幽かに、ものの歪む音が聞こえた。
まるで人の唸り声のような、悲鳴のような。
かと思えば、さざめきのような、笑い声のような。
ギュィィィィィ・・・・・・・・・・
キャゥ~~~~ンッッッ
耳鳴りにも似た感覚の、なんとも表現仕様のない、大気の悲鳴。
この静かの海に出て、初めての外からの「音」である。
私は、その正体を確かめようと、甲板へと向かった。
先ず私がその異変を確信したのが、甲板へ向かう扉である。
詳しくは分からないが、厚い樫の一枚板であろうその扉が、船外へ向かって、中心からたわんでいた。
かみ合わない扉を見て、外に出ることを諦めかけた私の耳に、何か、切ない歌声の様なものが聞こえたのは、気のせいだろうか?
私はその声に誘われるままに、開きにくい扉を力まかせに限り押し開いた。
凹んだ中心部分から漸く身体半身をねじり込んで、何とか外の様子を伺えるほどに隙間を作った。
あの歌声は、まだ私の鼓膜を震わせている。
我ながらおかしいほど、必死で身を乗り出し、外を伺う。
見えるのは、ただひたすらの―――闇。
とりどりの色彩や造形で見る人を愉しませてくれる、いつもにぎやかな小さな星影たちもない、だた静寂ばかりが広がる、闇の世界。
いや、静寂といっても、何も聞こえないわけではないのだ。
闇の奥深くからは、もの哀しくも切ない、女の歌声の様なものが反響して響いて来る。
しかしやはり、表現としては「静寂」といった言葉の似合う、暗黒の世界がそこには広がっていた。
どんなにこの静かの海が穏やかでも、ここまでの闇夜に包まれていたことは、ついぞなかった。
そしてふと、私は違和感に気付いた。
そうだ。いつもならば、星達の光はもとより、この舟の照らす光で、あたりにはもっとぼんやりと光りが満ちているはずだ。
私は甲板の照明に目をやった。
不思議なことに、しかし当然のことながら、そこにはきちんと明かりが灯っている。
しかしどうしたことか。その明かりは途中で光の軌道が歪められ、何かに反射する前に、船外の暗闇へと呑み込まれていた。
光が、不自然に屈折している。
私は、扉の外に手を伸ばしてみる。
すると、温度の感じられない何かが、私の手を掴んだのを感じた。
それとも風であろうか?
船外に伸ばした私の手を、水鳥の中羽で包み、引き込まれる様な感覚。
こちらへ・・・・・・
脳内に直接響いてくるような、甘い囁き。
その声の主を探すように向けた視線の先には、上下左右、感覚を狂わせるタールの闇―――
そして、その中に、私は見た。
うすぼんやりとほのかに発酵する青白い身体と、闇よりも尚暗い、漆黒のつややかな長い髪、涙に揺れ煌く黒曜石の二つの瞳を―――見た気がした。
ふと目を開くと、そこは船内のサロンだった。
私は長めのソファに寝かされており、横に目をやると、久しぶりに会う、山高帽の紳士が、低いテーブルを挟んだ向かいに腰掛けていた。
「あ・・・お久しぶりです。」
まだ状況が完全に把握しきれていない私が起き上がり、とりあえず挨拶すると、彼はひとつ頷いて、一人がけのソファから腰を上げた。
そのままここから出て行こうとしているのを察した私は、慌てて声をかけた。
「あの。・・・私は一体・・・・・・?」
紳士はどこか申し訳なさげに私を振り返ると、もとのソファに再び腰を下ろすことなく言った。
「あなたは、セイレーンに魅入られていたようでした。少し手荒な真似をしてしまいましたが、お許し下さい。
念の為、医務室へ行かれることを、お薦めします。」
私はなぜ医務室にいかなければならないのか分からないまま、より気になった単語を反芻した。
「セイレーン?あの、神話のですか?」
慥か、ギリシア神話だっかたに、その歌声で人を惑わす女神がいたように記憶している。
「そう・・・かもしれませんし、別のものかもしれません。ですが、私はそう呼んでいます。
宇宙の生成の母たるものです。」
セイレーンは宇宙のあらゆる物を引き寄せ、かき集め、それをもとに、新しい宇宙を作るのだと。
セイレーンが何をどれだけ集めたかによって、作られる宇宙の内容が違ってくるそうだ。
光りをたくさん集めれば、光の多い宇宙に。生物が入っていれば、命の存在する宇宙に。
「この船は時々、彼女らの棲む沼を横切ることがあります。先ほどの様に。
あらゆるものを引き寄せ、それによって生成するのが彼女達の役目であり、存在理由のようです。」
だから、彼女達を恐れるのではなく、私たちが気をつけていなくてはならない。
彼はそう言葉を結び、私を残して去っていった。
一人になったサロンで、私は再び耳を澄ませた。
先ほどの甘く切なくもの哀しい歌声は、私の鼓膜を震わせているようでもあり、そうでないようでもあり。
本当に耳に聞こえているのだろうか。それとも記憶の残響が響いているだけなのかもしれない。
私は必死で聞き分けようとするも、必死になればなるほど、分からなくなってくる。
舟の進む音すら聞こえない静寂の世界は、時に聞こえない音を私に届けてくる様だ。
・・・・・・暫くもしないうち、私は後頭部からズキズキという異様な音を聞いた。
いや、音というより、鈍い痛みだ。
そういえば、あの紳士が、何か手荒なことをしたといっていたが。
痛みのもとへ手をやると、そこになかなか触れたことのないような大きな瘤が出来ているのを確認できた。
なるほど・・・これは医務室に行ってみた方がいいかもしれない。。