激動の3月14日が終わった。
さて、忠臣蔵の話に戻る。
3月14日、運命の日だ。
元禄14(1701)年3月14日。
これまで書いてきた通り、
東山天皇の勅使は前権大納言柳原資廉、前権中納言高野保春、
霊元上皇の院使は前大納言清閑寺煕定だ。
一行は3月11日に江戸到着、
12日に江戸城で将軍綱吉に拝謁。
13日には城内能舞台にて猿楽の饗応、
そしていよいよ14日に将軍から勅使への答礼となる。
勅使院使は三人だが、随員が多く、平均して五百人から六百人ののぼったらしい。
その大人数の一稿を宿泊、食事の面で迎えるのが勅使饗応役なのだ。
今で言えば、中学生や高校生の修学旅行を迎える京都の旅館の女将や番頭といったところか。
もちろん将軍の名代として天皇、上皇の使者を迎えるのだから重みや、プレッシャーは大変なものだったろう。
それはともかくこの14日、いったい何がどうなって松の廊下の刃傷になったのだろうか?
実はいまだにこれは解明されていない。
しかしたった1日で事件は起き、浅野内匠頭は切腹となるのである。
この日の記録を、これから振り返ってみようと思う。
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