ネットサーフィンばかりしては、頭の中にゴミをためてしまっている今の状況、
視野を広げないことには、ままなりません。
たとえ未経験でも、「ソーシャルワーカー」だという気持ちは持ちたいものです。
先の就活では、どういったMSWを目指したいか、
「人生で印象に残っていることは何か?」という質問に対し、
実に個人的な内容の、稚拙な回答をしてしまい、見事玉砕しました
社会福祉士の勉強の中で、「自己覚知」という言葉があります。
それは単なる自己内省ではなく、
自分を規定する社会的規範は何なのかをまず考えることだと思います。
私たちは知らぬ間に、時代によって良しとされた価値観を、
幼少の頃から植えつけれています。
「人に危害を加えない」、「迷惑をかけない」「大声を出さない」などのしてはいけない規範から、
「相手を思いやる」「役に立つ人間になる」などの社会的人間としての規範まで。
これは裏をかえせば、程度にもよりますが、
それができない人間に対し負の烙印を押すことにもなりえます。
今日はあの忌まわしい、「津久井やまゆり園」の事件から8年です。
2度と繰り返されてはならない、と切に願います。
この数日、被害者の方のご家族の記事や、携わった現場の方の記事をたくさん目にしました。
いたたまれない気持ちになると同時に、忘れず、考え、動き続けることを辞めてはいけないとも思います。
私には障害のある息子がいますが、かわいいな、と思うと半面、
だめだけど、手をあげてしまいそうになるとき(実際軽くあげたこともあります)があります。
でもそれは、「世間の子は、一般的にはこうだよね、この歳ではこれくらいできないといけないよね」
という認識があって、
そこから息子の行動がずれていたとき、また助けを呼ぶことすらできないとき、です。
なおかつ自分の機嫌が悪かったり、余裕がなかったりするとき。
「なんで思い通りにならないんだろう」と、絶望に近いに気持ちになることもあります。
また、逸れますが、息子の妹(私の娘)は、障害児ではありませんが、息子のことを罵倒します。
私は親なので、毎回言い方を注意します。
息子にばかり愛情を傾けているわけではなく、
意識的に娘にもかまってるし、愛情を注いでいるつもりです。
兄弟児ゆえの悩みがあるのかもしれない、と最近の課題となっています。
これについてはまた別の記事でとりあげます。
娘にとっても、兄とは「こうあるべき。頼りになってしかるべき存在。現に友達の兄はそうだ」
というのがあるそうです。
兄がそこから大きく逸脱するのが、許せないらしいのです。
結局、家族とて、息子に負の烙印を押してしまっているのです。家族だから愛はありますが。
脱線してしましたが、社会的規範とはその時代によって大きく異なります。
優性保護法しかりです。
一昔前まで当たり前だったことが、今では当たり前でなくなります。
それ自体は歓迎されうるものでしょう。
ことソーシャルワークにおいては、社会変革を促進させたわけですから。
ところが、現代の理想の価値観のおしつけは、現場に数々の矛盾を生じさせるでしょう。
価値観自体が悪いものだといっているのではなく、
現場は不条理がたくさんあるからだと思うからです。
その上で、やまゆり園の事件は被害者が悪なのは自明です。
と同時に、現場一つに押し付ける問題ではなく、社会全体の問題だと捉えています。
多様性を受け入れられるほどの余裕のある社会が醸成された上で、
(それは政治の問題でもあるし、経済的な問題でもあるし、教育の問題でもあるし、様々だが)
障害者であっても認知症高齢者であっても、属性関係なく
お互いに人として向き合えるようになる、そういう人間が自然発生的に増えてくるのだと思います。
人は一人では絶対に生きていけない、程度の差があるだけで。
だから、家族のみならず、助け合っていこう、自然にそういう発想になる人が増えるのだと思うのです。
昭和のように近所の機能を利用することは、今の時代難しいでしょう。プライバシーもありますから。
そうではなく、余裕のある社会は福祉社会に必須の条件だと考え、
いざとなったときに、支えてくれる、アクセス可能な社会資源を備えておくべきでしょう。
(余裕のある社会、という定義も難しいのですが。。。)
これは私の理想論、妄想でしょうか。
現状は、制度としては整えようというフォーマル側からの働きかけはありますが、
インフォーマル機能として果たしてどこまでが機能しているか、
今後ソーシャルワーカーとして、注視していきたいところです。
ソーシャルワーカーとして、障害者を育てる親として、
現状では到底、「多数派」であろう緩やかな多様性反対派、
特に障害者をひとくくりにして、個々の特性を知るまでもなく、
「共存?え、無理無理」とつっぱねる方々の勢力に、介入することは難しいと思います。
そういった考えもあるとは思うし、私も区別は大事だと思うから。
でも、いったん受け入れ、社会に繰り込んだ上での区別と、
はなから分離、とでは、意味合いが違ってくるのだと思います。
某CMではないですが、違いは人に対する友「愛」でしょうか。
分断をあおりたくないので、やはり、やさしい社会づくりが先決なのでは、と思います。
キーワードは、社会全体の問題、自然発生的でしょうか。