9からの続き
<11月20日更新>
講談師「──それから二日後。無事に戻ってきた本物の簪を手本に見事な贋作を作り上げた職人の下へ、橘屋の主人が尋ねてまいりました。」
橘屋当主『ほう。これは見事な。』
職人『お、そうかい?そいつぁ良かった。』
橘屋当主『これならば、誰が見てもこの本物と同じもの、いや、それ以上だと思うかもしれない。いやはや、助かりました。』
職人『旦那、お上手だねぇ。だが、まだまだこの簪にゃ及ばねぇよ。』
橘屋当主『確かに美しい簪です。流石江戸一番と謳われたあの方の作品だ。』
職人『ああ。特にその飾りを外れるようにするってぇ細工はお師匠さんにしかできねぇ。悔しいけどな。』
講談師「そう言って、煙管の灰をポンと落とす職人。」
橘屋当主『さて、では私は早速これを持っていかねばなりません。本当に有難う御座いました。』
講談師「橘屋の主はそう言って深々とお辞儀をし、長屋を後にしました。──そして、その半時ほど後。」
職人『さぁて、次の仕事に取り掛かる前に、と。』
講談師「主を見送り大きく一つ伸びをした職人は、相変わらず土間で丸くなっている白猫に目を向けます。」
職人『おめぇ、そうやってると本当に普通の猫なんだがなぁ。』
白猫「ふん。余計なお世話でィ。」
職人『やっぱりその姿じゃ何言ってやがんだか分りゃしねぇよ。他にゃ誰も居ねぇ。なぁ、シロ。ちょいとまた話でもしようじゃねぇか。いいだろう?』
白猫「ったく、しょうがねぇなぁ・・・・。」
講談師「と、面倒臭そうにつぶやいた白猫は、なんと職人の前でヒトの姿に化けたのであります。」
職人「お。そうこなくっちゃ!」
白猫「てやんでぃ。独り言を一方的に聞くのに飽きただけでィ。」
講談師「と強がるこの白猫。実は二日前の夜明けにこの長屋に戻って来て本物の簪を職人の男に渡したのですが、男が労いの言葉をかけるや否や思わずヒトの姿に変わり、男に飛びつき泣きじゃくったのであります。大層驚いた男ですが、何故か白猫を振りほどこうとはせず、気付けば優しく頭をなでておりました。」
講談師「その後、枯れるほど涙を流し、ようやく落ち着いた白猫は男にぽつりぽつりと一部始終を語り、二人の間には親子とも兄弟ともとれるような繋がりができたのであります。」
職人「ふふうん。」
講談師「意味ありげな笑みを浮かべる職人。それをみて真っ赤になる白猫。」
白猫「くそッ!なんでィなんでィ!」
職人「まぁま。そういう時もあらぁな。俺ァな、嬉しいんだよ。シロ。おめぇとこうやって話が出来るってぇのがよ。」
講談師「そう言って優しく微笑む職人から照れくさそうに顔を背ける白猫。」
白猫「・・・・なんでィ・・・。ったく・・・。」
職人「ま、今はそれは置いといて、だ。シロ。頼んでおいた事ァ調べがついたのか?」
白猫「・・・ああ。さっきの橘屋が脅されてるってぇのは本当みてぇだ。」
職人「ほう。やっぱりそうか。俺ァ主があの鍵の贋作を頼みに来た時にぴんときたんだ。」
白猫「うん。クロと俺とで代わりばんこに橘屋を見張ってたんだがよぅ。亜心屋ってぇいかにも人相のよくねェ野郎が何度も来て、嫌味を言って帰っていきやがったんだ。」
職人「ふむ。嫌味ねぇ。」
白猫「なんでも、お前ンとこの常吉のせがれは自分にとって孫みたいなもんだと思って可愛がってやったのに、うちの金に手を出すなんざ、父親のしつけがなってないんじゃないんですかねぇ。みてぇなことを言ってやがった。」
職人「ふうん。恐らく常吉ってぇのは番頭の一人ってとこだろうな。で、他にゃ何か言って無かったか?」
白猫「そう急かすなィ。で、そいつが帰るとき丁度クロが交代にきやがったからよ、橘屋を任せて俺ァ後を付けたんだ。」
職人「ほうほう。」
白猫「どうもその常吉って野郎は亜心屋に奉公してた女と結ばれて子供をもうけたらしい。そのガキがたまに母親に連れられて亜心屋へ顔を見せにいってるみてぇでよ。」
職人「そん時にガキが金を盗んじまったってぇのか?まだ幼ぇんだろう?」
白猫「そこんとこがよく分らねぇんだ。俺もその後ちらりとそのガキを見たんだが、とてもじゃない、そんな事ができる年頃じゃねぇ。」
職人「ううん。金とは思わず光って綺麗だから持って行っちまったってぇところかもしれねぇなぁ。」
白猫「それでよ、ここからが本題なんだ。」
職人「おう。」
白猫「亜心屋の主がやっぱり悪党なのは、そんな子供のした事ををいかにも悪い事だとこじつけて、噂の簪を手に入れようとしてるってとこなんだ。」
職人「噂の?」
白猫「俺も騙されたあの巷の噂だよ。」
職人「ああ、おめぇがそれを信じてここから最初に簪を持っていった一件かぁ。」
白猫「くぅ・・・また墓穴を掘っちまった・・・。」
職人「ははは。あの事ァとっくに水に流してあるぜ。さ、続けろィ。」
白猫「お、おう。・・・で、その噂のモノが、どうやら橘屋の家宝の簪じゃねぇかと目をつけたらくてな。でも、確かにその家宝にまつわる話と噂が似通っている所もあるんだよなぁ。」
職人「ってぇと?」
白猫「噂の中の悲恋に苦しんだあげく簪になっちまった姫ってぇのが、橘屋の末娘の境遇と重なるみてぇでよ。この娘は実の兄をとても慕ってたそうだ。」
職人「ほう。」
白猫「旅芸人になり家を出た兄を追って、毎日江戸を徘徊してたって話もあった。・・・大層なべっぴんさんだったらしいぜ。おっさんも見かけたことがあるんじゃねぇのか?」
職人「よせやい。そんなにべっぴんならこの俺が見逃すわけ・・・。」
白猫「どうした?おっさん。」
職人「・・・待てよ、そりゃいつ頃の話だ?」
白猫「ううん。確か・・・五、六年前って言ってたかなぁ。」
職人「・・・まさか・・・・いや。そうだ・・・あの小町、気もそぞろで・・・・何かを探し歩いているようでもあった・・・。」
白猫「小町ィ?風鈴小町かぁ?」
職人「馬鹿言うなィ。風鈴は歩いたりしねぇだろうが。俺の独り言を覚えてねぇか?」
白猫「・・・・・あ!いつも土間の窓を開けてるのはってやつか?」
職人「おうよ。よく思い出したな。俺が見かけてたのも丁度五年前くれぇだ。・・・・もしかすると、大野小町ァ橘屋の・・・。」
白猫「ふうん・・・。」
職人「ああ、すまねぇ。俺の話ァ後回しだ。それで?」
白猫「ああ。亜心屋にゃ惚れた女が居るらしくてよ。どうしてもその女を振り向かせてぇってんで、その噂の簪が欲しくなった。」
職人「それで、でっち上げに近い難癖をつけて奪おうとしてやがんのか。」
白猫「そうみてぇだ。」
職人「でも、橘屋も何でそんな子供だましに乗っちまったんだろうなぁ。確かに誠実で人の良さそうな旦那じゃあるが。」
講談師「と、職人が思案し始めたところで、長屋の戸をカリカリと引っかく音と共ににゃぁごと猫の鳴き声が。」
白猫「お、クロかもしれねぇ。」
職人「おお。」
講談師「すぐに猫の姿に戻り土間の窓から飛び出る白猫。それを見送りふと職人は呟きました。」
職人『何度みても不思議な感じだが・・・。なんでだろうなぁ・・・。あいつァ世に言う化け猫なのかもしれねぇが、俺ァちっとも怖いなんざ思わねぇ。むしろ身内ができたみてぇで本当に嬉しいんだ。』
講談師「──長屋の前。」
黒猫「あ!兄貴!」
白猫「おう、クロ。何かつかんだのか?」
黒猫「うん!たった今さ、橘屋のさ、アルジってやつが戻ってきてさ、その前にチョウナンってやつが戻ってきててさ。二人で話してたんだ。」
白猫「ほう、長男が?で、なんて話してたんだ?」
黒猫「んっと、おいらが聞こえたぶんだけだけど、そのまま言うよ。『・・・シノは元気だ。そろそろここに付く頃だろう。それはそうと、うちの座長が亜心屋にでかい借金を作っちまってるってぇのは本当なのか。』で、アルジが、『兄さん。その件は全て私に任せておいてはもらえませんか?手筈は整い、もうすぐ終わります。』って。」
白猫「ふうむ。」
講談師「黒猫の話を聞き、どうも自分と職人のつけた見当とは違う事で主が動いていたように思えてきた白猫。」
黒猫「兄貴ィ?おいら、役に立ったかぁ?」
白猫「おうよ。クロ。でかしたぜ。ところで、おめぇ、まだ眠くはねぇか?」
黒猫「うん!もうちっとなら起きていられらァ。」
白猫「そいつァ頼もしいぜ。すまねぇがよ、クロ。もうちっとだけ橘屋を見張っててくれねぇか?すぐ交代しに行くからよ。」
黒猫「合点でィ、兄貴!じゃ!」
講談師「元気よく言い、黒猫は一目散に橘屋へと走っていきました。」
白猫「さて、と。」
講談師「今聞いた事を早速職人の耳に入れようと土間の窓へ飛び入ろうとしたその時、」
職人『あっ!』
講談師「と、言うや否や、職人が慌てた風に表に飛び出てきました。」
白猫「どどどど、どうしたんだ!おっさん!」
講談師「尋常ではない雰囲気を察した白猫は扉の前で唖然とする職人に驚いて声をかけました。」
職人『アンタは・・・。』
女『あのう・・・どうかなさいましたか?』
講談師「職人の目の前には、小奇麗な着物を着た上品な女が驚いたように職人を見つめ立って居りました。」
白猫「なんだなんだぁ?おい、おっさん、なんなんだよ!・・・・あ、この姿じゃ聞こえねぇか・・・。くそ。」
職人『・・・・あ・・・ああ、すまねぇ。あの、アンタ、もしかして・・・五年前にもここを通った事ァ・・・・いや、そんな事ァどうでもいい・・・。そうだ!ちょ、ちょっと待っててくれよ!』
女『はぁ・・・。』
講談師「慌てる職人と怪訝そうに答える女を見て、白猫も気付いた様子。」
白猫「なるほど!この女・・・さっき言ってた・・・・。おっさん・・・一大事じゃねぇか・・・こりゃぁ・・・。」
講談師「がさりごそりと辺りのものを掻き分け、職人は急いで布に包んだ物を持って表へ駆け出て、女の前にそれを差し出しました。」
女『・・・何ですの?これは・・・』
職人『あ!す、すまねぇ。えっと、五年前にアンタを見かけてからよ。次にここの前を通った時にゃ必ずこれを渡そうと心に決めてたんだ。突然のことで驚いてるのも無理はねぇが・・・。黙って受け取って貰いてぇんだ。これを。』
白猫(よし!その意気だぜおっさん!なかなかやるじゃねぇかよ!)
講談師「と、心の中で応援する白猫。」
女『・・・・でも、本当に私でしたの?・・・確かに五年前くらいに時折この辺りを徘徊してはおりましたが・・・。』
職人『何言ってやがる。この俺が惚れた女を見間違えるわけがねぇさ!・・・・・あ。』
白猫(言った。言いやがった。)
大野小町『・・・・そんな・・・・私は・・・その・・・。』
職人『・・・はは。すまねぇ。突然言われても困るだけだよな。まぁ、なんだ、その、アンタに似合うようには仕上げてあるんだぜ。』
講談師「気まずそうに言い、布を広げて簪を見せる男。」
大野小町『・・・・まぁ!素敵な簪・・・。本当に・・・可愛い・・・。』
講談師「と、目を細めて簪に見入る女。」
職人『本当かィ?ああ、良かった・・・。どうだろう。これを作ったのァ俺の一方的なことだったんだがよ・・・。ここで会ったのもなんかの縁だと思って貰っちゃくれねぇか?』
大野小町『でも・・・・ほ・・・本当にいいんですの?こんなに綺麗な、可憐な・・・。見たこともないわ・・・。こんな簪・・・。』
職人『ああ、勿論。さ、さ。』
講談師「と、女の手を取り、その手の平に簪を乗せる職人。」
大野小町『嬉しい・・・。でも、やっぱり・・・。』
職人『・・・ははん、あれだな。他に惚れてる奴がいるってんだろ?いいさ、それでも構やしねぇよ。これァアンタに作ったモンなんだ。そのアンタが誰を好きになろうと、アンタはアンタだからな。それによ、貰い主が居ないんじゃ、これァもう捨てちまうしかねぇんだ。』
大野小町『そんな!捨てるなんて勿体無い!こんなにいい簪なのに・・・。』
職人『じゃ、貰ってくれるかい?』
大野小町『・・・ええ・・・。有難う御座います・・・。本当に・・・。』
職人『おっと礼はその辺にしといてくれよ。てめぇが勝手に思い込んで作ったモンなんだ。何だかこっぱずかしいやな。』
大野小町『はい・・・。あ、そうだ・・・。』
講談師「そう言って、女は今つけている簪を外し、職人に貰った簪を綺麗に結い上げられた髪にそっとさしてみました。」
職人『お!やっぱり似合うじゃねぇか!いやぁ、俺ァその姿が拝めただけで満足だ。うん、よく似合ってるぜ。』
大野小町『本当?嬉しい・・・。早く鏡で見てみなくっちゃ・・・。』
職人『おうおう。是非ともそうしてくれよ。あ、すまなかったなぁ・・・足止めしちまってよ。急いでたんだろう?』
大野小町『足止めなんてとんでもない。私には嬉しばかりで・・・。あ、でもそろそろ行かなくては・・・。すみません・・・。』
職人『謝るこたぁねぇよ。さ、早く行ってくんな。』
大野小町『はい・・・。本当に本当に有難う御座います。・・・・では・・・。』
講談師「何度も何度もお辞儀をし、女は去って行きました。」
白猫(ふぅ・・・全く。ひやひやさせるじゃねぇか・・・。)
講談師「女を見届け先に長屋へと入った白猫は、近所に人が居なくなった事を気配で確認してまたぼわんとヒトに化けました。」
職人「・・・はぁぁ・・・・・。」
講談師「と、長い溜息とともに長屋へ入る男。」
白猫「へへん。」
職人「なんでぃ。ずっと見てやがったんだろう?」
白猫「ああ。やるじゃねぇか、おっさん。」
職人「ふん・・・。ま、兎にも角にもあれを渡せたんだ。俺ァこれで十分だぜ。」
白猫(何だかなぁ・・・)
講談師「自分の境遇と重なる気がした白猫は、その次に出てきそうになった言葉をぐっと飲み込み、先程聞いた黒猫からの話を持ち出しました。」
白猫「そうだ、おっさん。さっきクロのやつから聞いたんだけどよ。」
職人「おう、そうだったな。で、なんだって?」
講談師「かくかくしかじか、と聞いた事を伝える白猫。」
職人「・・・・ふうむ。やっぱりあの小町ァ橘屋の・・・。っと、それよりも、主ァ『手筈が整っている』って言ってたんだよな?」
白猫「ああ。確かにそう言ったぜ。」
職人「これでおおよその見当はついたぜ。橘屋は兄貴の一座を救う為に一肌脱ぐつもりだったんだろう。で、亜心屋は家宝と引き換えに帳消しにしてやるとでも言ったんだろうなぁ。」
白猫「なるほど・・・。」
職人「背に腹は代えられぬと承知した主は、何故亜心屋が簪を手に入れたがっているかをつきとめた。それならば、何も家宝を渡さずとも本物そっくりの『簪』を渡せば済むと踏んだ。橘屋がそうこうしているうちに早く簪を手に入れたくて待ちきれねぇ亜心屋は、遠まわしに難癖をつけて催促してやがった。とまぁ、こんな筋書きじゃねぇかと思うんだ。」
白猫「ふうむ。それなら全部納得がいくぜ。・・・すげぇなおっさん。」
職人「褒めるんじゃねぇやい。・・・昔っからの悪い癖ってやつでよ。自分の作ったモンが何に使われるかってぇのが分らねぇと、どうも収まりがつかなくてな。」
白猫「へぇぇ。・・・ま、そんだけ力を込めて作ってるってぇ事なんじゃねぇのか?」
職人「はは。うまいこと言いやがる。後は亜心屋がまんまと偽物で満足してくれる事を願うばかりだなぁ。」
白猫「おう。そいつァ俺がちゃぁんと見届けるぜ。・・・っと、そうだ!クロが待ってやがんだ。早速行って来らァ!」
職人「すまねぇな、シロ。気ィつけてな。今夜はおめぇにもちびクロにも、旨ぇ魚を用意しとくからよ。」
白猫「ありがてぇ!クロもきっと喜ぶに違ぇねえや!じゃ!」
講談師「と、勢いよく言いつつ猫の姿に戻り、白猫はまた土間の窓からひょいと外へと飛び出て行きました。」
講談師「──その後。白猫と黒猫が見届けた事の始終はこうでした。
橘屋の主からも申し出に始めはしぶっていた長兄でしたが、贋作を見せるとその出来栄えに大層感心した上、遅れてやってきた妹にもまた別の簪を見せられ、両方を作ったその人柄も聞き、本物と同等の品物であると判断し、亜心屋にそれを渡す事に承知したのでありました。」
講談師「その日の夕刻、渡された亜心屋も暫く見とれるほどこの簪にご満悦の様子で、すぐに座長の借金を帳消しにしたのでありました。それからいそいそとお目当ての女の下へと向かったそうですが、相手はあの紫陽花太夫の居る家の女主人。昔と違い今は亭主もいる身。角の立たぬようにやんわりとお断りしたそうです。」
講談師「──数日後。全てが丸く収まった橘屋、母屋の玄関先。」
橘屋当主「もう一度考え直してみてくれませんか、兄さん。」
長兄「すまねぇ。お前に全て世話ンなった上でまた我がままを言って心苦しいんだが、やはり俺が生きるのは商売じゃねぇ。芸の道しかねぇんだ。」
橘屋当主「・・・ええ。分っていてもどうしても言いたかったんです。それと、もう一つ・・・」
講談師「と、懐から家宝の簪を取り出し」
橘屋当主「これを兄さんに持って行って欲しいんです。」
長兄「冗談言うんじゃねぇや。跡を取ったのはお前だぞ。俺にゃそれを持つ資格なんざねぇ。」
橘屋当主「父さんの・・・為でもあるんです。」
長兄「親父の?どういうこった。」
橘屋当主「ここに彫られている三つの花。その中でも一番父さんが丁寧に作ってくれと当時江戸一番の職人に言ったのは・・・花菖蒲なんです。」
長兄「ふむ。」
橘屋当主「この三つの花はそれぞれ我等三人の兄妹を示していてね。橘は跡取りの私。紫陽花は言うまでも無く紫乃。そして花菖蒲が兄さん。しょうぶは『勝負』に繋がる。」
長兄「・・・・。」
橘屋当主「父さんは、影ながら応援していたんです。女形として誰にも負けぬ役者になるようにと。勝負にも繋がる菖蒲は『しょうぶ』とも『あやめ』とも読めるでしょう?それで女形を表している。ですから、花菖蒲は二つの意味を兼ね備えた花なんです。」
長兄「親父・・・。柄にも無ェ事しやがったんだなぁ。」
橘屋当主「死の間際まで、兄さんのことを案じていたんですよ。あの商売人の鑑のような人が・・・店の行く末よりもね。・・・だから、それに気付いた私は兄さんに父さんの心を渡したかった。」
長兄「分った。そりゃまた暗に俺に何時でも戻って来いとも言ってンだな?」
橘屋当主「敵わないなぁ。」
長兄「お前の気持ちと親父の気持ち。有難く受け取っておくさ。気持ちだけな。この道ァよ、生半可じゃ通用しねェんだ。」
橘屋当主「ふふ・・・。そう言うとも思っていました。さぁ、私にはもう引き止める手立ては無くなってしまった。・・・兄さん。くれぐれも身体には気をつけて。」
長兄「ああ。紫乃の事、宜しく頼んだぜ。お前も・・・元気で・・・。じゃあな。」
講談師「背を向け一つ大きく手を振って、長兄は橘屋を出て行きました。──さて、その兄を慕って付いて回っていた妹の紫乃はというと、時が経つ毎に、そしてあの簪を見る毎に職人の事が頭から離れなくなり、江戸に残ることを決めた様子。」
紫乃「ちい兄さん、ちい兄さん。ねぇ、おかしくないかしら?この着物でいいと思う?」
講談師「次男である橘屋の主をちい兄さんと呼び、職人の長屋へ行く為にあれやこれやと思案中。」
橘屋当主「紫乃。先ずいい加減ちい兄さんはやめないか?幼い頃の呼び名をいまだに口に出しているようじゃ、子供っぽいと嫌われるかもしれんぞ?」
紫乃「もう、意地悪。でも・・・気をつけます。じゃ、兄さんだけでよいかしら?それとも兄上?」
橘屋当主「あはは。後者はなんだかくすぐったいなぁ。と、そうそう、その着物はよく似合ってると思うよ。」
紫乃「本当?・・・・じゃあ、これで行ってくるわね。兄さん。」
橘屋当主「ああ。気をつけて行っておいで。それと、あの方にお前からもようくお礼を言っておいておくれ。」
紫乃「はい。行ってまいります。」
講談師「───時は経ち・・・。
講談師「あの庭で咲き誇っていた紫陽花太夫は、数ヵ月後、愛する蝸牛とともに命の終わりを迎え、土に還っていきました。
──そして、数年後の卯の月のある日。女主人の庭。」
花菖蒲「今年は花芽がつきそうですよ。」
三毛猫「やれやれ、やっとかい。」
白猫「姉御が婆さんになっちまう前に気遣ってくれたんじゃねぇのか?」
三毛猫「はぁて、誰の事を言ってるんだろうねぇ?」
白猫「おっかねぇおっかねぇ。」
講談師「ぺろりと舌をだす男盛りな年頃になり逞しくなった白猫、微笑む花菖蒲。そして、少し毛に白いものが混じってはいるものの相変わらずの三毛猫。この一同に囲まれているものは・・・太夫が病だと分ったあの時、一足遅れで何も出来ずに一部始終を聞き心を痛めたあの浪人鴉が、太夫の居なくなった後、こっそりと橘屋の親株から枝を取り、この屋敷の縁側へ置いたものを同じく心を痛めていた女主人が望みをかけて挿し木し、大事に大事に小さくな株になるまで育てたものでした。」
鴉「おや、皆さんお揃いで。」
花菖蒲「旦那、見てください。」
鴉「ほう。元気だねぇ。咲くかい?今年はよ。」
花菖蒲「ええ、きっと。」
白猫「鴉の。おめぇ子供ほったらかしてこんなとこ来ちまってていいのかィ?まぁたかみさんにつつかれるんじゃねぇのか?」
講談師「からかい半分に言ってはいるが、内心、太夫と蝸牛以外のかつての面々が揃った事に嬉しそうな白猫。」
鴉「けっ。つつくだけならいいぜ。ここんとこ毎日どこかしらで爪を磨いでやがる。」
三毛猫「はいはい、ご馳走様。喧嘩するほど仲がいいってね。」
鴉「くぅ。やっぱり姉御にゃかなわねぇ。それよりよぅ、楽しみだなァおい。」
白猫「おうよ。」
三毛猫「そう急かすもんじゃないよ。気後れして花芽をつけるのを躊躇っちまうかもしれないじゃないか。」
鴉「姉御が優しく微笑んでみるってぇのはどうだい?」
白猫「俺ァその続きは言わねぇぜ?」
花菖蒲「ふふふ・・・。」
三毛猫「おや・・・・?こいつァ・・・」
講談師「と言った三毛猫の視線の先で、小さな小さな蝸牛の赤ん坊が一生懸命子株の出てきたばかりの柔らかく小さな葉に登ろうとしておりました。」
白猫「姉御・・・ひょっとして・・・。」
鴉「ごくり・・・」
三毛猫「こら、ごうつく鴉。子供の餌になんて考えるんじゃないよ。全く。」
鴉「あ、すまねぇ・・・つい・・・。」
花菖蒲「この子。あの旦那の子孫かもしれませんね。」
講談師「皆がひょっとすると、と、思っていたことを真っ先に口に出す花菖蒲。」
三毛猫「て事だそうだよ。鴉の旦那。それでも餌にしようって気が起こるかい?」
鴉「よせやい、姉御。いくらなんでもそこまで無粋じゃねぇと自負してんだがなぁ。」
講談師「と、苦笑する浪人鴉。」
白猫「ようし、こいつらを守るのはこれで二匹、一輪、一羽ンなったわけだ。安心して育ってくれよ。」
三毛猫「ふふ。言うようになったねぇ。」
花菖蒲「本当に・・・楽しみですね。」
三毛猫、白猫、鴉「ああ。」
講談師「示し合わせるつもりもなく同時に答えた各々は、心の中に暖かいものを感じつつ、また花が咲く頃にこの庭でお祝いでもしようと誰からとも無くもちかけたのでありました。」
講談師「──さてさて、橘屋の末娘、紫乃を追って旅に出た風鈴と忍者蝙蝠。自分達とすれ違いで紫乃が江戸に戻ったと行った先で聞き、一月かけてまた橘屋へと戻っておりました。
講談師「風鈴は庭の片隅に落ちているふりをして紫乃に見つけてもらい、元の場所に戻りました。──再び紫乃に会えて毎日楽しそうな風鈴小町。一方忍者蝙蝠は、あの後、騒動になっていないことから、自分の読み通り羽衣の事は今の当主にも知らされていないと悟り、今も夜の闇が一層深くなった頃、時折風鈴に羽衣を渡し、江戸の空を一緒に飛んでおります。」
白猫「あ、また聞こえてきたぜ。やっぱりありゃあ小町じゃねぇのかなぁ。」
三毛猫「ふうん。あたしにゃ何だか唄のように聞こえるんだけどねぇ。」
講談師「ねぐらにしていた職人の長屋には、あの後、男と祝言をあげた紫乃が一緒に暮らし始めた為、邪魔しちゃ悪いと三毛猫のところへ転がり込んできた白猫。何も言わず、同じ納屋に招き入れた三毛猫。」
白猫「姉御、耄碌するにゃまだはええんじゃねぇのか?」
三毛猫「何とでもお言いな。ああ、でもいい唄だねぇ。」
白猫「俺も、もうちっと年をとりゃ聞こえるのかなァ・・・。」
講談師「この後江戸の空に、幾度と無く響くこの歌声は、いつしかそれを聞いた者から者へと歌い継がれていきました。」
『吾に映るは鮮やかな 蒼天常磐の飛鳥山
頬を撫でゆく薫る風 風神様の御使いね
紫陽花、菖蒲、橘の 香り散らして運び来る
夢かうつつか 風の文 銀の簪 鳥の声
黄金(こがね)の雲に届くよに 歌え歌えよ花の唄
ゆうらりちりり ゆらちりり
涼と名の付く音鳴らし
ゆうらりちりり ゆらちりり
風を紡ぎて歌に織る』 (by 原案:Mash_334 編集:Ryuzou_Ishino/kohshun
──おしまい。