海外在住経験者ならお分かりだと思いますが、’97年だけでも100万人おりまして、利用者は、年15%程度の割合で増えているそうです。

背景には、アメリカでは、若年犯罪の高まり、教師による相次ぐ虐待の発覚で、学校での子どもの身の安全に対する危機感が親たちの間に高まったという事がキッカケなのだという。80年代頃よりホームスクールが発足し、現在では、インターネットの普及とともに多様な学び方の選択も出来、有料ではあるが、ホームスクーラー向けの絵画教室やら音楽、体育教室etc・・・また、テキスト(教科書と訳さないで!)も充実している。また、これは実にアメリカらしいのであるが、その実践の形態や信条は実に様々で、宗教教育の重要性と親の教育権を強調する保守層から、管理的学校教育に反対し子どもの権利を主張するリベラル派まで、その幅は広いという。

二見さんという翻訳家で、早くより日本で(通信教育形態だったと記憶しているのだが。)二児の子供をアメリカのホームスクールのテキストで勉強させ、確かこの方、午前中に子供とヨガなどを用いて一緒にメディテーションしたりしながら午後には、勉強をみてあげるといった個性的な子育てをを実践された方だったと記憶しているのである。

ここで現状と比較すると、現在の日本においても先に書いた〔若年犯罪の高まり、教師による相次ぐ虐待の発覚で、学校での子どもの身の安全に対する危機感が親たちの間に高まった〕ことは、世論的には同様なのだろうが、ここからが大きな違いなのだが、だからこの状況を何とかするためにどのようにしたらいいのかの行動が伴うか伴わないかが、大きな違いであり、(バカの集まり)教育再生会議とやらは、教員の待遇やあくまで、学校側の困った時にどーするって事が、どんどん決まっていく中、当事者は置いてけぼり状態なのだ。

成績順に学校評価するなどの競争原理をもっていくのは、お門違いな話であって、本来は、あまり例にには出したくないが、
アメリカでのチャータースクール(親たちが自ら教師を雇い、学校そのものをチャーターする)、バウチャ(学校券)スクール(親に配布した学校券で、学校を運営する)、さらにはホームスクール(学校へ通わないで、家庭で学習する)など、子供である当事者が選べる状況や多様化する問題こそが、本来の話し合うべきテーマなのではないかと思う。

ホームスクールにしろ何にしろ学校が無くなることはないし、多様化したことにより、悪い面もあるかもしれないが、少なくとも選択肢を多くしたら、それが当たり前になれば、子供の心理的、肉体的負担を取り除く事にはならないだろうか?学区を自由化したくらいで、学校が選ばれる立場になり益々努力を・・・など多くの学校のホームページで書いているのだが、本来選ばれるというのは、生徒や同僚に信頼されてこそ選ばれるという意味があり、評価・査定に怯えたり、脅したりは、全く違う問題だし、学区自由化にそもそもの意味はないと思う。


頑張っている教師が報われる制度でなければおかしいし、確かに、無理難題をいう親がいないとは思わない。しかし、それは増えたわけでもなく、悲しいかな昔からいるのである。しかし、父兄に対しモンスターなどという造語がおかしいと思わないか?客商売では、必ず無理難題をいう困ったちゃんに対してもモンスターとは呼ばないし、対応しているはずである。もちろん手順に従ってであるが。教員だけの問題ではないし、その解決能力、処理能力に問題はないのだろうか?

人とキチンと向き合う事が出来ないほど忙しいのなら、それは改善してもらわなければならない。本来は、そういうことを話し合ってもらいたい。税金を使いモンスターペアレント対策なんて事に発展するのは、ズレているのではないか?