十、介護保険と障害福祉サービス
ヘルパーさんになった直美は、一人目の利用者さまとの出逢いでヘルパーさんの仕事を「天職」だと思えた。
そのおばあちゃまとの時間は楽しく、素敵な時間だった。常に感謝の気持ちを持っている方だった。何に対してもだ。太陽にもお月様にも、道のお地蔵様にも、木々にも、雨にも、全てにだ。いつも手を合わせて、「ありがとう」と言う方だった。こんな私にもいつも「ありがとう」と言ってくれる。
このおばあちゃまとの出会いがなければ、ヘルパーさんの仕事を続けることは無かったかも知れない。
直美はヘルパーさんとして働くことを決めた。決めたら早い。直美の行動力が発揮される。
知りたいという欲求から、様々な仕事にチャレンジした。
身体介護も家事援助も何でもかんでも引き受けた。一つ残念なのは抱きかかえるなどの身体介護は自分よりあまりにも大きい人は出来ない。小柄な直美は技術だけではできないといった問題を知った。
その当時は一年間の経験を経ると、ヘルパー一級(現在はヘルパー二級も一級も呼び名が変わり講習内容も変わっている)の資格が取れることを知った。その資格を取ると「サービス提供責任者」という職に就ける。責任ある仕事に就かないと、直美の知りたいという欲求は満たされない。
そして、三年の経験を積むと今度は国家資格である介護福祉士の受験資格を得ることができる。もちろん挑戦し、取得した。
平成十二年に介護保険が制定され、平成十五年には身体障害者と知的障害者がホームヘルプサービスなどを事業者との契約に基づいて受けることができる支援費制度が制定された。それまでは行政権限の措置制度でしかサービスは受けることができなかった。障害者とその家族にとっては良いことだったのだろう。
直美が転職をした、この年に障害福祉サービスは措置制度から契約という支援費制度へと移行した。
直美は介護保険よりも障害福祉サービスの仕事が大半となっていた。
支援費制度が制定されてから三年後には障害者自立支援法が制定され、身体障害者、知的障害者に加え精神障害者も同じようにサービスが受けられるようになると、ますます、直美の仕事の幅は広がっていった。
障害福祉サービスは大人だけではなく子どもたちの支援もある。
何らかの障害がある子どもたちの支援をするわけだ。身体障害児、知的障害児に加え、発達障害と診断される子どもたちの支援が増えたのは平成二十二年くらいからだった。
何らかの障害がある子どもたちの支援の多くが「外出支援」というサービスだった。この「外出支援」は市町村独自のサービスで広島県の中でも広島市とその他の市町で利用できる時間やサービス内容は異なる制度で広島市では「移動支援」という呼び名だ。