SEIKO JAZZ 3 / Seiko Matsuda

 

 聖子、ジャズを歌う ── そんな衝撃的なニュースが飛び込んできたのが2017年3月。ほどなくして発売されたアルバム『SEIKO JAZZ』は各所から好評を得て、その年の日本レコード大賞企画賞も受賞するなど、シンガーとして新たな境地に至ったことを世に知らしめた。ただ、「一回の企画盤に終わらせるつもりはない」という松田の言は聞こえてきたものの、その本気度がいかばかりか測りかねていたのも事実。そんな心配をよそに順調に『SEIKO JAZZ 2』も発売され、キャリアをかけた本格的な取り組みであることが明らかになっていった。本作はその『SEIKO JAZZ 2』から5年ぶりにあたる第3弾のジャズアルバムであり、悲劇的な出来事を経験した松田聖子が久々にスタジオに赴いて録音を敢行した復帰作でもある。

 

 SEIKO JAZZシリーズは海外のアレンジャーやプレイヤーとのコラボレーションが通例となっているが、『SEIKO JAZZ 3』のプロデューサーに選ばれたのは“世界最高峰のベーシスト”との異名をもつネイザン・イースト。松田との縁は2012年にLAで開催されたクインシー・ジョーンズのコンサートにともに参加したことではじまり、同年に松田がFourplayの楽曲「Put Our Hearts Together」に招かれた際にも共演している。

 

 イーストはプロデューサーとしての経験こそ豊富とはいえないかもしれないが、数々のスターとの共演によって磨かれた音への審美眼には確かなものがあり、今作でもそれは十分に発揮された。アルバムを一聴して惹きつけられ、同時にこれまでのSEIKO JAZZシリーズと大きく違うと感じ取れるのは、前面に出たベースだろう。もちろんネイザン・イーストがプロデュースしていることと無関係ではなく、アップライト、フレテッド、フレットレスとさまざまに持ち分けながら奏でられたベースの低音は各楽曲のキャラクターを特徴づけつつ、アルバムに豊かな彩りを与えている。

 

 さらに、これまではふんだんに使われていたストリングスがほぼいなくなり、バッキングが鍵盤類・ベース・ドラムス・たまにギター程度のミニマムなアレンジになったことも大きな変化だ。イーストによると松田の声にあわせて考えた構成だったとのことだが、メロディやリフを奏でる楽器が削り込まれることにより、松田のボーカルにフォーカスがより当たる形になった。

 

 付け加えれば、音の良さもこのアルバムの特筆すべき美点だ。とくに全11曲中7曲で録音とミックスを担当したムーギー・カナジオが素晴らしい仕事をしており、ことに官能的な音空間を提供している。それでは各楽曲を見ていこう。

 

 

M1. I'm Not In Love

オリジナルは英ポップバンドの10ccによる1975年の楽曲で、松田もラジオ企画で選曲したビリー・ジョエル「Just The Way You Are」のサウンドメイクに影響を与えたことでも知られている。作曲されたときはボサノバ調の曲だったとも聞くが、今作でも硬質なリムショットにジャズボッサの香りを残しているように思える。煌めいたウィンドチャイムの響きにアップライトベースが切り込んでくるイントロに続き、熱すぎも冷たすぎもしない人肌程度の親密な温度感でボーカルが操られていく ── これからはじまるアルバムの世界観を的確に予告するオープニングにふさわしいナンバーだ。

 

M2. 赤いスイートピー English Jazz Version

82年に発表された松田聖子の代表曲がジャズバージョンで登場。松田はアルバム『Seiko Matsuda 2020』の「赤いスイートピー English Version」ですでに同曲の英語歌唱を披露しており、直接的にはこのバージョンのジャズ版と位置づけられる。同バージョンからキーを下げつつ、エモーショナルな発露をひかえめにした自然体の歌唱は、彼女にとってジャズがどのような存在なのかを物語っているようだ。サックスには世界で最も有名なサックスプレイヤーであろうケニー・Gが参加。デュエットするように歌に寄り添いながら、美しい音色で松田をやさしく勇気づけているようにも聞こえてくる。

 

M3. Rock With You

マイケル・ジャクソンを破格のスーパースターに押し上げた出世作。1979年にクインシー・ジョーンズのプロデュースにより世に出され、現代のアーティストにもインスピレーションを与え続けている、輝かしいMJの歴史の中でも神格化されたナンバーだ。松田はデビュー当初から同作が収録されたアルバム『Off The Wall』をフェバリットに挙げており、2002年のカウントダウンコンサートではアルバムのオープニングナンバーである「Don't Stop 'Til You Get Enough」も披露した。今作ではテンポをすこしおさえ、ソフトな肌触りを保ちつつも、端々にMJへの愛を隠さない歌いっぷりで楽しませてくれている。アレンジとピアノにはオリジナル版にも参加していたグレッグ・フィリンゲインズが参加しており、正統性は折り紙付き。

 

M4. Tears In Heaven

1992年に発売されたエリック・クラプトンの楽曲。当時のクラプトンに起こった悲劇は、冒頭で触れた松田の悲劇にも通じるものがあり、あえて悲劇と向き合って歌うことで救済を求める姿に共感を覚えたのかもしれない。オリジナルはアコースティックギターが印象的なナンバーだったが、今作ではアレンジの主役は鍵盤とフレットレスベースが担っている。事前のアナウンスによりこのカバーが収録されると知った際、歌が感情に飲み込まれてしまうのではないかと危惧したが、結果はお聞きの通り自己憐憫に浸ることを自らに禁じたような、感情の抑制が効いた仕上がりだ。オリジナルよりもわずかにテンポを上げたことも重たく聴こえない要因だろう。中盤以降でセンターに定位されたフェンダー・ローズはグレッグ・フィリンゲインズによるものだが、メロウな響きで華を添えている。

 

M5. The Sweetest Taboo

1985年にリリースされたシャーデーの2ndアルバム『Promise』からのナンバーで、オリジナルバージョンへの敬愛が伝わってくるストレートなバージョン。近年の松田のボーカルに備わってきたハスキーな魅力はシャーデーに通じるものがあり、二人の親和性の高さを感じさせてくれる。『SEIKO JAZZ 3』で獲得した新たな魅力として、随所にスキャットを織り交ぜ始めた点があげられるが、ここでもそれが存分に味わえる。

 

M6. How Deep Is Your Love

ビー・ジーズによる1977年の楽曲。「一旦は全10曲としてアルバム制作を終えて完成を迎えようとした松田聖子が、急遽この曲の追加制作を決断。」とアナウンスされているが、実は松田がこの曲をカバーするのは2度目だ。1度目は2006年に発売されたカバーアルバム『Eternal II』。このときはオリジナルとほぼ同じテンポでカバーしていたが、今回はテンポをぐっと落とし、よりおだやかな仕上がりになった。2度目のカバーだけあって、オリジナルフレーズのコーラスをつけるなど、1度目のカバーに親しんでいた向きにも新鮮に楽しめるバージョンとなっている。『SEIKO JAZZ 3』には、これまでと違ってUK産の楽曲が多いという特徴もあるが、それゆえか内省的な響きをもつ曲が少なくない。本曲のカバー追加(しかも2回収録)は、アルバムにポジティブな基調を与えたいという松田の願いが現れたものかもしれない。

 

M7. Killing Me Softly With His Song

オリジナルは1972年に発表されたロリ・リーバーマンのバージョンだが、有名なのは翌1973年にリリースされたロバータ・フラックのバージョンだろう。筆者の世代には、ヒップホップユニットのフージーズによる96年のカバーが鮮烈な印象を残している。今作には珍しく、比較的ジャズバラード化が予想しやすい楽曲であり、ここでもオーソドックスなジャズアレンジで松田のボーカルを聴かせてくれている。松田が若い頃にTV番組に出演した際に日本語で歌ったバージョンも耳にしたことがあるが、比して今作での歌唱の完成度の高さは、松田のボーカリストとしての成熟を感得させる。

 

M8. Chasing Cars

スコットランドのロックバンド、スノウ・パトロールの楽曲で、今作では最も新しい2006年のリリース。メロディの展開がシンプルで、オリジナルは一聴しただけでは単調な印象も残しかねない楽曲だったが、今作のバージョンは“ケルト的”ともいえるスケール感をもち、松田のボーカルがよりわかりやすく悠大にメロディの美しさを伝えている。ジャズか否かという観点では本アルバム最大の問題作と言えるかもしれないものの、もしFourplayがボーカリストを迎えてこの曲をカバーしたらこんな仕上がりだろうな、と感じられなくもないという回答でご容赦いただきたいところ。

 

M9. Saving All My Love For You

オリジナルはマリリン・マックー&ビリー・デイヴィス・Jrによる1978年のバージョンだが、有名なのはもちろんホイットニー・ヒューストンによる1985年の歌唱だろう。もともと軽くスウィングした楽曲でジャズとの親和性が高く、M7と並んでスムーズにポップスのジャズバラード化を成功させている。SEIKO JAZZシリーズではファルセットを封印しがちだった松田だが、今作ではファルセットもまじえ、すべての武器を駆使してホイットニーに挑んでいる印象だ。個人的にはその戦果は十分にあがったものと受け止めている。

 

M10. Paradise

M5と同様にシャーデーのナンバーで、1988年の3rdアルバム『Stronger Than Pride』に収録された楽曲。今作ではイースト同様にエリック・クラプトンのバックバンドにも参加しているスティーヴ・フェローン(元Average White Band)のドラムとジャック・リーのギター、そしてイーストのベースが楽曲の基盤をなしており、クールな雰囲気をもつ仕上がりだ。とくに中盤で出てくるフェローンのドラムブレイクが素晴らしいサウンドを鳴らしており、アルバム全体のハイライトのひとつともいえるだろう。終盤には『Stornger Than Pride』で「Paradise」の次に収められた「Nothing Can Come Between Us」のフレーズも織り込まれているが、シャーデー自身が2010年のライブでこの2曲をメドレーで演奏していたので、その影響があったのかもしれない。松田とシャーデーとの相性の良さは本曲でも存分に発揮されている。

 

M11. Love... Thy Will Be Done

マルティカによって1991年にリリースされたプリンスの提供曲。プリンスの没後にプリンス自身の歌唱によるバージョンも公開されている。松田が1992年に発表したアルバム『1992 Nouvelle Vague』に収録されたとある楽曲にインスピレーションを与えたのではないかと一部のファンには名の知られた曲でもあり、今回はそれを裏付けるカバーともいえそうだ。松田のバージョンは濃い霧の中で先が見えなくても愛を信じて勇敢に進んでいく、といったイメージを抱かせる凛とした歌唱で、松田のもつ生来の強さとポジティブさ(もしくはそうありたいという想い)が前面に現れている。

 

M12. How Deep Is Your Love (Duet Version)

M6にネイザン・イーストがボーカルをオーバーダビングすることで彩りを添えたバージョンで、ボーナストラック、またはアンコールのような扱いだろう。古くはデヴィッド・フォスターやロビー・ネヴィル、直近の『SEIKO JAZZ 2』でもマーヴィン・ウォーレンとデュエットしており、松田は海外のプロデューサーとデュエットするのが趣味かもしれない。とはいえ、このバージョンを最後に据えることで、アルバムの聴後感がやわらかく軽やかなものになった。

 

 

 「年代に関係なくいい曲を選びたかった」「テンポについてよく話し合った」というのが、特典ディスクに収められたインタビューでの松田聖子の弁だが、基本的にテンポはそれほど大きく操作されておらず、オリジナルと同じか、すこしゆったりと仕上げたものが多い(M4とM8だけわずかに速くしている)。個人的にはカバーを聴く楽しみのひとつに、オリジナルとテンポをガラリと変えることで、隠れていたその曲の新たな魅力が立ち現れるという点があるが、松田にとっては「この曲の新たな解釈を提示したい」という野心よりも、「大好きな曲をもっとも大好きな形で歌いたい」という歌心のほうがモチベーションを占めているのだろう。

 

 ふつうに歌えばそれだけで自分の曲になってしまう、という天分を持ち合わせたシンガーでない限り許されないアプローチともいえるが、その天分を備えているのが松田聖子であり、彼女の歌手としての本質が体感できる名盤だ。