキューバ人が携帯電話を持つ事は法律上違法であった。というかキューバ人の一般的な収入では携帯電話の所有はほぼ不可能。)、今年の3月のニュースではそれまでフィデルに仕えた内閣の人選をがらりと変えた。アメリカのオバマ大統領はグアンタナモ収容所の閉鎖に向けた署名をしたし(ところが今現在に何の進展もないまま保留になっている)、キューバに対する国交改善に向けた規制緩和を呼びかけたのは記憶に新しい。ベネズエラのチャベス大統領の声援も手伝って、キューバが南北アメリカサミットに参加することも近い将来実現するであろう。ところが去年(2008年)、ハリケーンの影響で国家的にも経済的にも大打撃を受けたキューバは革命50周年の式典を盛大に祝う事を自粛した。もはやキューバは自国だけの生産だけでまかなう事が出来ず諸外国の支援なしではやっていけないのが現状である。従って近い将来アメリカを始めとする先進国の資本が流入する事もあり得るわけで、それはキューバ人にとっては改革に向けた新しい道ではあるが、キューバのキューバらしい素晴らしさが損なわれるかもしれないという懸念があるのも事実であろう。何はともあれ革命50周年を迎え共産主義国としてその姿勢を断固として変える事なく貫いてきたわけだが、キューバはこれからが変革に向けた重要な時期である事は間違いない。しかしそのラウル政権の改革が手厳しく、少なからずともそれに影響を受けて死活問題となっている人たちもいるのである。

<アブエロとの出会い>

2007年12月、僕ははじめてキューバに上陸した。この未知なる土地は夢と希望に満ち溢れていた。ボンゴを抱えた僕は何か面白い事はないかと毎日ハバナの街をあてもなく彷徨い、1週間ほどして出会ったボンゴセーロとセントラルハバナの彼の家でレッスンを始める事になった。ある日レッスンを終えた僕は腹を空かせ、道端でカヒータ(キューバの庶民的弁当。豆入りご飯に豚焼き肉とサラダなどが一般的。)を食べていた。ふと横を見るとギターを抱えた男が同じカヒータを食べている。とっさに僕は片言のスペイン語で話しかけた。
“ミュージシャンか?”
“そうだ。お前もか?”
“ボンゴを習ってる。”
“そうか。じゃ何かやってみるか”
みたいな軽いノリで僕らは定番ドス・ガルデニアスを演奏した。瞬時に意気投合した僕らは彼の行きつけのバーに移動しビールを飲みながらさらに演奏する事になった。時間は午後3時。しかしそんな事キューバでは重要ではない。僕らが演奏を始めるとバーで働く人もそこにいた客も立ち上がり声をそろえて合唱し、みんな仕事を忘れフィエスタとなってしまったのだ。僕はこの洗礼に感激し“これだ!これが探していたキューバだ!”と実感せずにはいられなかった。それがアブエロとの最初の出会いだった。彼は素晴らしい歌声を持ち、ギター、ベース、トレス、パーカッションと何でもこなし、ベニー・モレーをこよなく愛する天才的なマルチミュージシャンだ。彼はかつてフランス、スペイン、コスタ・リカをツアーで回りノルウェーに2年ほど住んでミュージシャンとして活動していたが、あまりにも寒かったらしく今はキューバに戻って来てストリートミュージシャンとして生活していた。その日以来僕らは毎日のようにハバナの街をともに演奏する事になったのは言うまでもない。僕は彼から多くのキューバの“ソウル”を学ぶ事になったのである。ところがそれから2週間ほどしたある日突然アブエロの消息がわからなくなってしまった。彼の家に行っても知人に聞いてもどこにいるかわからないという。突然親友を失ってしまった僕は途方に暮れてしまった...

<ロス・オーテンティンコス>

それからしばらくして僕は、マタンザスサンティアーゴ・デ・キューバを回って再びハバナへ戻って来た。じっとしていられない性分の僕は何か面白い事はないかと夕暮れ時のマレコンを徘徊した。すると遠くの方から音楽が聞こえてくる。50メートルほど先に数人の影が見え、僕はそこに吸い込まれるように歩いていくと、やがて聞き覚えのある歌声が近づいて来た。
“アブエロ!”
と叫ぶと彼は演奏をやめて驚いた顔をして僕を見た。
“エルマノ(兄弟)!”
僕たちはすかさず抱き合って再会の喜びを確認した。彼の話によると母親の体調が良くなくて故郷のピニャ・デル・リオに戻っていたらしい。携帯電話やインターネットなどの便利な通信手段に慣れてしまった現代人にとってこんな出会い方をすると運命的としか考えられなくなってしまう。僕らは再会を祝しプランチャオ(紙パックに入ったラム)を片手に歌い演奏した。そしてアブエロはそこに一緒にいたレイナルドとアルベルトを紹介してくれた。僕は彼らの演奏に度肝を抜かれた。レイナルドはブルージーな歌声を持つマラカスプレーヤーで自らをレイ・マラカと名乗るマスターだ。65歳とは思えない強靭な体力と華麗なマラカスさばき、そして豪快なラムの飲みっぷりは初対面の僕に強烈な印象を与えた。アルベルトはレイの兄で素晴らしいギタリスト。68歳になる彼は腰が少し曲がってきてはいるが、ギターを弾きだすとオンボロの楽器から至福のメロディーを奏でるまさに錬金術師さながらのテクニシャンだ。かつて自身がリーダーでアブエロもベースで参加していたバンド‘キューバ・オウテンティカ’を率いていたが、残念ながらメンバー同士が問題を起こしアルバムを1枚作って解散してしまった。その日から僕は毎日彼らと共にマレコンで演奏した。そして意気投合した僕らはロス・オウテンティコスを結成したのである。

<マレコンとストリートミュージシャン>

映画ブエナ・ビスタ・ソシャル・クラブの冒頭でライ・クーダーが息子のホアキンとサイドカー付きのバイクで走る海岸通りマレコンはメキシコ湾に面する東西8キロにわたる堤防通りで、そこは旅行者なら誰もが一度は訪れるハバナの街を代表する場所である。排水が流れてくる岩場のビーチはお世辞にもきれいとは言えないが、それでも元気なハバナっ子たちは海めがけて飛び込み、夕暮れ時になると人が自然と集まる地元民のコミュニケーションの場でもある。そこには革命前から多くのトロバドレス(吟遊詩人)と呼ばれるミュージシャン達が集い、かつてはあのキューバポピュラー音楽の父と呼ばれるベニー・モレーやマンボキングのペレス・プラドもそこに幾度となく現れセッションをしていたという。僕がロス・オーテンティンコスのメンバーに会ったのもこのマレコンで、かつて毎日のようにラムを片手に演奏し歌ったこの場所は我々にとっても思い出の場所でもある。生活の貧しいキューバ人にとって音楽は心の拠り所であり、僕らが演奏を始めるとそこに自然と人が寄り集まりその場で大人も子供もあわせて大合唱フィエスタが始まるのであった。ところが政権がラウルに変わってから突然取り締まりが厳しくなり、そこで演奏するストリートミュージシャン達を一掃しはじめたのである。旅行者達に対する政府の配慮がその理由らしいが、かつてそこで演奏していたミュージシャン達は職場を失ったのも同然である。もしそこで演奏をしていたり旅行者にCDを売っている現場を警察に見つかったら、その場で逮捕され1500ペソ(約60米ドル)の罰金を科せられてしまう。僕らにとってはたいした金額ではないが平均月給が約12米ドルのキューバ人にとってはあり得ないほどの大金である。実際僕の目の前で警察に連行されたミュージシャンを知っているし、ロス・オーテンティコスのメンバーの弟がCDを売ろうとしたところを現行犯逮捕され罰金に処せられたのである。ここで演奏する事は禁じられてしまったので職場を失ったロス・オーテンティンコスは、その死活問題に直面している当事者なのである。

<最近のキューバの音楽事情>

ブエナ・ビスタ・ソシャル・クラブでライ・クーダーはこう言った。“キューバでは音楽が川の流れのように満ち溢れる。”前述のようにストリートからミュージシャン達は姿を消してしまったが、ハバナ・ビエハと呼ばれる旧市街を歩いているとカフェやレストランから毎日のようにライブ演奏が聞こえ、住宅街の一室でサルサバンドのリハーサル風景が見られるのは珍しい事ではない。マタンザスに訪れたときはルンバのダンスレッスンがコンガにあわせて日常的に行われているのを目撃したし、サンティアーゴ・デ・キューバではカーサ・デ・トロバなどで伝統的なソンを堪能する事が出来る。ハバナでは毎年2月になるとジャズ・フェスティバルが開催され、今年はイラケレのチューチョ・バルデスが音頭をとって無名の若手ミュージシャンから大御所オマラ・ポルチュオンドまでをフィーチャーして素晴らしいパフォーマンスを披露していた。またブエナ・ビスタ・ソシャル・クラブの商業的成功とは別に、地元キューバ人にはロス・バン・バンチャランガ・ハバネラバンボレイオなどのティンバヤソンゴと呼ばれるキューバン・サルサが人気である。彼らは国際的にも知られるがカーサ・デ・ラ・ムジカなどの地元有名クラブで頻繁にコンサートを行っていていつもキューバの夜を賑わせている。またレゲトンも忘れてはならない。このヒップホップとレゲエをラテンのスパイスで調理したダーティーなリズムは老若男女問わず大人も子供も大好きで、キューバだけに限らずプエルト・リコをはじめラテン・アメリカの若者を中心に新しいカルチャーが作られつつある。しかし残念ながら貧しいキューバ人達に正規版を購入するのは高価すぎるので、決して良質とは言えない海賊版のCDやDVDが街頭で堂々と販売されているのが現状である。何はともあれラテン音楽の素晴らしい特徴は音楽とダンスがとても密接な関係にある事だろう。マンボ、ルンバ、メレンゲ、レゲトンなどリズムによってステップやダンス・スタイルが変化し、音楽は男女が一緒に踊るのが当然という認識が強い。キューバ人は音楽をこよなく愛し、そこにリズムとメロディがあれば時と場所かまわず、大人も子供も誰もが思い思いに楽しむのである。

<キューバの将来>

2009年2月僕はロス・オウテンティコスとレコーディングするべく再びキューバを訪れた。1年振りのキューバに大きな違いは感じられなかったが、ある所には視覚的な変化を見る事が出来た。マレコンからミュージシャン達は消え、かつてのような賑わいはなくなった。前年のハリケーンの影響で壊滅したビルもあちこちに見られた。街中に警察がパトロールをしていて、地域の安全は保たれているのだが(キューバはカリブ海諸国で最も治安のいい国といわれている)なんとも物騒な景観である。もともとキューバ政府はキューバ人と外国人に対する隔たりが強く、旅行者が一般のキューバ人の家に泊まる事は違法であり、必ずホテルか政府に登録済のキューバ人ゲストハウス(カーサパティキュラーと呼ばれる)に宿泊することが義務付けられている。しかも驚く事にこの国は2種類の貨幣が存在し、かつては外国人とキューバ人は基本的に別の通貨を使う事が定められて、店や商品によってはいずれかの通貨しか使えない。また長距離バスのチケット売り場が現地人と旅行者では違ったり旅行者専用バスが指定されていたり、その他諸々こういった現状が外国人とキューバ人をはっきりと区別する象徴的な事実であろう。それはきっとキューバはキューバ人のものであり他国の所有物ではないという社会主義的精神から起因するアイデアで、僕らの住む民主主義の国では考えられない常識がキューバにはたくさんあるのだが、そこがまた他の国では体験する事のできないキューバの魅力のひとつであるに違いない。でも欧米の資本が参入してマクドナルドやスターバックスのあるような国に変わってほしくないと切実に願う。キューバの古き良き街並と文化はそこにあるだけで偉大なる財産なのだから。

ロス・オーテンティコス “アスタ・シエンプレ”



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http://itunes.apple.com/jp/album/hasta-siempre-single/id458641215 Hasta Siempre /Los Autenticos

¥150
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※モバイル非対応

リミッツ・オブ・コントロール

僕は同じ映画を何度も観る。といっても好きな映画なら何度でもということだが、また観たいと思わせる映画こそアートの域に達しているが故であろう。

この映画もそのひとつである。いや正確に言うなら1回観ただけではちょっとわかりづらかったというのが本音である。僕はこの映画を見終わってまたすぐ見直さずにはいられなかった。というのもあまりにも美しいシネマトグラフィーだったため思わずそこに見とれてしまい、ストーリーの多くのディテール見落としてしまったからである。この名も無き主人公の黒人男性(イザック・ド・バンコレ)はある任務を課せられる。依頼人から詳しいことは聞かされずスペインに飛び、街から街へと見知らぬメッセンジャーと会い情報を得て最後の危険な任務を遂行する、いわばヒットマンなのであるが、この彼のキャラクターというのが一癖も二癖もあって、この映画の監督ジム・ジャームッシュらしくて面白い。

感情を一切表に現さず、コーヒーを頼むときは常にエスプレッソを二杯別のカップにオーダーし、渡されたマッチ箱の情報メモは必ず証拠隠滅のためそのコーヒーと一緒に飲み干す。余計なことは一切話さず、携帯電話を嫌い、素っ裸で突然部屋に現れる女性にも微動だにしない。セックスなど任務中は一切興味ないのである(きっとゴルゴ13やジェームス・ボンドならすぐやっているだろう)。ところがセビリアで目にしたフラメンコの情熱的な歌と踊りの美しさに思わず彼の人間的な部分が洩れ、思わず笑みをこぼし拍手をする。僕はそんなジャームッシュのどこかシュールで切なくて、温かい人間味あふれる映画の大ファンである。

だけどこの映画、とにかく台詞が少なく展開がスローなので、辛抱強くない人にはあまりオススメしない。僕が最初に見たときも、一緒に見ていたスペイン人とオーストリア人の友人は途中つまらなくあくびを繰り返し脱落寸前であった。でもこの映画の魅力はその静止動画の連続を見ているかのような美しいシネマトグラフィーであり、カラフルでエキゾチックなスペインの風景と謎めいたストーリー展開こそがジャームッシュの芸術性であり、そこがコアな映画ファンから愛され支持される理由であろう。彼の映画にはミステリー・トレインで登場した工藤夕貴や、ブロークン・フラワーズのビル・マーレーも客演していて、それぞれチョイ役ながらいい味出してます。


チコ&リタ

あー、かつてこんなにも美しくも切ないラブストーリーをアニメで観たことがあっただろうか?しかもストーリーだけでなく音楽も素晴らしい。この映画こそ僕が愛してやまない永久保存版である。

革命前のキューバ、バティスタ政権のハバナの街はアメリカの資本で活気に沸き、毎晩のように酒場には人が集まり音楽があふれ人情ドラマが繰り返されていた。そこに若き才能ある無名のピアニスト、チコが美しい混血のシンガー、リタと出会う。コンテストに出場し見事優勝した二人は実在するナショナルホテルの看板アーティストとなるが、それが二人の亀裂の原因となりリタは単身アメリカに行くことを決意する。ところが彼女を忘れることができないチコは自らのピアノを売りリタの後を追いかけ渡米、そこで二人は再会するのだが、お互い情熱的で感情をコントロールできない二人がうまくいくはずがなかった...

この映画の見所はなんといってもジャズやキャーバ音楽で構成されたサウンドトラックはもちろんのこと、実在したジャズミュージシャン達がアニメキャラで登場する所だろう。ディジー・ギレスピーチャーリー・パーカー、キューバの伝説のコンガプレーヤー、チャノ・ポソがトラブルに巻き込まれて殺されるシーンなんかは実話を元にしてあるし、テロニアス・モンクティト・プエンテまでもがアニメになっていてジャズやキューバ音楽が大好きな僕にとっては二度も三度もおいしい映画なのである。ちなみにチコは今も現役で活躍するキューバのピアニスト、ベボ・バルデスイラケレのピアニスト、チューチョ・バルデスの実父)を基にしていて、実際のサウンドトラックも彼がピアノを弾いている。あー、ビバ・キューバ!どこでもドアあったら今すぐにでも行きたいナンバーワン・デスティネーションである。

そして忘れてはならないこの映画のアニメを担当したのはバルセロナ・オリンピックのマスコット、コビをデザインしたハビエル・マリスカル。彼のデザインするチャーミングなキャラクターをフィギュアにしたらアキバ系のマニアックな人たちにも受けるんじゃないかな。いや、相当のジャズマニアじゃない限りディジーの人形なんて買わないか。