桜花特攻隊員の日記より
(昭和二十年)五月四日(金)晴れ
今日父母よりの手紙が届いた、家族一同は皆元気に暮らしているとの事何より嬉しかった。
澄みきった星空を眺めながら自分はもう一度今日の手紙の一句を思い直した「お前も立派な軍人として家の事などは心に掛ける事なく国家の為に一生懸命で働け」と老いたる父母が兄と自分との二人を国に捧げて一人野良で食糧戦線でいながら尚も家の事忘れて国の為に一心に働けと励まして下さる父母の御心に泣かずにはいられない、ガンガン励まして下さると只平々と暮らしている現在の自分が恥ずかしい心が痛い、御両親様もう少し待っていてい下さい必ずやります御両親様の仰せの通り御期待を裏切らざる様と遥かに故郷の空に輝せとあの空に誓った。
五月十二日(土)晴れ
今日も出撃して征く戦友特攻機を熱い涙で見送る自分は曽て先月二十日の出撃に飛行長の杯を拝したのにあの如して皆帽子を振って送って貰ったのに不覚や再び富高基地に帰るの皮肉な運命に誘われたのだ、しかしこれについて自分は持たない総てが天命だ用不はその天命には従順に服す、初夏の午後山野の徘徊悪くない海岸を山をそして野原を自由自在に自分勝手に気ままに行動これは我々にとっての一番楽しい愉快さでなくて何であろう、のんびりとして自分はこの一時をもって十年も二十年も長生きした様な思いである。
次回に続く
※原文から手入力で起こしている為、誤字脱字等がありましたらお詫び致します。

日記の書かれた昭和20年5月上旬頃の出来事
5月5日 広島県呉市の広工廠に空襲。(呉市内で2回目)
大分県大分市に空襲。(大分市内で3回目)
5月10日 山口県徳山市(現・周南市)の第三海軍燃料廠へ空襲。死者500人以上、負傷者約1000人。(徳山市内で1回目)
愛媛県宇和島市に空襲。(宇和島市内で1回目)死者115人。重傷者26人。軽傷者55人。
5月11日 兵庫県西宮市に空襲。(西宮市内で1回目)
兵庫県芦屋市に空襲。(芦屋市内で1回目)死者39人。重軽傷者16人。全半壊175棟。
兵庫県神戸市に空襲。(神戸市内で2回目)
5月14日 愛知県名古屋市に空襲。(名古屋市内で3回目)B29 480機が飛来。名古屋城の天守や金の鯱が焼失する。
山口県宇部市に空襲。(宇部市内で2回目)港町工場地帯および福進町に機銃攻撃されて、罹災者は6人。
今回は、この時期の空襲で最大の被害のあった徳山空襲について触れてみます。
昭和19年夏にサイパン、グアム、テニアンなどマリアナ諸島を占領した米軍は、ここにB29が集結する航空基地の建設を進めました。
B29は高射砲が届かない1万m以上の高度を飛び、航続距離も5000km以上。マリアナから出撃すれば、北海道を除く日本全土が爆撃可能範囲に入りました。
B29による空襲は、当初は軍需工場などに絞って行われましたが、後に都市全体を焦土にする無差別爆撃となりました。
山口県も軍の拠点や工場などの施設があった瀬戸内海沿岸の町が空襲を受けました。
なかでも大規模な空襲の標的になったのが徳山でした。
海軍の国内最大の燃料拠点があったからです。
昭和20年5月、200機にのぼるB29が町を襲い、燃料拠点のほとんどが壊滅ました。
およそ2か月後の7月にもB29の焼夷弾による空襲が行われ、2回の空襲で徳山は焦土と化しました。
徳山空襲で亡くなった犠牲者は、およそ1000人にのぼります。
ではここで徳山空襲についての貴重な証言をご紹介致します。
NHK[YAMAGUTICスペシャル]戦争の記憶 そして未来へ ~やまぐちの“戦後70年”~
「空襲犠牲者をだびに付した」
放送日 2015年7月17日
Q:空襲の後に、こちらに戻られたと思うのですけど、そのときのここの様子というのはどういった形だったのですか?
いちばん最初はですね、境内がずっとまだ向こうまでありましたので、庫裏(僧侶が居住する場所)が向こう側にあるわけですね。入ってきたら何にもないわけですよ。こっち見て。本堂はないしですね、庫裏もないし、この蔵だけがここに残っていた。何にもないので、ぼーっとぼう然としとったというところですかね。誰も帰ってこない、弟と2人だけですからね。何て言うかな、どうしていいか分からないというか、そんな感じですね。何もなかったです。本堂に来るとかいうことはなしに、兵隊さんがここにいましたものですから、本堂のほうに行くよりはいちばん最初、庫裏のほうを見たんですけど、庫裏のほうには行ったんですけれども、母なんかもまだ帰ってきませんでしたからね。
弟と2人だけでぽつんと防空ごうのところに立ってたんですよ。それとしばらくたってから母が帰ってきて、ほっとしたというところですね。
Q:ここは何もない状態。
何もないです。はい。
Q:焼け残りの木材とかは多少?
そういうものはあったと思いますけど、そこまではまだ細かくは見ていません。だからもうそれよりは自分がいつも住んでた庫裏のほうに目が行きますのでね。目線が行っても本堂は何もなかったですから。見てから、残っていたのは門と蔵しかありませんでしたから。
何にもないっていうのが、どうして無くなったんだろうかな、という感じですかね。そういうなので、びっくりしたというような気持ちですね。
Q:それはやっぱりそれだけ空襲がすごかったとか、焼夷(い)弾がすごかったとか。
焼夷弾はですね。上からパッときてそれが開くんですよ。開いてからばばばばっと落ちるんですね。ですからいちばん最初はこう、…を落とすんだと思って、それから開いてから花火みたいな形で落ちてきます。落ちてきたら道路が燃えるわけですね。燃えるところを逃げるわけですから、もう大変ですね。それから現物を見たのは逃げる時でなしに済んでからあとですね。それまでは落ちるところまでしか見てないです。済んでからあと現物のこれが焼夷弾っていうものかなというのを見たんですけどね。それがたくさん落ちてるんです。お墓のところにいっぱい。1つ2つとかいうもんじゃないです。もう何十っていう、焼夷弾が落ちてましたから。
Q:そのときのお気持ちというか、本堂とか母屋がなくなっている状態のときというのはどういうことを思われていたのですか?
どういうことっていうよりも、とにかくぼう然っていうんですかね。そんな感じですね。だからあのまずいちばん最初に思ったのは、母やら妹たちがどうしてるかなってことですね。私と弟しかいませんでしたから。だから兵隊さんもいなくなりましたから、ただ私と弟2人だけが残されたわけですから、どうしていいやら分からなかったですね。ただぼう然としよったということですね。おなかが減ったとかいうことはあんまり感じなかったですね。ただもう、どうしていいやら分からないという感じですね。
しばらくたって母が帰ってきまして、はーよかったのうって思ったんですね。母親がやっぱり見て、私は子どもですからその後の様子っていうのはどうしていいやらっていうのは考えてませんでしたから。母親が見てから何にもないから、その母親の顔を私は子どもですから必死に母親の顔を見てました。母親がもう、きーっと引き締まった顔をしてました。やっぱりこれからどうしていったらいいんだろうかなっていう思いがありました。住職も戦争に出てましたから。そういうような形であとに残されたのは女子どもしかおりませんでしたので、どうしていいのか分からないというような状態ですね。だから母親がいちばん緊張していたのではないかなと思います。行くところがありませんので、すぐさま私たちは母のいなかのところへ疎開していったわけですね。何もないわけです。そしてこう弟と、ばあちゃんは置いとって、私と母だけが2人がここにやってきてから見るんですね。どういうような状態になったんだろうかっていうので。歩いて久米から帰ってきて1時間くらいかかるんですよ。1時間くらいかかるのに来てから様子をこう見てからしばらくして帰るというような形をとって。そのときにだびに出会ったわけですね。だびに出会って、その明くる日だったかどうかっていうのは記憶にはっきりしてないんですけれども、そのちょうど遺体を入れておって、私が見た時には、ちょうど市役所の人がその小口のところにおられまして、帳面に書いておられました。帳面に書いておられて、私がすぐ焼けたところで、今建物の構造がちょっと違いますので。中にこうやって入っていきますと、このあたりに市役所の人がおられてから、帳面でいろいろと書いておりました。建物は全く何もありません。だからもう私が見たのはちょうどこのあたりだったとこのあたりで見ますとちょうどいちばんここの今椅子が置いてあります、このあたりにですね、頭に焼夷弾をパサッとはまりこんだ人がここに横になっている。ここに今いすが置いてあります。ここのところにはお母さんが赤ちゃんをおぶったままで、何にもなくて、煙にまみれて亡くなったんじゃないかなと思いますが亡くなってる。ここのところを見たら、ここがいちばん印象に残ったの。真っ黒に焼けてる。真っ黒に焼けてから、これは真っ黒だから火を浴びてるなと、こう思って。この3体だけが自分の間近でじっと見ました。あとは向こうの方は少しかぶせてあったと思います。この3つだけがずっと子どものときから印象が頭から離れないっていうような、そういう思いがしてますね。だから特に(子どもを)おぶったお母さんは、そのままのかたちでこう亡くなってる。それはもう焼けて黒くもなっていないのに・・・ようなかたちで亡くなっている。子どもさんをおぶったままですね。まあ、まさか頭の真上に焼夷弾がはまってるかっていうのも珍しいと思ってですね。こんなところによう焼夷弾がはまったんじゃのうといまだかつて思ってますね。黒焦げになった人というのは、これ焼けたんだなというのはすぐに分かりましたけどね。いまだこの3体だけが頭から離れない、何十年たっても離れない。あとの人は正直言ってたくさん焼かれたわけですけども、自分の目から直接見てからじーっと強烈な印象を受けたという感じはありません。いちばん身近なこの3体だけは強烈な印象残って何十年たってもいまだかつてすぐにぱっと浮かんできます。
よくここでみなさんが集まる時に、「ここでだびに付したんですよ」と。ですから「ここのお寺とそれから隣の徳応寺さんと、それから八正寺さんでだびに付しました。みなさん今座っている下にいっぱいお骨があったんですよ」とこういう話をするんです。そうすると集まった人は、どこにお骨があるんじゃろうかというような感じでですね、ピンとこう今頃はしないですね。年をとった人は分かるかもしれないですけど、ほとんどはまあ建物やら構造が全然変わってますから、戦争のあとっていうのはあまり感じないというのが事実ですね。
Q:最初の所をお伺いしたいのですけど、3列に穴を掘って、木材を使ってというようなお話しだったと。
あのですね、ここ今4つあるけども、4つはなかったと思う3列だったと思う。3列でですね、この赤土ですか。壁ですかね。壁の土がこう落ちてる。そこのところをこう掘って、その上にこの板をこう置いて、板の上に人間を乗っけて、その上にまた焼け残りの木なんかを全部かぶせまして、トタンを置いて油をかけて焼いたんです。だからもう私なんかは最後までいませんでしたけど、近所でおられた人なんかはとにかくくさかったと。何かっていうとどんな臭いかっていうと頭の髪の毛を焼いてちりちりというあのくさい臭いが、その猛烈なそれが臭いだったんですね。そのにおいでとてもじゃないけどおれなかったという。だからたくさんの人を一度に焼いたにおいというのは猛烈だったんじゃないかなと思いますけどね。それで日にちがたってから来たら、焼け残りのお骨なんかがいっぱいあったということですね。その明くる日に来たかどうかというのは、私もはっきり覚えてません。だいたい母と私が毎日のぞきには来たんですけど、その日が明くる日だったかというのは分かりませんですが、市役所の人が主だったお骨をだいたい拾っておられたんじゃないかなと思います。焼け残りの半焼けの手首とか、頭蓋骨とかそういうものがあったことは間違いないですね。
Q:どれくらいだびに付したご遺体というのはあったのですか?
人数は何人かというのは分かりませんですね。それから3か所で徳山で亡くなった方を焼いているわけですから、5月10日の空襲のときはお寺が焼けてませんから、焼くところがちゃんとあったと思いますけども、7月の分は、これはもう寺が焼けているわけですから、亡くなった方も多いわけですから、焼くとすれば焼けた寺も使う。それで材木もみな焼け残りの木がある。そういうなので、焼け残りの木を全部使ってやったわけですから、寺にあった焼け残りの木というのは、私が見たときはほとんどなかったわけ。全部そのだびに付したときに使っていると思います。残りの全部の庫裏や何かの木なんかを全部集めて、よそから持ってくるというのはそんなにないと思いますので、残りの木なんかを全部使ってやったと思います。そして燃してるわけです。
Q:そういう上にやっぱり本堂が建っている。
そうです、そうです。だからですね、最初はですね、ここは本堂建てなくて、向こう側のほうに本堂を作ったんです。道路で半分に仕切られましたんでね。向こう側にお堂を作っておったんですが道路で半分に仕切られましたんでね。向こう側にお堂を作っておったんですが、今のところはありますね。・・のあたりに大仏様が座ってたんですよ。大仏様が座って、徳山を守るんだと。ちょうど本堂が建つのが遅かったもんですからね。だから大仏様の座るところの周りに木が植えてあったんです。今度は本堂作りますよということで大仏様を動かすことになったんです。木なんかは徳山の緑地公園のところに納めたわけですね。大仏様を移動するということにしたわけです。ですから大仏様はここにありましたから、収骨した分を入れたとすればここのあたりじゃないかなと思いますけど、そこのところは私もはっきりとそれを覚えておりません。残りのお骨というのは手首とか足首とかの残りの部分は向こうが墓地でしたので、墓地とお墓とお墓の間のところへ穴掘ってスコップの柄がないので、こう掘ってそれであの焼け残りを入れてかぶせてでこう合わせて。それだけはよく覚えています。自分がしたことですから。
Q:ご自身で掘られたんですね。
自分1人ですよ。だから母は他の用事をしていた。私1人がしたですよ。だから今頃考えて小学校6年生でようお骨やなんかをやったなと思いますけどね。だから生焼けとか頭蓋骨が残ったのやらね。どう見ても足首が残っていますね。要するに半端な所が残るわけですね。真ん中はだいたい焼けているんですけど、頭蓋骨や足首、そういうのをやったと思います。スコップで拾っては持って行って埋めたです。だから戦争は絶対にやだなというのは強烈にすごいですね。もうそういうようなものを見てるからね。こういうふうに何にも罪のない人が亡くなっていく、そういう戦争を絶対にしちゃいかんなというような感じは強く思っていますね。
Q:今徳山空襲というのを振り返って、今思うことというのはどういうことがありますか?
徳山空襲っていうのは、やっぱり戦争はしちゃいかんなーっていうような感じは強いですね。それから自分自身がちょうど小学校6年生のときでした。小学校6年生の人なんかはやっぱりそういうふうな戦争というのを味わってきてると思います。同じ6年生は。事実ですね、目の前で焼かれていく人がおると。または亡くなった人がおると。それを見た時の印象というのはですね、終生忘れられないと思いますね。特に戦争に行かれた人が復員して帰ってこられた。そして何かというと、黙って胸の中にしまっておられるわけですね。言われないっていうことは人を殺したことがあると。そういうようなことの罪の意識というのがやっぱり残っているから。帰ってきても何にも戦争のことを話したくないというのと同じじゃないかなと思いますね。ですから私の胸の中にはやっぱり3人の印象に残っている人の姿がいつまでも残っていますね。お骨を埋めたこともよく残っています。やっぱりそういうような戦争で焼けた、それによって亡くなった人があったっていうことは、終生忘れられないんじゃないかと思いますね。
Q:だびに付している時の3人を、見た風景というのは、いまだに忘れられない。
忘れられませんね。真っ黒けになった人の姿なんかそうですね。私の父は戦時中も戦争に出ていました。戦争に出てから現在の中国、中国に行ってから引き揚げてきたんです。ですから帰ってきた時には何にもないバラックに私たちが住んでおったんですね仏様のところに行ってはいつもですね、じーーーっと何も言いませんでした。戦争行ってからつらかったということは、話しますけども。川の水が流れているからのどが乾いたから飲もうと思ったらちかっとしたと。なぜかと言うとすぐそばに死体があったとか。そういう話があります。やっぱり坊さんが戦争に出にゃいけんというような状態、人を殺さなきゃいけない。そういうようなところに出た時は、罪の意識というは倍以上強いと思います。だからいつも倍になってくるとですね、仏様の前で手を合わせちょったですよ。今ですね、父親はいろんな戦争のことを思っているんだなと。私たちにはあまり言いませんでしたけど。だからつらかったんじゃないかなという感じはしますですね。私がやっぱりそういうようなだびに付した人のことなんかが頭から離れないというようなこともですね、やっぱり戦争を体験した、またはそういうようなだびに付す姿を見た、そういう思いっていうのは強烈に残っているんじゃないかと思ってますね。ただ、それを口に出して言うか言わないかだけのことであってですね。やっぱり戦争に行かれた人はもっともっと胸の中にしまう意識と言いますか、罪の意識とかそういうものはあるんじゃないかと思いますね。
私らまあ、兵隊さんがおられたからね。戦争のときまではご飯を食べられたけど、焼けてからが今度は大変だった。焼けてからこれは食べるものがないからね。だから母親が着物をしょっちゅう持って行っては農家からお米をもらって帰るとか、いうようなことがありました。私なんか小学校でも落ち穂拾いっていうのをやりましたからね。落ち穂っていうのは稲を刈られたあとにですね、小学生が並んでいってですね、刈られたあとの落ち穂を拾って歩くんですね。そういうようなことをして学校にあと納める。イナゴ捕りちゅうのもやったことがあるんです。なんでイナゴ捕りをするのかっていうと、イナゴを捕って、子どもですからおもしろいからイナゴを捕りますね。串に刺してですね、焼いてそれを食べるんですね。だからイナゴを食べたことがありますよ。その落ち穂拾いしたことがある。そういうようなのは私より年齢が高い人はもうどんどん燃料廠(しょう)なんかに行ってから、奉仕をされてますからね。私はたまたま学年があの小学生でしたから、奉仕活動まで行かなかったですけどね。奉仕に行かれた燃料廠なんかに入れた人なんかでも、同じ徳山中学校の人でも亡くなっている人がありますからね。そういうようなのが、本当にまあ亡くした親というのはたまらない思いがするだろうと思いますね。
追記
2018/4/6
ハッシュタグ・この日の出来事追加
