こんにちは。こちさんぽ です。

赤穂義士と赤穂浪士の違いって何?

そんなあなたに読んでもらいたい。
初心者目線でわかりやすく!
がモットーのブログです。

討ち入りする前が、赤穂浪士。
討ち入り後が、赤穂義士。
どんだけみんなにリスペクトされたか、呼び名の変化でわかりますよね照れ



一行は、汐留橋を渡りました。

といっても、今、お堀は埋め立てられて橋もありません。

ここには、江戸城外堀に潮の干満が及ばないよう海と堀とを仕切る堰がありました。このあたりが、潮溜まりとなっていたので「汐留」と言うそうですよ。

私たちは、陸橋を渡って新橋の方に進みます。
旧新橋停車場は、西郷どんのラストにも登場しましたね💕
脇坂淡路守のお屋敷でした。


脇坂淡路守は、赤穂藩の隣接藩の藩主。刃傷事件のあと、次の藩主が赴任してくるまでの間、赤穂城を預かっていたんですよ。

この椅子は、おそらく、石垣石の再利用。

建物の裏に、当時の地層が見えます。

この辺りで、吉田忠左衛門、冨森助右衛門が、大目付 仙谷伯耆守邸へ自訴に向かいました。

仙谷伯耆守邸跡(虎ノ門ニッショーホール)には、義士たちが足を洗った井戸があったといいます。

現在はモニュメント。




さて、次の伊達陸奥守屋敷前で、伊達家の公儀使役の大堀庄助亮隆に尋問されます。

討ち入りを知り、感激して見送ってくれたそうですよ。


日テレ前にある、伊達家が義士たちにお粥を振舞ったという説明板。



源助町は、磯貝十郎左衛門、茅野和助らが住んでいたところです。


交差点に日比谷神社があります。
この交差点を右方向に行くと、浅野内匠頭切腹の地〜切腹最中の新正堂で寄り道したいところですね!(日曜日はお休みです。)




日比谷じゃないのに、日比谷神社。
元は、日比谷公園内にあって引っ越してきたそうです。

一行は、表通りを避けて
日比谷神社の裏の道を行きます。


おや、左手に何やらイタリアンな建物。。。


せっかくなので、ちょっと寄り道。
ここは、イタリア街。


さてさて、戻りましょう。

まっすぐ行くと、宇田川。右折して宇田川橋を渡ります。(今は宇田川は埋め立てられています)


ここから、泉岳寺まで旧東海道です。
おそらく、沿道にたくさんの人たちが集まって、義士たちを迎えたことでしょう。


大門の交差点辺りの浜松町。
赤埴(あかばね)源蔵、矢田五郎右衛門が住んでいました。


泉岳寺まで、あと少し
あと、もうひと頑張りですが、私はここで力尽き休憩

続きは、また来週爆笑

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