:: エクリチュールアバンチュールシュール ::
Amebaでブログを始めよう!
こんにちは。オカザキです。
夏ですね。暑いですね。京都は連日30度を超える暑さです。
梅雨明けはいつ発表されるのでしょう。いえ、発表されたからなんやねんって感じですが。暑いのには変わりなし。
昨日は日中外に出る気になれなかったので家に篭っていました。
でも一日外に出ないとなると、夕方、具体的に午後5時辺りから謎の無力感と虚無感、充実して無さに包まれ、無性に泣きたくなりませんか。私は泣きそうになりました。
ということで昨夜は木屋町のバーへ繰り出しました。店長さんや常連さんとひたすら「夏だわ~~~~~~」「タイとかインドとか行きてぇわ~~~~~~」「旅行者丸出しで行ってタクシーにぼったくられてぇわ~~~~~~~」と話してたら、ピニャコラーダをふんわり夏仕様にしてくれました。



「酒が人を駄目にするのではない、元々駄目なことを気づかせるだけ」とはよく言ったものですね。
無力感と虚無感を忘れるために出掛けたのに、結局終電の車内で「なんだったのだろうか・・・・・・・・・」とよくわからない気持ちになりました。
でもとても楽しかったです。ここまでどうでもいい日記です。


------------------------------------


突然ですが自分語りに入ります。
ここが居酒屋で、(想像ですが)上司にいきなり自分語りされたらめっちゃどうでもいいしむしろ嫌だし、「あ~~~猫カフェに行きたいな~~~」と上の空で聞いているふりをするのが関の山でしょうが、ここは私のブログなので気持ち悪いですが語ります。

私はとても自己評価の低い人間だそうです。
自分でダメだと思っていることやコンプレックスを人に打ち明ければ「そんなことないよ、オカザキは頑張ってるよ」とか「謙虚だね」とか優しい(もしくは建前)(卑屈か)言葉を掛けてくれるのですが、そういうことではないんです。
他の言葉に言い換えれば自信がない。
さて、自信とはなんでしょうか。
字に書いてのとおり、自分を信じることです。
だから他人の評価はあまり関係ないといえるでしょう。(勿論褒められたら嬉しいし、良くないと言われたら反省するのですが)
といいつつもやはり対面や相手の評価というのは、現代社会に生きている以上、無視できない存在です。
自意識過剰であろうとなかろうと、他人の目を意識していなければファッション誌やヘアサロンは廃業に追い込まれてしまうでしょう。
自分で努力して自分でつかみ取らなければ、結局のところ満足は程遠いのです。
自分自身を褒めてあげられるときというのは自己満足が全てだと思っています。

さて、話が少し逸れますが『すべての男は消耗品である』(村上龍・著)の中で著者はこう言っています。

"当たり前の話だが、いろんな女がいる。ブスは論外だ。
 ブスにも素晴らしい女はいるが、内面の輝きが表層に表れるというのは、ひとつの転倒にすぎない。
 わかりやすくいおう。ブスの中にも社会的に素晴らしい女はいる。有用な女だ。
 だが、最近の女性雑誌がよく特集しているように、内面を磨けば顔形まで美しくなるというのは大嘘だ。"

"すべては才能なのである。顔やからだの美醜、生まれ、育ち、それらも才能の一部だ。
 才能はほとんど同義語だと言ってもいい。"

"才能には理由がない。才能のない連中は理由を欲しがる。
 私生児だったから、
 両親が英才教育をしたから、
 芸術家の家系だから、
 戦後生まれだから、
 理由は何でもいいのだ。特別視しようとする、それは間違っている。(中略)
 だが、才能は努力をある程度要求するが、努力で才能を生むことはできない。"





ウワッ


ううん、、、村上龍らしい歯に衣着せぬというかえらく上から目線な物言いというか、、、、
私は特別フェミニズムに傾倒しているわけでは無いので怒り狂うことも鼻で笑うこともありませんが、まぁ、単純に「ブスに生まれてきた私は一体これからどうすれば・・・・・・」と無窮の絶望感に襲われました。


何故、私は容姿を気にするのか。
日頃からよく考えてみるのですが、最終的に落ち込んでくるので暗い話はやめだやめだ!閉店ガラガラ!!!と強制終了することが多いです。今日は頑張ってじっくり考えてみました。


◎まず、単純に人からよく見られたいという理由。

礼服やオフィスカジュアルというものが示すようにTPOをわきまえた衣服があります。
そこまでいかなくともファッション誌には「合コンにおける男ウケするメイクとは?」「女子会ウケするクールなコーディネート術」という文字が踊っています。

『人は見た目が9割』(竹内一郎・著)というタイトルが表すように、第一印象とはルックスや行動としか言いようがありません。見た目や振る舞いがその人の印象を左右します。
こう書くと「面食い」とか「人を見た目で判断するのはいけない」とか非難を浴びそうですが、事実、言葉を交わさない限り判断材料がそこしかないわけですから仕方がないと思いませんか?
アイロンの掛かってない糸くずの付いたシャツを着て、よく見ると袖口のボタンが取れている。
靴のかかとは磨り減ってボロボロ。鞄やポーチの中はぐちゃぐちゃ。食事中は食べながら話すし、箸の持ち方が変。
そんな人の生活環境が整っていると思いますか?部屋が綺麗とは思えないし、アイロンを掛ける時間がないほど余裕のない毎日を送っているのかもしれない。
食事の所作ひとつとっても、失礼だと思いつつ、その人の家庭や親の教育を疑ってしまいませんか?
自身の見られ方に無頓着すぎるひとに面白くて格好いいひとがいた試しがありません。

そうならないために、他人の目を気にする必要というのは少なからずあると思います。


◎次に、現状に自己満足していないから。

欲求段階説という心理学用語があります。
これはアメリカ合衆国の心理学者アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものです。
ひとつの欲求が満たされても、すぐに新しい不満感が生じて落ち着かなくなる。
これを繰り返し人間は成長する―――簡単に言うとこういうことです。

1つ目の『他人の目を気にする』という理由と矛盾しているなぁと自分でも不思議に思うのですが、私はいわゆる赤文字系ファッションが好きではありません。社会に溶け込むためにはとても洗練されたファッションだと思いますし、可愛いとも思います。でも着たくない。似合わないとかそういう理由でもない。
私のクローゼットは黒い服が多いです。ガラスの仮面の月影先生かよ、というくらい黒いです。
そして趣味嗜好に傾いた服が多いです。
具体的に、セーラー服モチーフのワンピースや、水玉柄のワイシャツ。つまりカジュアルやコンサバなど赤文字系からは程遠い。
個性派を気取っているわけでもなく、自然と手に取り、気に入るのがそういう服なだけです。
先程述べたとおり、私は自己満足こそ全てだと思っています。
「こうなりたい」という理想、もとい欲求があるならば、マズローの欲求段階説に則ると満足がいく状態など一時しか保たれないのではないかと考えます。
だから地道にひとつひとつ、自分の好みに満足いくものを手に入れるしか道がないのです。

これはファッションに限らず、あまねく趣味に関しても言えることだと思います。
音楽なら「本当はメタルやハードコア、ニューウェーブやテクノポップが好きだけど、カラオケで皆で盛り上がるために流行りのJポップを覚えなきゃ」とか「本当はインドア派で読書やひとりで映画を観るのが好きだけど、暗い奴って思われたくないし、趣味はアウトドアって言った方がいいかなぁ」とか。
マイノリティを特別だとか個性的だとか自分に酔うことは一切ありません。
ただ心から、好きなものがマジョリティに属していたらどれだけいいだろう、とは思います。
無理する必要がないからです。
自分の好きなものを殺して演じることは辛いことです。自己満足というものから遠く離れます。
だから、「周りから何と言われようと、私はこれが好きだ!好きなものを好きと言って何が悪い!」と自分に嘘を吐かず素直に生きている人を見るととても羨ましく思います。


------------------------------------


私が自分を「ブスの無能」と言うのは卑屈になっているわけでもハードルを下げようとしているのでもありません。(いや、少しぐらいはその要因も含まれている)
評価はさておいて、圧倒的に自己満足が足りてないだけです。
満足しないということは成長の第一要因であるのかもしれません。
勉強や能力はスコアがつくので評価はわかりやすいですが、まだまだ学ぶ必要があると思うことは更なるスキルアップにつながります。

他人からの評価と自己満足。
このどちらかが重要というわけではなく、両方とも重要だということです。
村上龍が言うとおり、心が美しいから見た目も美しくなるというのは間違いです。大嘘です。
むしろ「見た目が心に作用する」という結論が研究によって明らかになっています。
私は見た目に不満足で、コンプレックスに思うところが多々あります。
容姿が才能なら、それを努力でせめてマシにしていく他ない。
ただし「他人はそんなに気にしていない」という言葉も書いておきます。
今まで散々書いたことはなんだったのか・・・・・・とそれこそ虚無感に襲われますが、気にしすぎてもろくなことないので、ある程度楽観的にポジティブに捉えることも必要なのかもしれません。

とにかく、自分で満足のいく容姿/能力を目指して努力を繰り返せば、いずれ必ず評価がついてくる。
わかりきっていた答えかもしれませんが、改めて考えてみると、途中で心が折れそうになった時に律することは難しいですね。うーん・・・そうなった時の対策を考える必要性アリ・・



nowplaying::
Kasabian - album『KASABIAN』『Empire』

こんばんは。オカザキです。


タイトルがとても不穏なのですが、読んでみると「あれ?」ってなりませんか?
不自然というか、なんというか。
主語が「私」なのでこのセリフを口にしているのは同じく「私」です。
それでいて動詞は「死ぬ」の過去形です。「昨日死んだ」。
ノンフィクション小説なら詩的な始まり方であるし、あるいは、死者が何故か蘇り、自分の死の真相を突き止めるための冒険に出るSF推理のストーリーも浮かびます。
しかし、このセリフは現実ではまずありえない。
(肉体的ではなく精神的な意味合いなら別ですが)

そう、私たちが唯一、体験した上で書き記せないのが「死(death)」です。
意識を失っている間に幽体離脱をした、という体験談なども探せばたくさん出てきますが、そういうのはオカルト専門の方にお任せします。
ゆえに、私たちは生きている限り死の本質というものに触れることはできません。
私たちが知っている「死」とはあくまでも他人の「死」でしかありません。
痩身エステや某ニキビ予防洗顔料のように、お試し体験ができないのが「死」なのです。


人類の「死」に関する歴史を紐解けば、宗教的な思想によって支えられた/もたらされたものが多いです。

身近なもので言えばお葬式。各家庭・各人の属する宗教によってまずスタイルが違います。
手向ける花の種類さえ違う。
そして何より「死」への観念。天国に昇るから幸せだとかまた生まれ変わるだとか様々です。
(仏教という枠の中でも法相宗、律宗、真言宗、浄土真宗、日蓮宗・・・とたくさんありますし)
生きている内から死を恐れたり受け入れたり、また、死後こうなるから現世ではこう生きるべきだ、という戒めにもなっています。

そして、もたらされたケース。
ジョルジュ・バタイユの著書より引用して、古代アステカの人身御供を例に挙げます。
古代アステカの人々は太陽神・ラーを崇拝していました。

"神官たちはピラミッドの頂で生贄を殺害するのだった。生贄を石の祭壇の上に横たえ、黒曜石の短刀でその胸を突き刺した。まだ脈打っている心臓を抜き取り、そんなふうにしてそれを太陽に向かって差しのべるだった。生贄はほとんど戦争の捕虜であり、そうすることによって戦争が太陽の生命にとって必要であるという考え方を正当化するのだった。すなわち戦争は征服ではなく、蕩尽の意味を持っており、そしてメキシコ人はもし戦争が途絶えれば、太陽は輝くのをやめるだろうと考えていた。"

太陽の絶命=太陽からエネルギーを受け取っている人類の絶命であり、そのために死(犠牲)は必要である、という考え方でした。


--------------------------------------


何が言いたいかというと、私たちは「死ぬこと」を頭で理解する他ない、ということです。
しかし、生と死は自然の摂理であるのに人は忌み嫌いますね。
そういうわけで、頭で理解すると一口に言っても、日本語における「死ぬ」の表現はとても数が多いです。
いわゆる婉曲表現(euphemism)です。
相手を気づかい、遠まわしにいう丁寧な言葉を婉曲語といいます。放送禁止用語の「言い換え」もこの一種と見ることもできるかと思います。(自粛とか規制とかで)

死の婉曲表現のレパートリーは、すり替えぼかしが用いられる点では「性」と「排泄」の婉曲表現と同じです。
具体的な例を挙げます。本当にバリエーション豊富なので思いつく限りを分類してみても、これ以外にももっと多く存在するのは間違いないでしょう。

1.すり替え)) 息をひきとる、息絶える、眼を瞑る、冷たくなる、骨になる、土になる、空しくなる、鬼籍に入る、亡き数に入る、仏になる(成仏する)

2.ぼかし)) 万一のこと、もしものこと、何かあったら、(御)不幸、事切れる

1.すり替えの表現には時間の概念が大きく関わっています。
時間的に先行あるいは後続する行動・状態を、「死ぬ」に変わって用いる表現方法です。

さて、先程述べたように、死は、性や排泄とは異なり、自分の肉体では経験できない概念です。
そのため、性や排泄と共通する上記の1.2.に加えて、見立ての表現があります。

3.見立て)) あの世に行く、他界する、昇天する、天に召す、大往生を遂げる、幽明境を異にする、世を去る、辞世、死出の旅に出る、不帰の客となる(帰らぬ人となる)、冷たくなる、土に還る、命を落とす、お隠れ、巨星落つ、没する、死没、(安らかに)眠る、永眠する

生から死へという状態の変化をこの世界から別の世界への移動に置き換えてみる。すると、死は移動の結果、自分が認知できる世界からいなくなった状態というかたちで理解することができます。
自ら移動するはずのない対象がひとりでに移動した結果、私たちの認知が及ばないのだと考える。私たちにとってそれはとても自然な事態把握の方法です。
(「ケータイが見つからない」ということを「ケータイがどっか行った」と言うのと同じです)
また、予見不可能な死が持つ恐ろしいイメージを移動や天体の動きなどに置き換えることができます。
前回のブログでも少し書きましたが、人間というのは認知できないものに恐怖や抵抗感を覚えます。そのために、漠然としたイメージの「死」を置き換えて表現し理解することによって飲み込もうとしてきたのだと考えます。


他にも「死亡する」。報道系で多様される言葉ですね。事実を客観的に述べているような語感で、婉曲性は低めです。
「逝去」は他人が死ぬことの尊敬語。身内の死に対しては「死去」「永眠」を使います。(確か)
「崩御」は天皇・太后・皇后が亡くなることをいう尊敬語。
(ついでに、人間の骸は身元不明だと「死体」、身元が明らかだと「遺体」となります。動物だと「死骸」。でもペットに対して死骸という人はまずいないんじゃないかな・・・対野生動物って感じ)


--------------------------------------


重複する部分もありますが、「星になる」「鳥になる」「月へ行く」などは個人的に詩的で好きな表現です。
散々説明しておいてアレですが、私は特別に宗教観というものがありません。
だから輪廻転生とか、死後何かになるという考え方は受け入れがたいのです。ざっくり言えば、「死んだら無になる」という思想でしょうか。
しかしながら死の婉曲表現はとても美しいと思います。矛盾しているかもしれません。
大事な人を悼んだり残された人たちを慰めたりする意味合いが強いなら、婉曲語はそうあるべきなのだろうとも思います。
実際問題どうなるのかは科学が及ばない次元にあります。実際問題どうなのかは重要ではなく、それで生きている人たちが救われたり心が静まったり、納得するために宗教や信仰は存在するのだと思います。(だからといって過激派を支持するわけではありません。あれは単なる暴走であり、思想の押し付けです。自分が救われるため以外に乱用するのは間違いだと思います。)

私は幼い頃、親戚が亡くなった時、式場や火葬場で遺体を囲んで空を見上げた記憶があります。
悲しかっただろうとは思うのですが、幼かったためか唐突だったためか、「人が死ぬ」ということがイマイチ理解できずに泣くことができませんでした。
当時の私は、魂が天に昇ったのに、何故みんな空っぽの体を見ているのだろう、と思いました。
恐らくそんなことを今この歳になって公言すると薄情だと非難されるのでしょうが、考えること自体は自由だと思っています。だって、結局のところ、死が何であるか分からないのですから。

そういうときに言い換えのボキャブラリが豊富だと助かると思います。
言葉を選ぶ状況で、その選択肢すら知らなかったら誤解を招くし、最悪人でなしと罵られることになりかねません。
婉曲表現は過剰だと真実味が希薄になるに加えて滑稽ですが、皆無だと簡単に人間性を疑われてしまう。
何事もストレートに伝えるのに向いてない国だから、ふんわりと靄がかかった言い回しを好む。
場合によりけりですが、婉曲はとてもやさしい表現だなぁ、と思います。



ということで今回は少し真面目に「死」と「婉曲表現」について考えてみました。


nowplaying::
me-al art - album『生まれてきたけれど』


わあ!アメブロ!懐かしい!
最後にアメブロ更新したの何年前だろう…紀元前かな?というくらい懐かしいアメブロ。
ただいま。わたしは元気です。嘘です。普通です。あと少し眠いです。


ということで久々にブログ記事というものを書きます。
最近は専らSNSを利用することが多いので、
論文やレポート以外で長文認めるというのがどのようなものだったか少し忘れました。

はて、ブログとは。

"ブログとは、個人や数人のグループで運営され、日々更新される日記的なWebサイトの総称。内容としては時事ニュースや専門的トピックスに関して自らの専門や立場に根ざした分析や意見を表明したり、他のサイトの著者と議論したりする形式が多く、従来からある単なる日記サイト(著者の行動記録や身辺雑記)とは区別されることが多い。"

要するに日記でいいそうです。
しかしながら、上の引用にもあるように、あるトピックスについてコメントを頂戴する機会を得られるということは、私の知らない誰かが私の文字を読み、意見や思考に触れるということです。

それは勿論物理的に遠い人たちを繋ぐという文明の功績であります。
ところがそれだけで知り合いになった勘違いをしている人たちも少なからず見かけます。
これは声を大にして言いたい。あなたは私の友達じゃない!!!
(これは個人ブログより、Twitter等のSNSの方が顕著ですが)

過去にいくつかブログサイトを持っていたし現代っ子なのでそこらへんは重々承知していますが、
いわゆるネットリテラシー、個人情報を過剰に公開しない / リアルタイムで行動をポストしない / 住所・活動拠点がわかるような写真を載せない / 位置情報の設定に気をつける etc...


縛りが多いよめんどくさいな


何が言いたいかというと、「ブログは日記であるべきではない」ということです。
?引用と矛盾している!これはどういうことだWikipedia先生!!!

訂正。もっとストレートに言います。


「バカはブログをするな」ですね。


ヨシ!解決!今日は解散!!!ピピーーーーッ!!!




嘘です。
激昂した金八先生が言いそうですが、これで解散したらあまりにも中身のない記事になってしまいます。
ですが「芸能人のネット炎上」。芸能人・有名人だからとりだたされる事態になってしまうのは致し方ないとして、一般人でも最低限のネットリテラシーを守れないと最悪命(社会的にも身体的にも)に関わりますから。だから守りましょう。
守れない/守る努力もできないようならそもそもネットに向いてないんです。
それでも構わない!っていうアウトローパンクスな人はくれぐれも周りに迷惑が掛からないよう細心の注意を払って欲しいですね。
ところで携帯電話にカメラ機能が付いてからというもの、家の外に出ている内は常に監視されてるといっても過言ではないような気がします。
『晒し』というやつですね。
気を抜いているときでも素行には充分気をつけたいものです。
(いや、素行が悪いことはよくないですが、それを面白がって人権など無しにネットの海に放ってしまう行為こそ悪であるのですが。晒した側はまるで悪を裁いてやったと言わんばかりの態度だったりしますし。ポストを削除したって画像が保存されてたりスクショされてたら、本当に永久にインターネットから消えないからね…よく考えようね…晒しヨクナイ……)


-----------------------------


話が逸れました。
私がブログを書いたり辞めたりを繰り返した理由を考えてみようと思います。
単純に飽きたならブログURL自体を消す必要はなかったと思うし、あれは一体何だったのか?
もちろん若気の至りとか青かったとか単純に黒歴史とか色々理由は思いつきますが、
恐らく「無意味」だと気づいたのだと思います。

例えば「今日テストがあった。最近テスト勉強でろくに眠れてない。疲れた。」とポストしたとします。

いや、だから??????

これはあくまでも例ですが、当時の学のないあたまだったらやりかねない所業です。
どうだっただろう…書いていたかもしれない…書いていたとしたらとても恥ずかしい…
忘れました!脳の忘却機能に感謝するケースのひとつです!

もちろん有効にブログを活用されている方は多いです。
面白い文章が書けるひとはアクセス数が見込まれてコラムの仕事が舞い込んできたり広告や通販サイトのリンクを貼れば稼いだりすることができる。
そこまではいかなくとも、読書家のひとなら本のレビューをブログに書き、同じ趣味のひと達と意見交換をする場にすることもできるでしょう。

しかし私には文才もなければ意見交換をする場を求めているわけでもありませんでした。
どちらかというと、「頭の中のもやもやしている部分を文字にして確認する作業」だったと思います。
具体的に言えば、友達とケンカをした原因、好きなものを何故好きなのかということ、自己分析のようなもの。
「名付けられたものからは恐怖や違和感が消える」ということを求めて文字にしていました。
でもブログで不特定多数に公開されている以上、具体的なことは書けずにいつも曖昧に終わり、その内ページ自体を閉じてしまう。その繰り返しです。


そんな時、私の好きなミュージシャンがブログでこのような記事を書きました。


日記を書く練習 - 松永天馬の記憶の記録


この記事を読んだ時から私は日記をつけ始めました。
単純ですね。でもブログよりもしっくりきたのです。
「日記は他人に読ませるためのものではなく、自分で読み返すためのものだ」
同ブログでこうも言いました。
これらの言葉を受けて自分自身に手紙を書くような気持ちで臨んでいます。
確かに、感情というものは一過性のものが多い。
読み返した時に笑っていられるようなことならいいかもしれませんが、そうじゃないことも同じくらいあるはずです。
だから本当に心象なんて書いてもプラスになることは少ないと思いますし、どんな気持ちになったかはベッドに入って意識を手放すまでの時間で充分なのかもしれない。
(特に恋愛にまつわる日記を書いたって、のちのち火で燃やすしか道がないわけですし……)

なんにせよ、自分の行動や感情を「自分を知らない誰か」に投げかけたところで得られるものはそんなに多くないと思います。
「逆に私を知らない方がいい。逆に身近な人には言えないことだからこそブログに書く。」
その気持ちはとても良くわかります。
きっと過去の私もそう考えていたと思う。
でもそれで何か解決した試しはあるのか、と問われれば黙り込む他ありません。
結局、悩み事の解決策は自分で考えたものの方が実行しやすいし成功率も高い。
何故なら状況や条件を一番良く把握しているのは他ならぬ自分自身という場合が多いからです。

考えて考えて、それでも行き詰まったら尊敬できるひとにアドバイスをもらうことも大切ですが。
ただ、他人に訊いてばかりだとひとりで考えることが出来なくなってしまう危険性も孕んでいるし、
何より自分自身のことを他人に頼るってリスキーだし、なんというか、カッコ悪い。
頼って来るばかりの人に頼りたいとは思わないですよね。
そういう自分の良くない部分に向き合うためにも、日記を通じて自己分析しています。



以上、私がブログを辞めた理由でした。
一日の終わりに文字を書くのも結構楽しいです。
もやもやしている人に是非おすすめしたいです、日記。


-----------------------------


リンク先の記事を忠実に守るなら、これは日記ではなく正真正銘ブログでした。
他人に読まれることを前提とすると、細部にエンターテインメント性を意識してしまいます。
私小説のようで冒険のようで超現実的。
エクリチュール・アバンチュール・シュール。


nowplaying::
アーバンギャルド - 2nd album『少女都市計画』