ご存知、忠臣蔵は元禄14(1701)年3月14日に松の廊下において浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に刃傷におよんだことから始まり、元禄15(1702)年12月14日に本所松坂町の吉良邸を襲い上野介の首をあげたところでクライマックスを迎える。

 

3月14日と12月14日。

月違いではあるが、偶然にも14日が事件の発端と終わりの日になってることはよく知られている。

 

しかし2月4日というのも偶然ながら大きな節目の日なのだ。

 

元禄14(1701)年の2月4日に、浅野内匠頭長矩は幕府から勅使饗応役を命じられている。

つまり忠臣蔵が生み出されたきっかけ、発端の日と言って良い。

 

そして元禄16(1703)年の2月4日は、討ち入りを果たし、四箇所にお預けとなっていた浪士に切腹の命が下り、

生涯を終えた日なのだ。

 

これこそ事件の本当の発端と終焉の日。それがまさに2月4日。

 

浪士たちの遺骸が埋葬された泉岳寺では、この日、特に行事はないようだ。

静観して想いを馳せるしかない。

 

一方、同じ元禄16年2月4日、上野介の養嗣子・義周は領地没収の上、信濃諏訪藩高島城に配流されることになった。

ここにきて喧嘩両成敗の沙汰が降ったのか?

 

義周は2月11日に江戸を出発し、高島城で幽閉生活を送ったが次第に体調を崩し、3年後の宝永3(1706)年1月20日、

21歳の若さで病没した。

そして法華寺に埋葬されたのが、また宝永3年の2月4日だという。

 

2月4日。

まさに忠臣蔵の因縁の日である。

 

吉良家の秘話を残す愛知県西尾市吉良の華蔵寺を訪ねた動画はこちらから。

 

忠臣蔵ファン必見!吉良上野介の墓参り動画はこちら

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https://youtu.be/FwpRB37x7z8