誰にも語る機会のない事をコラムとしてここに書き出そうと思う。

(旅ブログと全く趣旨が違う自分語りです笑い泣き)

育児は圧倒的に経験値を積める上に、子に徹底的に愛されるゆえ、

社会的にだけでなく子との関わりにおいても自尊心を高めてくれる、

他に類のない経験だと思う。

それと同時に、子がいる、育児中である、母親であるというのは

強力なカードであり免罪符でもあり、「母親業」さえしていれば「個人」の個性などあまり問われなくなる。

ここが強力なメリットでもありジレンマを感じるところでもある。

ところが、良くも悪くも全母親が横並びに母親業だけに追われている時期もずっとは続かず、

子が小学生になるくらいで子が少し自立してくるとともに、「どんな母親であるか」という

事がまた問われてくる。

母親の個性が子の人生を大きく左右すると共に、個人としての時間を多少取り戻すようになってくるからだ。

(ここで兄弟がいると話が別である)


こんなことを考えているのは私くらいなんじゃないかと常々思うことがあるが、

私は子供を産んでからは「自分は何者なのか」という青臭い問いから逃れることができて

心底ほっとした。私は母親である、それで十分になった。

それまでは不安だった。人生を通して熱中できる「何か」を持たず、長年続けてきた

趣味がなく、友人や恋愛、部活などの経験値も他より圧倒的に少なく、

同世代の他の子達と比べて自分に自信がある点など何もないと思えた。

時間が無為にすぎて行くのが怖いけど、行動力もない、そんな自分と真っ向から

向き合って接してほしくない。

何もないことが見抜かれてしまうのではないか?という不安は、就職活動の際ももちろん影響した。

多くの悩める10代の例にもれず、自分探しを書籍の中に求め、多種多様な本を読んだけど

それで自分に何かしらの肉付けがされているとは全然思えなかった。

自分に自信があり、意見がはっきり言える、サバサバした人がいつも羨ましかった。


正直に言って、これらの問題が育児で全て解決したわけではもちろんない。

依然として自分の課題である点もあるが、「母親として」の理想的な個性は、

シングルの時とはまた異なってきたのだ。


母親になってからは、求められる個性が全く異なってきた。

仲間内の人気者でなくても、自信や個性が強くなくても、良い母親は務まるのだ。

母親とは、「子供の様子を近くでよく見て、よく寄り添ってあげる存在」だから。

一緒にいて、子の変化を見逃さず、気持ちを汲み取り、微笑み、寄り添ってあげる存在。

それは個人の性格関係なく、それをする「行為」であるから、母親をしているうちに、人は、そのように変わっていく。

不思議なもので、「母親」になってから出会う母たちは、皆穏やかで、共感力が高くて、

やるべきことをこなすしっかり者で、社交性が高い。

それが母として必要な個性であり、他者への献身行為であり多忙な母親業をするうちに、

多かれ少なかれそのようになっていく。

こと「母親」という仕事をこなすにおいて、過去どんな人物だったかはあまり関係がないのだ。

ギャルも、真面目っ子も、オタクも、自己中でも、どんな人物でも一様に同じように子育てをする時期を経験することによって、

みんな一度角取れて丸くなり、自己が研鑽されて母親らしくなる。

母の個性に注目されなくなり、ありがたくも寂しい時期を経験する。


さて、主に小学校入学までの6年間ほど、皆一様にそのような時期を経験し、

その後、子育ては第二シーズンに突入する。

手がかからなくなることで多少の時間が取れるようになり、「母親として以外で何しているか」

がまた問われる機会も出てくるが、あくまで多少の時間しか持てないので、

そこまで深くは問われない。「母親」だけ頑張っているのでOKという大前提(免罪符)がある。翻って、子にどんなことをしてあげているか(どんな母親か)は問われるようになるが、それは自分ではなく子の成長によって評価されるようになるので自分自身とはまた違う見られ方だ。

さて、ここまで書いて、何が言いたいのかというと・・


私が常々思っているのは、自分に自信が持てない人に、子育てを強くお勧めしたい、ということなのだ。

こんな意見はどこに向ける機会もない。

子育てし始めると、自分に自信がないとか、何を目標に生きていけばいいかなど言っている暇はない。

常に怪我や危険と隣り合わせで、常に何か手を施してあげないとならないし、

着替えもトイレもご飯も自分でできない子がそばにいると、自分の時間は全然ない。

この子を生かす、それこそが生きる意味であり目標になる。それだけで立派、それだけでいいのだ。


それに加えて子育ては時間が奪われるという失う面だけではない。

子のことを見てあげると見てくれるし、愛してあげると愛してくれる。

子からの大好きパワーを浴び続けることで、自尊心も満たされて、なんだかいい人間のような気にさせてくれる。

「誰かに愛されたい」という欲が満たされ、いつの間にか消えているのだ。


子育てのいい側面はそれだけじゃなく、外交的になったり友達が増えたり家族との距離が縮まったりする面もあるがそれは割愛するとして、

もう一つ、「社会的な自信」も身につく。

いうまでもない事だが、「やるべきことをやっている」という自負であり、

じいちゃんもばあちゃんも、そのまた祖先も、それからまた部長も課長も同僚も、

(多くの)皆が経験した育児というものを、私もまたしている社会の一員としての自分を実感できる。

というかこれは逆に、もし子育てをしていなかったら、私のような性格だと「そうあるべき」という社会からの圧力を

日々感じて悩み、自尊心が傷つけられる機会も多かっただろうと思う。

はっきり言って、私には、レールを外れる人生を楽しめるほどの自尊心はなかったのだ。


そもそも自尊心っていうのは、

人より何かが得意であるとか、多く経験を積んでいる経験値の大きさ、もしくは外見の良さ、あたりから成るものだと思う。

思春期はそういった事に悩み、それらの才能を「持つ」者、持たざる者との違いに悩むが、

そのどれもなかったとしても、育児は全くもって成り立つ。

むしろ、育児に全振りできる人の方が良いのだ。

おしゃれが得意でも、バスケが得意でも、料理が得意でもエピソードトークが得意でも

母親に多少は役立つが、それらが全くなくったって成り立つ。

育児を趣味にすれば良いのだ。

母親が個人的に才能がなかったとしても、子に何らかの才能があり、自分まで子育てが楽しくなるケースもある。

子にとって1人しかいない母親という存在になれるという専売特許は自分だけのものだ。

「自分が何者であるかを探す旅」はまた子育てがひと段落してから始められる。

それにその頃には、思春期に悩んでいたような「自分探し」とは全く方向性が異なっているだろうと思う。

つまりは人生は人との関係性によるところが大きく、

子育てを通して人との関係性も広がり、濃くなり、または薄くなり狭くなるにしても、

子育て前とは自分と周りの関係性が、異なる景色になっているはずだから。


一言でまとめるなれば子育てって最高に生きがいをくれる。

最高に忙しくやりがいのある経験であり、ひと段落することはあっても終わりは多分ないのだ。

自分の中の別の面を引き出し、伸ばし、ある面は引っ込めて我慢し、忍耐力が身につき、

そうやって「自分自分」な自分から少しずつ成長させてくれる最高の自分探しツールなのだびっくりマーク


母親ってだけでOK!

そこに踏み込んで欲しいアップ


そんなコラムでした。

ふぅ吐き出したらすっきりした。