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日本古代史の解明に挑む

今こそ日本国の真の姿を見つめ直してみませんか

中国唐と倭国(九州王朝)の関係 日本統一国家樹立と編纂事業

(672年)筑紫君薩野馬は奈良の飛鳥に乗り込んで来て、ここを日本統一国家の都とした。・・・

筑紫君薩野馬は天武天皇となり、この年が天武元年である。 先ず、編纂事業を急がなけれ

ばならない。そのために、吉野宮が造営されたのである。 吉野宮の所在地は、発掘調査で

遺跡が見つかっている、吉野郡吉野町宮滝の吉野川右岸の台地上に七世紀後半の建物・

庭園の遺跡が出土しているのである・・・それ以前に吉野宮などなかったのである。それ以前

の吉野宮は隠蔽工作である。飛鳥の都は徐々に整えられていったであろうが、以前の九州

王朝の都太宰府には日本統一国家の都督府を置いた。これが後の大宰府である。

さて、「記」・「紀」の編纂であるが、これは大変な事業であった。 唐はこの時、高宗の代である

が、高宗は孝行息子だったというが、偉大な父親太宗が日本の政権簒奪に手を貸したとは絶

対に言ってはならない・・・日本にも圧力をかける。 日本の筑紫君の方でも、統一国家樹立に

唐の力を借りて、葛城族政権を滅ぼしたなどとは何があっても言えない。そこで、天武天皇は

徹底的な隠蔽工作を命じた・・・編纂事業完成迄は、唐の監視もあったであろう。

これが、日本建国の謎になってしまって、日本の古代史は未だ迷路の中をさ迷っているのであ

る・・日本が、唐と険悪な関係になったことなど一度も無い。また、日朝関係も、捏造したもので、

日本と朝鮮半島との関係はそんなに、頻繁ではない。 ただ、山城の築造などには、早くから

三韓の人や技術を誘致している。・・・・・・