これは僕が2009年にキューバで現地のミュージシャン達とCDアルバムを制作したときに書いたエッセーです。あれから3年たった今、キューバは少しずつ変革が進みこの記事を書いた頃とはいくらか違いがあるかもしれませんが、これは僕のパーソナルな記録として読んで共感してもらえたら嬉しいです。
***キューバ革命50周年とストリートミュージシャンたち***
フロリダの南145キロ、カリブ海に浮かぶ西インド諸島最大の島
キューバ 。こんなにアメリカから近いのに両国間に政治的国交はなく社会主義という体制と革命の歴史、そしてカリブのトロピカルな気候が他に類を見ない独特の雰囲気を醸し出している。さんさんと輝く太陽の下、学校を終えた子供達が紙を丸めたボールで野球をしているところを、革命以前から走る巨大なオンボロ車は真っ黒な煙を上げ、その横を痩せこけた犬が遠慮がちに通り過ぎてゆく。決して豊かな国ではないのにキューバ人達はいつも元気がよく、自慢のステレオを窓の外に洩れるくらい大音量にして音楽を聞きながら大きな声を上げて話している。そんな日常的な光景を見ているだけで僕は思わず笑顔がこぼれ自分が異国にいる事を実感し、このキューバという国に魅了されていくのである。ところが今年で歴史的な革命から50年を迎えたこの国は、今いろんな意味で変わり始めようとしている。
<革命50年のキューバ>
親米と独裁政治を率いたバティスタ政権を2年以上にも及ぶゲリラ戦で勝利を治め、革命を成功させた
フィデル・カストロ 。彼は50年たった今も国民から支持を受けるカリスマ的存在であり、その同士
チェ・ゲバラ は革命の象徴としてアルゼンチン人でありながらもその肖像を街中に見る事ができる、今やキューバだけでなく世界中のアイコン的存在である。こんなにも長い歳月国のトップに君臨するなんて日本の政治からはとても想像できないが、そんなカストロも生身の人間、患っていた病状が悪化し自分の死を意識したのか、革命50周年を目前に去年その政権を弟のラウルに譲る事を決意したのである。この歴史的な出来事にキューバ人達は期待と共に不安も隠せなかったのは、そのフィデルの偉大さ故だろう。ラウルは早速キューバ人達に対する携帯電話やその他の電気機器の所有を自由化させ(それまではキューバ人が携帯電話を持つ事は法律上違法であった。というかキューバ人の一般的な収入では携帯電話の所有はほぼ不可能。)、今年の3月のニュースではそれまでフィデルに仕えた内閣の人選をがらりと変えた。アメリカのオバマ大統領はグアンタナモ収容所の閉鎖に向けた署名をしたし(ところが今現在に何の進展もないまま保留になっている)、キューバに対する国交改善に向けた規制緩和を呼びかけたのは記憶に新しい。ベネズエラのチャベス大統領の声援も手伝って、キューバが南北アメリカサミットに参加することも近い将来実現するであろう。ところが去年(2008年)、ハリケーンの影響で国家的にも経済的にも大打撃を受けたキューバは革命50周年の式典を盛大に祝う事を自粛した。もはやキューバは自国だけの生産だけでまかなう事が出来ず諸外国の支援なしではやっていけないのが現状である。従って近い将来アメリカを始めとする先進国の資本が流入する事もあり得るわけで、それはキューバ人にとっては改革に向けた新しい道ではあるが、キューバのキューバらしい素晴らしさが損なわれるかもしれないという懸念があるのも事実であろう。何はともあれ革命50周年を迎え共産主義国としてその姿勢を断固として変える事なく貫いてきたわけだが、キューバはこれからが変革に向けた重要な時期である事は間違いない。しかしそのラウル政権の改革が手厳しく、少なからずともそれに影響を受けて死活問題となっている人たちもいるのである。
<アブエロとの出会い>
2007年12月、僕ははじめてキューバに上陸した。この未知なる土地は夢と希望に満ち溢れていた。ボンゴを抱えた僕は何か面白い事はないかと毎日ハバナの街をあてもなく彷徨い、1週間ほどして出会ったボンゴセーロとセントラルハバナの彼の家でレッスンを始める事になった。ある日レッスンを終えた僕は腹を空かせ、道端でカヒータ(キューバの庶民的弁当。豆入りご飯に豚焼き肉とサラダなどが一般的。)を食べていた。ふと横を見るとギターを抱えた男が同じカヒータを食べている。とっさに僕は片言のスペイン語で話しかけた。
“ミュージシャンか?”
“そうだ。お前もか?”
“ボンゴを習ってる。”
“そうか。じゃ何かやってみるか”
みたいな軽いノリで僕らは定番
ドス・ガルデニアス を演奏した。瞬時に意気投合した僕らは彼の行きつけのバーに移動しビールを飲みながらさらに演奏する事になった。時間は午後3時。しかしそんな事キューバでは重要ではない。僕らが演奏を始めるとバーで働く人もそこにいた客も立ち上がり声をそろえて合唱し、みんな仕事を忘れフィエスタとなってしまったのだ。僕はこの洗礼に感激し“これだ!これが探していたキューバだ!”と実感せずにはいられなかった。それがアブエロとの最初の出会いだった。彼は素晴らしい歌声を持ち、ギター、ベース、
トレス 、パーカッションと何でもこなし、
ベニー・モレー をこよなく愛する天才的なマルチミュージシャンだ。彼はかつてフランス、スペイン、コスタ・リカをツアーで回りノルウェーに2年ほど住んでミュージシャンとして活動していたが、あまりにも寒かったらしく今はキューバに戻って来てストリートミュージシャンとして生活していた。その日以来僕らは毎日のようにハバナの街をともに演奏する事になったのは言うまでもない。僕は彼から多くのキューバの“ソウル”を学ぶ事になったのである。ところがそれから2週間ほどしたある日突然アブエロの消息がわからなくなってしまった。彼の家に行っても知人に聞いてもどこにいるかわからないという。突然親友を失ってしまった僕は途方に暮れてしまった...
<ロス・オーテンティンコス>
それからしばらくして僕は、
マタンザス と
サンティアーゴ・デ・キューバ を回って再びハバナへ戻って来た。じっとしていられない性分の僕は何か面白い事はないかと夕暮れ時のマレコンを徘徊した。すると遠くの方から音楽が聞こえてくる。50メートルほど先に数人の影が見え、僕はそこに吸い込まれるように歩いていくと、やがて聞き覚えのある歌声が近づいて来た。
“アブエロ!”
と叫ぶと彼は演奏をやめて驚いた顔をして僕を見た。
“エルマノ(兄弟)!”
僕たちはすかさず抱き合って再会の喜びを確認した。彼の話によると母親の体調が良くなくて故郷の
ピニャ・デル・リオ に戻っていたらしい。携帯電話やインターネットなどの便利な通信手段に慣れてしまった現代人にとってこんな出会い方をすると運命的としか考えられなくなってしまう。僕らは再会を祝しプランチャオ(紙パックに入ったラム)を片手に歌い演奏した。そしてアブエロはそこに一緒にいたレイナルドとアルベルトを紹介してくれた。僕は彼らの演奏に度肝を抜かれた。レイナルドはブルージーな歌声を持つマラカスプレーヤーで自らをレイ・マラカと名乗るマスターだ。65歳とは思えない強靭な体力と華麗なマラカスさばき、そして豪快なラムの飲みっぷりは初対面の僕に強烈な印象を与えた。アルベルトはレイの兄で素晴らしいギタリスト。68歳になる彼は腰が少し曲がってきてはいるが、ギターを弾きだすとオンボロの楽器から至福のメロディーを奏でるまさに錬金術師さながらのテクニシャンだ。かつて自身がリーダーでアブエロもベースで参加していたバンド‘キューバ・オウテンティカ’を率いていたが、残念ながらメンバー同士が問題を起こしアルバムを1枚作って解散してしまった。その日から僕は毎日彼らと共にマレコンで演奏した。そして意気投合した僕らは
ロス・オウテンティコス を結成したのである。
<マレコンとストリートミュージシャン>
映画
ブエナ・ビスタ・ソシャル・クラブ の冒頭でライ・クーダーが息子のホアキンとサイドカー付きのバイクで走る海岸通りマレコンはメキシコ湾に面する東西8キロにわたる堤防通りで、そこは旅行者なら誰もが一度は訪れるハバナの街を代表する場所である。排水が流れてくる岩場のビーチはお世辞にもきれいとは言えないが、それでも元気なハバナっ子たちは海めがけて飛び込み、夕暮れ時になると人が自然と集まる地元民のコミュニケーションの場でもある。そこには革命前から多くのトロバドレス(吟遊詩人)と呼ばれるミュージシャン達が集い、かつてはあのキューバポピュラー音楽の父と呼ばれるベニー・モレーやマンボキングの
ペレス・プラド もそこに幾度となく現れセッションをしていたという。僕がロス・オーテンティンコスのメンバーに会ったのもこのマレコンで、かつて毎日のようにラムを片手に演奏し歌ったこの場所は我々にとっても思い出の場所でもある。生活の貧しいキューバ人にとって音楽は心の拠り所であり、僕らが演奏を始めるとそこに自然と人が寄り集まりその場で大人も子供もあわせて大合唱フィエスタが始まるのであった。ところが政権がラウルに変わってから突然取り締まりが厳しくなり、そこで演奏するストリートミュージシャン達を一掃しはじめたのである。旅行者達に対する政府の配慮がその理由らしいが、かつてそこで演奏していたミュージシャン達は職場を失ったのも同然である。もしそこで演奏をしていたり旅行者にCDを売っている現場を警察に見つかったら、その場で逮捕され1500ペソ(約60米ドル)の罰金を科せられてしまう。僕らにとってはたいした金額ではないが平均月給が約12米ドルのキューバ人にとってはあり得ないほどの大金である。実際僕の目の前で警察に連行されたミュージシャンを知っているし、ロス・オーテンティコスのメンバーの弟がCDを売ろうとしたところを現行犯逮捕され罰金に処せられたのである。ここで演奏する事は禁じられてしまったので職場を失ったロス・オーテンティンコスは、その死活問題に直面している当事者なのである。
<最近のキューバの音楽事情>
ブエナ・ビスタ・ソシャル・クラブでライ・クーダーはこう言った。“キューバでは音楽が川の流れのように満ち溢れる。”前述のようにストリートからミュージシャン達は姿を消してしまったが、ハバナ・ビエハと呼ばれる旧市街を歩いているとカフェやレストランから毎日のようにライブ演奏が聞こえ、住宅街の一室でサルサバンドのリハーサル風景が見られるのは珍しい事ではない。マタンザスに訪れたときはルンバのダンスレッスンがコンガにあわせて日常的に行われているのを目撃したし、サンティアーゴ・デ・キューバではカーサ・デ・トロバなどで伝統的な
ソン を堪能する事が出来る。ハバナでは毎年2月になるとジャズ・フェスティバルが開催され、今年はイラケレの
チューチョ・バルデス が音頭をとって無名の若手ミュージシャンから大御所
オマラ・ポルチュオンド までをフィーチャーして素晴らしいパフォーマンスを披露していた。またブエナ・ビスタ・ソシャル・クラブの商業的成功とは別に、地元キューバ人には
ロス・バン・バン や
チャランガ・ハバネラ 、
バンボレイオ などのティンバヤソンゴと呼ばれるキューバン・サルサが人気である。彼らは国際的にも知られるがカーサ・デ・ラ・ムジカなどの地元有名クラブで頻繁にコンサートを行っていていつもキューバの夜を賑わせている。またレゲトンも忘れてはならない。このヒップホップとレゲエをラテンのスパイスで調理したダーティーなリズムは老若男女問わず大人も子供も大好きで、キューバだけに限らず
プエルト・リコ をはじめラテン・アメリカの若者を中心に新しいカルチャーが作られつつある。しかし残念ながら貧しいキューバ人達に正規版を購入するのは高価すぎるので、決して良質とは言えない海賊版のCDやDVDが街頭で堂々と販売されているのが現状である。何はともあれラテン音楽の素晴らしい特徴は音楽とダンスがとても密接な関係にある事だろう。マンボ、ルンバ、メレンゲ、レゲトンなどリズムによってステップやダンス・スタイルが変化し、音楽は男女が一緒に踊るのが当然という認識が強い。キューバ人は音楽をこよなく愛し、そこにリズムとメロディがあれば時と場所かまわず、大人も子供も誰もが思い思いに楽しむのである。
<キューバの将来>
2009年2月僕はロス・オウテンティコスとレコーディングするべく再びキューバを訪れた。1年振りのキューバに大きな違いは感じられなかったが、ある所には視覚的な変化を見る事が出来た。マレコンからミュージシャン達は消え、かつてのような賑わいはなくなった。前年のハリケーンの影響で壊滅したビルもあちこちに見られた。街中に警察がパトロールをしていて、地域の安全は保たれているのだが(キューバはカリブ海諸国で最も治安のいい国といわれている)なんとも物騒な景観である。もともとキューバ政府はキューバ人と外国人に対する隔たりが強く、旅行者が一般のキューバ人の家に泊まる事は違法であり、必ずホテルか政府に登録済のキューバ人ゲストハウス(カーサパティキュラーと呼ばれる)に宿泊することが義務付けられている。しかも驚く事にこの国は2種類の貨幣が存在し、かつては外国人とキューバ人は基本的に別の通貨を使う事が定められて、店や商品によってはいずれかの通貨しか使えない。また長距離バスのチケット売り場が現地人と旅行者では違ったり旅行者専用バスが指定されていたり、その他諸々こういった現状が外国人とキューバ人をはっきりと区別する象徴的な事実であろう。それはきっとキューバはキューバ人のものであり他国の所有物ではないという社会主義的精神から起因するアイデアで、僕らの住む民主主義の国では考えられない常識がキューバにはたくさんあるのだが、そこがまた他の国では体験する事のできないキューバの魅力のひとつであるに違いない。でも欧米の資本が参入してマクドナルドやスターバックスのあるような国に変わってほしくないと切実に願う。キューバの古き良き街並と文化はそこにあるだけで偉大なる財産なのだから。
ロス・オーテンティコス “アスタ・シエンプレ”
VIDEO iTunesリンク
http://itunes.apple.com/jp/album/hasta-siempre-single/id458641215 Hasta Siempre /Los Autenticos ¥150
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