この頃。

ご自分の命の灯火と向き合ってる

私の憧れの方に勝手に寄り添ってみました。

平成から『令和』になったその日

私と彼女は再会しました。

何年振りかは分からないけど

すでに病におかされていました。

もう一度

会う約束をして別れたものの

その時には彼女は病院から

出ることを不可能としてました。

 
それでも

同じ思いのある場所で会いたいと

何度も願いました。


彼女は

『想いのある場所…』ではなく

病院の病室のいつものベッドの上を選びました。


彼女に

『私は何処に行きたいとか

何をしたいとか

あれが欲しいなど

願ってもないし頼んでもない

私はただ

穏やかでいたいのです』と言われました

人が死と向き合ったとき

何を考えるか等

本気に向き合ってないものには

想像つかないものなんだと実感しました。



あれをしたら喜ぶかな?

これを届けたら喜ぶかな?

あれを見せたら希望になるかな?

なんて

彼女の意見を聞かずに

何か彼女のために

ならないかと探して

勝手に!!苦しんでました。



私は…私以外の人もいるかも?

誰かのため

何かのため

地球のため宇宙のため

何か役に立つことがあれば

使ってほしいと願い、

時に

出来てない自分に勝手に苦しんで

いる人もいると思います。

自分の使命を見つけ…なんて言葉に

敏感に反応するときもあり

欲するばかりで

小さな小さな自分を

見付けられず

濁った沼でもがいてきてました。

彼女の言葉はとても重く…

いや違うな。

彼女のその言葉のお陰で

自分の『我』や『煩悩』が

その沼を濁らせていたと気付き

その言葉が私には天からの声のごとく

とても軽くなりました。

人のためにしてあげたいことが

本当にその人が望んでることなのか。

それを偽善者とよぶのかな?

私は自分の自己満足のために

誰かの悩みに寄り添い

分かったふりして

痛みを分かち合うふりしてたんだな。


自分の浅はかさを知りました。

おかげで


とても生きるのが楽です。

願わなくても神様や宇宙は

必要に応じて私を使います。

私が判断しなくても

結果

人の笑顔や安らぎに繋がることが分かりました。

濁った沼から

やっとの思いではい上がった私が

何かをするなんておこがましく、

私が穏やかで清らかな泉にいたら

誰かが水を飲みにくる…

それをただ笑顔で差し出すだけ。




自由な時間を頂け

貴重な体験や

行ったこともない場所に

同行させてもらったり

人生のなかで

まとめて色々なことをさせてもらってます。

仕事もしなくて

収入もない

ただのニートかもしれないけど

根拠なく

充実して前に進んでる感満載のコハルです。

自分を認められたら

きっと

自分の使命ってものに

向き合わせてもらえるだろう。

分かったふりして

いろいろ言ってた自分が恥ずかしい(///∇///)❤️


恵子さん

ありがとうございました。

コハルの泉を笑顔の泉にしたいなっ❤️