4月から東京へ移り住み、すでに10日が過ぎた。
東京進出から1年、ずっと東京移住の準備をしていたわけではなかった。
当時は大阪でやることがあるから、東京に移る気はないと明言してたんだから。
その後関係が少しずつ拡がるうちに、何度も東京へ足を運ぶようになった。
いつの間にか大阪は大阪で離れるべき理由が次々沸いてきて、既存の所属団体とは関係が険悪になったり住み続ける意味がついに途絶えた。
自分の音楽活動も、過去12年間続けていた地域音楽の具体化構想を完全終息させた。
過渡期の中でイベント出演したり、制作も思うように進まず大失速だった。
そんな12月中頃に、ある女性から縁談を持ちかけてくれた。
何人か候補を挙げてくれたら、話が合いそうな相手はいずれも東日本に居るようだった。
同時期にはAlazi Dream Projectの理事になる話が来たり、これからの自分は東京方面に求められてるんじゃないかと思うようになった。
そして2017年中には大阪を離れると見越して、予定を大幅に前倒し3ヶ月半で移住を実現させた。
移住計画なんてあってないような突貫ぶりだった。
関東再移住は、過去に何度か狙ったことがあった。
『再』移住だ。2度目である。
15年前は大学卒業後、横浜の戸塚という街に引っ越してフリーター生活をしていた。
しかし1年半で生活や目的探しに行き詰まって帰郷した。
その時にある歌手のファンを介してつながった友人同士でつながっていたのだが、決して能動的に個人活動を起こすような人種ではなかった。
どうも自分から話を合わせるのに無理をして、あるきっかけで衝突して関係は途絶えてしまった。
6年経ってから、たった1人で当時住んでた街を歩いたことがある。
元勤務先の同僚とも連絡先が分からなくなり、全く1人の状態だった。
その頃、たまたまmixiを介して作詞を趣味にしている戸塚在住の若い男とつながり、実際に戸塚駅で会うことがあった。
しかし事前に電話をしていたものの、対面すれば「僕知らない、分かりません、あれ嫌いです」だのネガティブワードばかり。
人が変わったようなガキ口調にうんざりし、共作の話もあったが当然不成立。
結局また関東に結びつきは作れなかった。
交通費も時間もつぎ込んで往復したのに気持ちを台無しにされて、怒って帰ってきたのだった。
あんなJ-POPしか聴かず嫌いのクソガキに、自作曲にパクリ作詞を載せられてはたまらない。
こうなったら自分で歌詞を書くしかない。
帰宅後たった3日間で初めて書いたのが、『銀色の続きは七色』という詞だった。
その後半年かけて楽曲にして、YouTubeにデモ曲を載せて公開している。
この歌詞を載せた時に、東京で作詞家を目指している女性から感想をくれた。
どれだけ勇気づけられたことか。その後実際に会うことにもなった。
2010年秋には彼女自身の個展にも共同出展させてもらった。下北沢のギャラリーで。
そこでつながった方とは今も何人かSNSでつながっている。今頃どうしているんだろう?
自分自身が新しい道を切り開く時。
これまでは怒りのエネルギーを言葉や音色にぶつけて発信(発散)して、その結果事が動いた経験が多い。
『銀色の続きは七色』の歌詞も、屈辱的な失敗があったからこそ書けたと言える。
自分で評価するつもりはないが、その結果書き残せたのは事実なんだから。
東京が新たな故郷になるかは分からないし、当面はどこにも属さないで個人の作風を確立させることが先だ。
過去はリセットできたから、全く焦っていない。
それでも音楽に限らず人のつながりだけは作っていたい。
この1年行動したおかげで、人間関係で助けられてるのは本当にありがたい。


8日土曜は、ミュージシャンの勉強会・リーダーミーティングのメンバーと花見。
南池袋公園で、雨に降られず桜と芝生と共にくつろいでた。
池袋の真ん中にこんな綺麗な公園があるとは驚き!
その前週の日曜は、光が丘公園でCherry Blossom Festaに参加してた。
新居から自転車で行ける距離で、東京の友達を誘って
昨年の東京進出時から出会ってた、ソウルシンガー MIMOGY(ミモギィ)と久しぶりに再会。
最近は防音室にこもって配信しながらも、元気そうだった。


池袋の花見にも来ていたベリさんのバンド、歌う応援隊ヒトミリリィのライブ。

東京に移住してすぐ、すでに音楽でつながれる人達が居るのはどれだけ心強いか。
昨年2月28日に思いつきで東京に行ってなかったら、今頃どうしていただろう?
その後関西ローカルな関係を脱して、自ら東京で行動を広げてきた意味が今やっと実感してきた。
しまひろふみ