『三十二歳の男』

(1)

明るいのか暗いのかもよく分からない場所にいた。広いのか狭いのかさえも分からない場所に。ただ、居心地は良く、どこか懐かしいような気がしている。出来ればここにずっといたいと思っている。でも、それは無理かもしれない。もうすぐこの場所は消えてしまうから。そんな気がするから。
そういえば、僕はいつからここにいるのだろうか?数時間前からいるような気もしているし、でも、数秒前からだったような気もしている。
それに、どうして彼女がここにいるのだろうか?ずっと前にいなくなったはずの彼女が数メートル先で、僕を見つめるように立っている。立っているというよりも、ただ存在を感じているだけなのかもしれない。いつからだろうか。数時間前からいたような気もするし、今、突然現れたような気もしている。
彼女が、僕を見て微笑む。あの日、最後に見た、家を去る時の無機質な表情との差に僕は戸惑う。声をかけようとしたが、上手く声が出ない。話しかける言葉に迷っていたわけではなく、後ろで誰かが首を締めているみたいに。腕を伸ばして触れようとしたけれど、腕が動かない。僕に何か言おうとしている。聞き漏らさないように近づこうとするが、足が動かない。彼女との距離が離れていく。もうすぐこの場所は消えてしまうのに。これが本当に最後かもしれないのに。彼女の口が動く。小さな声で『明日帰る』と言った。

目が覚めると、まだ外は暗かった。

次の日、彼女は帰らなかった。その次の日も、またその次の日も。
眠っている間に帰ってきてもいいように、部屋の鍵は開けたままにしていた。

それから数日後、また夢を見た。二十年以上前に実家で飼っていた犬が、幼い頃の自分と庭で遊んでいる。夢から覚めると、違和感を感じていた。それは僕の記憶にはないものだった。家は少し違っていたし、飼っていた犬とも少し違っていた。

あの夜、夢に出てきたのは本当に彼女だったのだろうか?仮に彼女だったとして、それが何になるだろうか?
僕は、考えるのをやめた。意味はなかった。夢には、何の意味もなかったのだ。頭の中にある強い感情でも、過去の映像でもない。

勿論、未来の映像でも。

しばらくして、部屋の鍵を開けたままにするのをやめた。
彼女が出て行ってから三ヶ月が経っていた。夏が終わり、秋に変わろうとしていた。最近就職したばかりの会社にはちゃんと行っていたし、大きなミスもなくしっかり働いていた。
当たり前だ。もう三十二歳なのだから。





(2)

男と女は三年半付き合い、その内三年間は同棲をしていた。二人の関係は順調だと、男は思っていた。
出会いはありきたりだが、バイト先だった。ありきたりではない点を一つ挙げるとしたら、年齢が十歳違うことだった。出会った時、男は二十七歳、女は十七歳。まだ高校生だった。
男には彼女がいたし、彼女以外の誰にも興味がなかった。だけど、一年後に二人は付き合うことになる。
二人が付き合うまでの一年間はとても濃く、美しい日々だったと、男は思っていた。





(3)

「君と僕の子供ならきっと可愛いよ。でもどちらかと言うと、君に似てたら嬉しいな」

朝。

駅の改札口には大勢の人がいた。せわしなく過ぎて行くサラリーマン。酔っ払い、両脇を抱えられて壁にもたれる大学生。別れを惜しんで、愛を語り合う男女。黄色い帽子を被り、ランドセルを背負った小学生の群れ。
そんな人達の邪魔にならないように、改札口から少し離れた所で彼らは見つめ合っていた。乗るはずだった電車を、何本見送っただろうか。
久しぶりに会えた喜びを、また少しの、会えない日々への悲しみが二人を飲み込んでいく。時間が早く過ぎていく。徐々に加速する。彼らを、引き離そうとしているみたいに。
女は、数時間前に布団の中で見せていた甘い表情とは違い、ナチュラルだが、しっかりと化粧をして、よそ行き顔になっていた。化粧をする時、魔法をかけるよ、と言うのが女の口癖だった。同じように、化粧を落とす時は、魔法が解けるよ、が口癖だった。魔法がかかる時、それは決まって二人の別れの合図だった。
男の方は、疲れた顔をしていた。眠るのがもったいなくて、一晩中起きていた。五感の全てで、この子を自分の身体に刻もうとした。なるべく眠りの邪魔をしないように心がけていたが、きっと、出来ていなかった。
手の中で感じた膨らみや柔らかさ、部屋中に響いた声や身体から漏れた音、舌に残るざらつきや酸味、香りが、男の身体には鮮明に残っていた。だけど、男はまだ、満たされていなかった。
「本当にそんなこと思ってる?」
女の顔には表情がなかった。喜んでいるようにも見えたし、悲しんでいるようにも見えた。
「本当だよ。だから早く一緒に暮らして、幸せになりたいな」
甘い言葉が自然と出る。女が感じている不安な要素があるなら、全て取り除いておきたかった。だから大袈裟に言ったというわけではなく、男は本当にそう思っていた。
女の表情は変わらなかった。わずかに悲しみを帯びたような気がした。
仕方ないのかもしれない。ここでは、どんな言葉も悲しい響きになる。
相変わらず、時間の流れは早かった。
女は今から電車に乗る。何度も乗り継ぎ、最寄の駅から家まで歩く。
三時間後には、家に着いたよと連絡が来るだろう。
彼らはお互いの町を行き来しながら会った。女の住む町へ行った時は女の家に、女が男の住む東京へ来た時はホテルに泊まった。
交通費だけでもかなりの金額になる。お互いの仕事もある。無理矢理休みの日を作っても、会えるのは一ヶ月に一度が限界だった。
次会えるのはいつだろうか。
男はすでに、目の前の女の全てを欲していた。
「あなたは私に本当のことを言ったことがある?」
女の顔には表情がなかった。だけど、目の奥に怒りが見えた。その視線は男の目に真っ直ぐ向けられていた。大勢の人が行き交う喧騒な駅構内を一瞬で静寂に変えてしまうような、冷たい目だった。
男は言葉の意味を理解出来なかった。ただ黙っていると、女は言葉を続けた。
「あなたの言葉は、夢の中で聞いてるみたいに心地良くて、いつも現実を忘れさせてくれた」
「……うん」
「だけど今、あなたの言葉が全部嘘に聞こえるの」
男はまだ、理解出来ていない。
「どうしたの?」
「今日で会うのは最後にしましょう」
「なんで?」
「そんな質問をしてくることにすごくイライラする」
いつも穏やかな女が、分かりやすく敵意を剥き出しにしてくる。
「急になんだよ?」
釣られるように男の口調も荒くなる。
「私はキープなの?」
怒りの原因はとても単純だった。
「もしかして彼女と別れないから怒ってるの?」
「自分で考えなよ」
「そのうち、ちゃんと別れるよ。だから最後なんて言わないで、また会おうよ」
自分でも陳腐な言葉だと思っていた。だけど、これ以外に相応しい言葉が思い浮かばなかった。
女の顔が悲しみに変わっていく。
「あなたといる時だけが私の幸せだった。あなたといられるだけでいいと思った。私は嫌われるのが怖くて、捨てられるのが怖くて、彼女と別れてほしいなんて言えなかったけど、あなたに会えばそんなことさえ忘れさせてくれた。でも、あなたに会う度に怖さが増していくの。あなたといる時でさえも、あなたの彼女が頭をよぎるようになった。あなたに会っても幸せなのか分からなくなった。あのね、長い間電車に揺られているとね、涙が止まらなくなるの。あなたは本当の居場所に帰るのに、私はいったいどこに帰っているんだろうって」
男は、彼女と別れる必要はないと思っていた。
女といる時、男は彼女の存在を忘れていたし、彼女といる時でさえも男の中に彼女の存在は無かった。
女の存在が男の全てだった。
それは伝わっているものだと思っていた。勝手に。
「じゃあ別れるよ。望むんだったら今すぐにでも」
「大丈夫だよ。あなたといると辛いの」
引き止める方法が分からなかった。
「本当に最後なの?」
女は力なく首を縦に振る。深く。地面を向いたまま、顔を上げようとしなかった。肩が僅かに震えていた。涙が頬を伝っていくのが見えた。そのまま、ゆっくり後ろを振り向き、改札口へ歩き始めた。
追いかけるべきだと思った。
だけど、その資格は無いと思った。
去って行く女の背中がどんどん小さくなる。呼吸が思うように出来なくて苦しくなった。いつものようにこちらを振り向き、手を振ることもなく。改札をくぐっていく。人混みが女を飲み込んでいく。僕らの関係はこんなにもあっさりと終わるのだろうか。
思い出が、走馬灯のように頭の中を流れていた。

男と女はバイト先で出会った。まだ学生だった女は就職先も決まり、それまでの間、バイトでお金を貯めて新しい生活に必要な物を買おうと考えていた。
仕事中や休憩中に、よく他愛もない話をした。就職先は東京から遠く離れた田舎の町にあるから心配だという話。映画の話や漫画の話。男が勧める作品を実際に借りたり、買ったりして、その都度感想を聞かせてくれた。
数日後、引っ越しをするから最後にご飯でも行きましょうとなるのも自然の流れだった。
彼女にはバイト先の人とご飯を食べに行くと言った。
その時はまだ、それだけの感情しかなかった。
中華屋で餃子を食べ、カフェでお茶を飲み、数時間後にはお互いの家に帰った。
部屋に着くと、無性に女に会いたいと感じていた。もっと深く知りたいと思っていた。ただ一時的なものかもしれない、と無理矢理その感情を抑えつけようとした。感情は激しく揺れていた。それでも少しずつ、おさまっていき、その揺らぎの隙間から、彼女の顔が見えた気がした。男は、彼女を失いたくないと思った。
それ以降、男から女に連絡することはなかった。
いつもと変わらない平凡な日々に戻った。
数ヶ月後、女から連絡がくるまでは。
『お久しぶりです。お元気ですか?私はこの町を好きになれそうにないです。ただ空が青いだけの、退屈な町です。またご飯でも行きませんか?』
女に会うことを、彼女には言わなかった。
久しぶりに会う女は何も変わっていなかった。お互いが惹かれ合っていることを、お互いがもう気付いていた。
深い関係になるのに時間はかからなかった。
東京に戻ってあなたと一緒に暮らすのが私の夢なの。今の仕事を辞めて東京で新しい仕事を見つけるのは大変かもしれないけど、たぶんどんなことでも我慢出来ると思うんだ。
女は笑顔でよくこの話をした。
男もその未来を望んだ。
男は料理をするのが得意だから、毎日料理を作る。だからそれ以外の家事は全部やってほしいと言うと、拗ねたように笑った。
じゃあその未来をいつ実現させるかなんて男の口から出ることもなく、長い月日が経ってしまった。現実的な問題を解決していく強さが男にはなかった。

人混みの中へ、女の背中は消えていった。
その後、男はどのようにして自分の家に帰ったのかもおぼろげで、鍵を差し込み、扉を開けた時にようやく、家に着いたのだと気が付いた。
彼女は布団の中でまだ眠っている。
同棲を始めてから数年が経つ。別れるのは簡単ではなかった。
洗濯機の奥の方に服を隠すように押し込んで、浴室へ向かう。
シャワーを浴びながら、身体から女の香りが徐々に消えていくのを悲しいと思った。
ドライヤーの音で彼女がようやく目を覚ます。
「今日は帰りが遅かったね」
眠そうな顔で無邪気に笑っている。
「シフトのことでバイトリーダーと話してたら遅くなっちゃたよ」
「お疲れさま。今日もよく頑張りました」
頼むから優しくしないでくれと男は思っている。
「先週入ったばっかの学生が急に辞めちゃったから組んでたシフトがぐちゃぐちゃになって大変らしいんだ」
嘘が見破られないように慎重に言葉を選んでいた。
「そっかじゃあまた代わりに出させられちゃうね」

朝。

男の人生から女は去って行った。忘れなければならない、と自分に言い聞かせる。布団をめくり、彼女に覆い被さり、優しく抱き締めると、温もりが身体全体に広がった。男はこの温もりを冷たいと思った。いっそ手放してしまいたいと思った。だけど、この人さえも失えば、自分はどうなってしまうのだろうか。男にも、居場所がなかった。時間が忘れさせてくれるのだろか。時間が解決してくれるのだろうか。昔のように、ただ彼女を一途に思っていた人間に、戻れるだろうか。
……戻るしか、ないのだ。君に出会わなければよかった、と男は思った。だけど、今、誰よりも君に会いたいと思っていた。

携帯が揺れる。
真っ黒だった携帯のロック画面が明るくなっている。
『家に着いたよ。今日で最後って言ったけど、もう一度だけあなたに会いたい。次を最後にしてもいいですか?』

雲が流れていく。効きすぎた暖房のせいで、電車の中は蒸し暑いと感じるほどだった。車窓から見える空は徐々に青さを増して行く。
あと数駅。
男は電車に揺られていた。





(4)

付き合って二年半か三年経った頃、突然、夕ご飯にトマトかブロッコリーが出るようになった。どちらも出ない日もあれば、両方出る日もあった。大きなトマトは食べやすい大きさに切り塩を振って、ミニトマトはヘタを取り、ブロッコリーは茹でてマヨネーズをかけたものが出た。
彼女が見ていない一瞬のうちに、自分が食べなければならない量を一気に口へ放り込む。食べてないフリをしながら、突然消えてしまったと言うのが、野菜嫌いな僕のささやかな抵抗だった。

二人とも食べることが好きだった。思い返すと、いつも食べ物の話をしていた。美味しいものを食べるために結成されたチームだと言うのが僕の口癖になるほど。二回り以上も大きい冷蔵庫に買い替えてしまうほど。
彼女は美味しいものを食べる時、本当に美味しそうに、幸せそうな表情で食べる。僕はそれを見るのが幸せだった。
僕の食への関心は、母からの影響が強かったと思う。母は昔から料理が上手かったし、それだけではなく、バランスや栄養面も考え、食材にもこだわる。そして、誰かに手料理を振る舞うことが大好きだった。僕はたまに母が住んでいるマンションに彼女を連れて行き、三人で母の手料理を食べた。
「私、あの子は今までで一番好きだわ。あんなに美味しそうに食べてくれるなんて。正直言って、前に付き合ってた子はあんまり好きじゃなかったけど」
彼女がトイレに行った時に、母が小さな声で僕に言った。僕は頷きながら、やはり僕は母の子供なんだと実感していた。

母の影響を受け、僕も小さい頃から料理をするのが得意だった。料理をすること自体は好きではなかったけど、彼女と出会ってから、料理をするのが好きになった。
でも、母とは違い、栄養のバランスの事まで考えたことはなかった。お店で食べる時でもスーパーで買う時でもどちらかが料理をする時でも、食べたい物だけを食べていた。もしかしたら、突然夕ご飯にトマトかブロッコリーが出るようになったのは、その穴埋だったのかもしれない。
確か、その頃からだったと思う。彼女が将来についての話をするようになったのは。
将来、病気にならないように野菜はしっかり食べた方がいいと言うようになった。僕に夜勤の仕事は辞めた方がいいと何度も説得するようになり、給料が減ってもなんとも思わないと言った。煙草を辞めろとは言わないけど、本数を減らしてと何度も言われた。いつか犬が飼えるような家に住みたいと何度も言われた。性行為の最中、このまま私の中に出して欲しいとも。
将来の事はどう考えてる?が彼女の口癖になった。
僕は言葉にしてちゃんと伝えるべきだった。二人の将来のことを、僕はどれだけ楽しみにしながら生きているのかを。それを想像しながら、日々を過ごしているということを。僕は伝えるべきだった。

今、あの頃とは違い、冷蔵庫の中には食材がほとんど入っていない。大量に作って冷凍しておいた餃子も、電気圧力鍋で作ったカレーも、いつも用意しておいた二人分の食後のデザートも。今はもう何もない。入れる意味もない。
たくさん食材を入れられるようにと、彼女が選んだ少し大きめの冷蔵庫には、今まで食べて美味しかった物のパッケージや、思い出のある食べ物を包んでいた紙、その中に入っていた調理方法の紙や、いつかは行ってみたいお店のチラシなどが磁石でたくさん貼ってある。まるで、僕の愚かさを象徴する存在のようにたたずんでいた。

不意に、冷蔵庫からぶーん、と音がした。庫内の温度でも調整しているのだろうか。それとも、もっと食材を入れなければならないという警告だろうか。
そういえば、この頃まともな食事なんてしていない。体重もずいぶん落ちてしまった。今日は久しぶりに料理でもしてみようか。少し高いお肉でも買って。乗り気ではないけれど、野菜も買って。
僕は服を着替え、玄関の鍵を開けた。外は気持ちの良い青空だった。鍵を閉めようとした時、手が止まる。数週間前、部屋の鍵を開けたままにして過ごしていた時のことを思い出している。夢の中で彼女が帰ると言っていたことを思い出している。
僕は鍵を閉めるのをやめ、階段を降りて、そのままスーパーへ歩き出した。また今日から、部屋の鍵を開けたまま過ごしてみようと思っていた。
たとえあの時見た夢に意味がなくても、今はそうしたいと思っていた。





『二十七歳の女』

(1)

目の前の男は、私と別れようとしている。別に止めようとも思わないし、私はそれならそれでいいと思っている。この先、この男のことを思い出すこともないだろうし、引きずることもない。
付き合ってから一年が経とうとしていた。

仕事が終わり、携帯を見るとメールが着ていた。
『仕事が終わった後、話があるから会える?駅のすぐ近くの喫茶店とかどうかな』
メールと一緒に送られてきた住所の喫茶店に着いた時、私はもう何が起こるか理解していた。駅を出て小さな交差点を渡った所にあるそのお店は、薄汚れた壁を数本のツタが這っている。意図してそうなったわけではなく、ただ手入れを怠っただけのように。隣のラーメン屋からは、生暖かい風と一緒に不快な匂いが流れ込み、より不快な場所に思わせる。
ここに着くまでの間、私はプロポーズをされると思っていた。私はもう二十七歳だ。
だけど、この店はそういうことをするような場所ではない。ただ時間を潰すためだけに入るような、大切な人を失望させるために入るような、そんな場所だと思った。
水分のないひび割れた木の取っ手を押して店内に入ると、奥の席に彼が座っていた。周りを背の高い植物が囲っている席。暗い話か、人に聞かれたくない話をする時に選ぶような席。彼は私の方を見ようともしない。私はゆっくりと近付き、静かに席に座る。彼はずっと下を見ている。ほとんど飲み干したコーヒーカップの取っ手に指をかけながら、一度も目を合わせようとしない。私は苛立ちを覚える。最後の最後に時間を無駄にしたくないと思っている。
私の口が開く。
「別れたいんでしょ?」
「……まあ、そんな感じなのかな」
煮え切らない返事が私をより苛つかせる。
店員のおばさんは注文を取りに来ない。たぶんわざとそうしている。私達の空気がそうさせている。でも、その方がいい。今は何も飲む気になれないし、早く終わらせて家に帰りたかった。
「分かった。今までお世話になりました。じゃあ帰るね」
私は立ち上がり、出口に向かおうとする。
「……え?」
彼がようやく顔を上げる。少し驚いたような表情をして。少し悔しそうな表情をして。
彼が何かを言いかけていたような気がしたけれど、私の自然と出た笑顔を見てやめたようだった。
店員のおばさんと目が合う。不安そうな顔をしていたおばさんも私の笑顔を見て、自然と笑顔になる。注文を取りに来ないのが正解だったと安堵するみたいに。
隣のラーメン屋から流れてくる匂いはさっきよりも薄まっている気がした。
駅に向かって歩き出す。早く家に帰って眠りたかった。

彼と付き合ったのは、将来何不自由なく暮らせると思えたからだった。年齢的に考えて、私は恋愛感情ではなく、経済力を優先した。彼は最後の人だと思っていたし、自分にもそう言い聞かせていた。大人の恋愛とはこういうものだと思うようにしていた。だけど違ったようだ。
この一年間、言い争うこともなかったし、喧嘩をしたこともない。たぶんそれは、彼に関心がなかっただけなのかもしれない。言いたいことや文句は多少あったが、それをぶつけるほどの情熱はなかった。いつかそういう関係性になればいいと思っていたが、一年経ってもそうなる事はなかった。一年かけ、今、改めて気付いていた。彼のことを一度も愛したことなどなかったということを。
私は清々しく感じている、今後の人生設計が一瞬で崩れてしまったにもかかわらず。今夜の涼しい風が、よりそうさせているのかもしれない。

改札をくぐり、電車に乗ると、車内はいつもより人が少なかった。

同棲もしていないし、貸してる物や借りている物もない。電車に揺られながら、何も気にせず別々の道に進めることに安堵していた。
私は何年も前に付き合っていた人と同棲した時のことを思い出していた。結局別れてしまったけれど、別れる時は本当に大変だった。同棲を解消するというのは時間も精神力も想像以上に削られる。お互いが納得していたとしてもそうなると思う。でもあの時はそうではなかったから、本当に辛かった。だから私は、あの時、今後付き合う人とは同棲をしないようにしようと決意した。





(2)

数年前、私がまだ二十二歳だった時に別れた人。その人とは、三年半付き合い、三年同棲していた。そんな相手に別れを告げたのは、私からだった。
彼に理由を聞かれ、色々な理由をぶつけても、彼は納得してくれなかった。別れを切り出すためにその場で無理矢理考えた理由だということを、彼は見透かしていた。
本当の理由。私はそれをちゃんと言わなければならないのに、そうしなければ彼が納得しないことも分かっていたのに。でも、言うことが出来なかった。私にもそれがわからなかったから。

でも、今ならわかる気がする。

あの時、私はまだ若くて、ちゃんと恋愛をしたのは彼が初めてだった。付き合っていく中で、年々、愛情が薄れていくのが怖かった。愛情ではなく、友達のような、家族のような存在にしか思えなくなっていくのが恐ろしかった。それが普通のことであるというのも、あの時は知らなかった。

だけど、あの時、私が薄れていくのが恐ろしいと思っていたものはきっと愛情なんかではなかった。

彼と付き合う前、まだ私達が出会ったばかりの頃、私が一瞬で一目惚れした彼には彼女がいた。私よりもずっと可愛いくて、お洒落で、スタイルの良い彼女が。私は自分でも信じられないくらい嫉妬し、どんな手を使ってでも彼を奪おうと思った。そして、その時私の中で生まれた、自分の意思ではどうすることも出来ない激しく醜く歪んだものこそが愛情なんだと思っていた。その感情をいつまでも自分の中に保たなければいけないと思っていた。
彼女から彼を奪った後も、その女性の影を探し続けた。彼の部屋の隅々、彼の言動、全てから。見つけては嫉妬し、彼にぶつけ、私は悦に入り、自分自身の内側にある、彼への愛情を感じ、満足した。
そういった日々が続いて、数年が経ち、ある日気が付く。彼はもう彼女のことなど考えてなどいない、私のことだけを見てくれていると。しかしそれは、私の中の醜く歪んだものが、彼への愛情が、なくなってしうことを意味していた。穏やかな日々が、私の心を揺らがせていった。私の中に、再び彼への愛情を生み出そうと思った。
私はネットで彼女のことを調べ、その時出てきた彼女の写真を何枚も、何枚も保存した。なるべく可愛く写っている写真を何枚も。その写真を彼に見せ、彼がまた彼女に興味を示すようになればいいと思った。彼はひどく嫌がっていたけれど、私はその状況を見ながら、心が落ち着いていくのを感じた。
私は、彼女の写真を見ながら、彼女のようになりたいと思った。彼女の化粧や服装を真似して、彼女になろうと思った。そうすれば、彼が私を大切にする行為は、彼女を大切にすることにもなるから。それは、私が再び彼を愛することになるから。
そして、私は疲れてしまった。ある日、急に。
私は一生懸命、彼女のことを考えないようにしようとした。
彼との将来のことを考え、穏やかな日々を楽しもうとした。結婚して子供を産んで、犬を飼って、毎日美味しい物を食べたらどんなに幸せだろうかと考えるようにした。私達の子供はきっと可愛いんだと考えるようにした。
でも、彼と彼女の子供だったら、もっと可愛いんだろうなという考えが頭の中をよぎる。
私の頭の中は限界だった。私は、本当に疲れてしまった。

三年半もの間、私は彼ではなく、彼女のことばかり見ていた。それは彼女が私に与えた罰のように思えた。決して私が幸せにならないように。私の近くにいつも存在し、ささやくように、許さない、と言っているような気がしていた。

私は一人になりたいと思った。

何日もかけ、何度も話し合い、喧嘩をして、私は無理矢理家を出ていった。
あれからいくつか恋愛をして、今になって思う。私はあの時、本当に愛されていたんだと。彼が私にいつも与えてくれたものが愛情だったのだと。

あの人は今どうしているんだろうか。あれから五年も経ってしまった。もう彼は三十七歳になっている。今頃、誰かと幸せに暮らしているのだろうか。まだあの部屋に住んでいるのだろうか。
この電車で、十五分も揺られていれば着いてしまう。
すぐにでも会いに行ける距離だった。






『二十九歳の男』

(1)

数ヶ月前、彼女から同棲はしたくないと言われた。
それが一番の原因だったかはもう覚えてはいないが、今このような状況になってしまった大きな要因の一つではあるのかもしれない。
付き合ってから一年が経とうとしていた。
店員のおばさんが、数分前に注文したコーヒーをこちらに運んでくる。
早く、今日が終わればいいと思っていた。





(2)

男は、自分以外の人間を見下す癖があった。それは学生時代、男が勝手に感じていた劣等感から生まれたものだった。
男はいつも一人で教室の隅にいた。勉強以外は何も出来ない自分を、周囲の人間は笑っているような気がした。しかし、それはほとんど男の妄想で、実際は誰もその男に興味などなかった。男は成長するにつれて、次第にそのことに気付いていく。それが余計に許せなかった。
見返す方法が分からず、闇雲に勉強した。誰もが知っている国立大学に合格し、勉強もせず遊んでいた周りの人間が、まともではない大学に行くことを心の中で嘲笑した。
大学でも勉強に励んだ。周りの人間の多くが、大学合格がゴールであったかのように生きているのを横目にしながら。いつか訪れるであろう日を待ち侘びた。また心の中でその人間達を嘲笑する日を。
だが、就職活動を始めた頃、男の計画が崩れた。何十社受けても内定がもらえない。倍率の高い会社は勿論、内定してしまったらどうやって断ろう、と思っていた会社にすらも。
それから何社も、何十社も受け、落ち続ける。書類選考を通過する確率は周りと比べても高かった。しかし、面接では全く手応えがなかった。人と話すことに慣れていなさすぎたのだ。集団面接は特に最悪だった。面接官は、自分よりも劣っているはずの人間にばかり興味を示す。
自分は笑われていないだろうか?それとも自分の存在なんて認識すらされていないのではないか?あの頃のように。
男は超一流企業だけを受けることにした。自分の存在証明のためだけに。
勿論、落ち続けた。周りの人間が徐々に内定をもらい浮かれているのを、妥協した結果だと、馬鹿にしながら。そして、数ヶ月経った頃、ようやく一社だけ内定を貰えた会社があった。男が受けた一流企業の中でもより一流と言われていた会社から。男は混乱していた。手応えもなく、受けたことさえ忘れかけていた。

のちに、面接官を担当していた上司に言われた。
「一番野心のある目をしていたよ。うちの会社はそれを一番重視しているからね。最近は、見た目だけ子綺麗にして、気持ちの良い返事をして、饒舌に受け応えをする子が本当に多いんだよ。まあ、君はまったく出来ていなかったけど」
上司が笑う。
「でも、我々はそんなもの判断基準に入れていない。この会社に入ればそれは勝手に身に付くし、嫌でも身に付けようとするから。それくらいじゃなきゃこの会社で居場所なんて与えられない。与えられなかった人間はそのうち辞めていく、自らの意志でね。大事なのはその目だよ。その目。忘れないでね」
その瞬間、ようやく男は過去に自分を相手にしなかった人間を抜き、一番上に辿り着いた。
上司が言うように、社会人に必要なスキルは勝手に身に付いた。あくまでもその男にとっては。
勉強をするのと似ていた。今自分に足りてない部分はどこなのかを分析し、そこを伸ばせばよかった。挨拶の声が小さいと言われたら声を大きくし、暗そうに見えると言われたら、爽やかな髪型にした。分からない事があればすぐに聞き、自分に出来なくて他の人間に出来る事を徹底的になくした。仕事に関する書籍を読み漁り、そこから得た知識を元に、社内の改善点や不満点を提言した。たとえ上司であっても臆することはなく。男の考えに間違いがある時も、上司はそれを嬉しそうに聞いていた。そして、男は同期の誰よりも早く出世した。男は自信に満ち溢れていた。彼女に会ったのもその頃だった。
先輩が開いてくれた食事会に無理やり誘われ、仕方なく行くことにした。立ち飲み居酒屋に、男女を合わせて二十人位はいたが、途中から周りの客も一緒になって飲んだため、誰が誰を呼んで、誰が誰の知り合いなのかも全く分からないような状況になっていた。彼女はその中の一人だった。色が白く、可愛くもあり、美しくもあった。男は一目見て夢中になっていた。
つまらなそうに飲んでいた彼女に、女性に慣れていないはずの男は、お酒の力と会社で身に付けた自信から、すんなりと声をかけることが出来た。連絡先を聞き、何度か食事に行き、気が付けば付き合っていた。
女を落とすのはこんなにも簡単なことだったのかと、心の中で笑っていた。





(3)

コーヒーをかき混ぜる。熱すぎるコーヒーを冷まそうとする。異常に渇いた喉が水分を欲していた。

付き合いたての頃、三年半付き合って、三年同棲した彼氏がいたと聞いたことがあった。その時、僕の中に小さな怒りと、例えようのない心地悪さを感じ、それ以上深く聞く事はしなかった。
その心地悪さは僕が初めて感じたもので、正体が分からなかった。それは、僕の恋愛経験の少なさが原因かもしれない。僕は昔からモテるタイプの人間ではなかった。勉強ばかりしていたので、初めて付き合ったのも大学生になってからだった。その時の彼女は地味だったし、顔もそれほど可愛くはなかった。次第に興味が薄れ、連絡することもさえもめんどくさくなり、半年後には自然消滅していた。それ以降も、まともに付き合ったといえる人はほとんどいない。本音で語り合い、心の奥深くから繋がるというような、そういう経験をしたことがない。僕は未だに、恋人という人間との接し方がよく分からない。今の彼女ともまだ上手く距離感がつかめていなかった。
周りから見れば普通の恋人同士のように見えているかもしれない。お互いが休みの日にはデートをするし、旅行に行ったこともある。だけど、僕達には決定的な何かが欠けているような気がした。彼女が心の底から笑っている顔や、楽しんでいる姿を見たことがなかった。デートや旅行に誘うのもいつも僕の方からだった。彼女の根底には、僕への愛など無いのではないだろうか。
数ヶ月前、思い切って同棲してみないかと聞いた時、あっさりと断られた。将来の事は意識しているけど、同棲するにはまだ早いような気がすると。
その時、付き合いたての頃に聞くのをやめてしまった、男の話を改めて聞いた。
夜勤のアルバイトをしていた十歳も上の男と三年間も同棲していたという話。
僕の中でまたあの時の心地悪さが生まれる。
避妊もせずに性行為をしていたという話。僕には一度も許された事はなかった。
何も生み出さず、何も苦労せず、気楽に生きていたような人間が彼女を三年半も好きなように扱っていたのだ。
例えようのない心地悪さ。それは敗北感と異常な嫉妬から出来上がっていたのだと気付いた。僕はこの感情を彼女に悟られないようにした。そうしなければ、まるで僕だけが一方的に愛してるみたいだから。

コーヒーを飲み終える。
もう少しで集合時間になろうとしていた。

実は、この数ヶ月間、僕は彼女に隠していた事があった。
彼女からその男の話を聞いた後、彼女と出会った時のような店に何度か行き、同じように女性に何度も声をかけ、浮気相手を作った。僕自身も彼女と同レベルの汚れた人間になりたかった。そうしなければフェアではないから。
浮気相手は、顔の偏差値は彼女より低いが、それ以外はとても魅力的だった。年齢も二十四歳と、彼女よりも少し若い。僕のことがとても好きだし、僕の言ったことを何でも受け入れる。良く言えば、一途な女。悪い言い方をすれば、依存しやすく、頭の弱い女だった。
そしていつしか、彼女と同じような存在にまでなっていた。結婚するならどちらが良いだろうかと考えるほど。
可愛いが、汚れた過去を持つ彼女。顔は普通だが、僕の思い通りになる浮気相手。

今日それを決めようと思っていた。

彼女に浮気相手の話をすれば、どうなるだろうか。彼女はもう二十七歳だ。後がない。僕に選択肢が二つもあると知ったら、どれほど必死になるだろうか。過去の汚れを反省し、同棲してくれと頼み込んでくるかもしれない。僕に泣いてすがってくるかもしれない。そうなれば、彼女と結婚するのを考えてみてもいいだろう。

おもむろに上着のポケットへ手を入れる。数ヶ月前から入れたままの婚約指輪を手で転がした。
彼女から男の話を聞く前に買ってしまったその指輪は、普通のサラリーマンでは簡単に買えないような金額がする。僕がせっかく用意した指輪は、彼女のせいで何ヶ月も行き場を失っていた。ずっとどちらに指輪を渡そうか迷っていた。今日それを決めようと思っていた。

心を入れ替え従順になった彼女にこの指輪は相応しいのかを考えている。汚れた過去を持つ彼女にこの指輪は相応しいのかを考えている。

彼女が来たら、まずは別れ話でもしてみよう。暗い顔でもしながら。思いつめた顔でもしながら。その後ゆっくり話をして、僕の思い通りの女に修正していけばいい。僕はどんな手を使っても手に入れる。最後に笑うのはこの僕だ。
そして今日で終わらせよう。この頭の中を埋め尽くしている心地悪さを。





『二十四歳の女』

(1)

数時間前に貰った婚約指輪がまだ手に馴染まない。
私は、人生で初めて指輪を貰い、人生で初めて指輪を付けている。なんだか落ち着かない。私が動く度に、指輪も指の間を行き来する。こんなにも大切な物が、こんなにも簡単になくなりそうだなんて。何かの拍子で落としてしまわないだろうか。彼には、サイズが合わなければ交換してもらえると言われたけれど、私はそのつもりはなかった。彼が私のために一生懸命探し、選んだ物がこの指輪だったのだから。これから馴染むのだろうか。そうなればいいなと思っている。
本当はプロポーズされるなんて思ってなかった。されるとしても、もっともっと先だと思っていた。私はまだ二十四歳だし、まだ付き合って半年しか経っていない。結婚するには少しだけ早いような気がしていた。お互いのことをもっとちゃんと知ったうえでするべきだと思っていた。でも、知らないままの方がいいのかもしれない。彼が言うように、来月から同棲してみるのもいいのかもしれない。このまま何も言わず、当たり前みたい結婚して、楽しく生きていくのもいいのかもしれない。
そしたら私は幸せになれるだろうか?幸せになってもいいのだろうか?自問自答している。本当は幸せになりたいくせに。
私は昔から、幸せを目の前にすると逃げ出したくなる癖があった。物心ついた時からこうだった。私は幸せになるのに抵抗がある。抵抗というよりも、怖さのような、おこがましさのような、戸惑いが。自分にその価値があるのかと考えてしまう。
そういう時、ふと思い出す。あの夜のことを。あの人のことを。今日みたいに涼しくて、綺麗な夜空の日に会った、あの人のことを。

彼氏にプロポーズされた夜。私は、違う男の人のことを考えている。恋愛感情とか、そういうものではなく。だけど、もしかしたらそれ以上の存在なのかもしれないと思っている。たった一度しか会ったことがない人の事を。

あの人に会ったのは、私が十九歳になったばかりの時だった。




(2)

ドライバーが車を停め、少し遠くにある小さな白いマンションを指差す。
「見えますか?あの白い建物。あそこの201号室です。オートロックとかは無いのでそのまま部屋に行ってチャイム鳴らして大丈夫です」
薄汚い服装の中年男性が言う。煙草を吸いながら。面倒臭そうに。
「分かりました」
男は、車から降りようとする私をルームミラー越しにじっと見ていた。気味の悪い笑みを浮かべながら。数ヶ月前まで高校生だった私が、これから何をするか想像しているみたいに。
急いで車から降り、マンションの入り口まで向かった。急ぐ必要はないのに私は走っていた。後ろの方で送迎の車が走り出し、遠ざかる音が聞こえる。全身に鳥肌が立っていた。足を止め、呼吸を整える。気持ちを落ち着かせようとする。なるべく楽しいことを想像しようとした。今日仕事が終わったら何を食べようか。コンビニで何かスイーツでも買って帰ろうか。仕事の前は必ず、楽しい気分で、明るい自分を作りあげておきたかった。私は今から、さっきの男よりももっと気持ち悪い人間を相手にするかもしれないから。
もう一度深く深呼吸をし、自分を落ち着かせた。そして、再び歩き始める。
マンションは三階建てで、まるで大きな一軒家のようにも見えた。周りを見渡してみると、背の高い建物がほとんど無かった。静かな住宅街だ。この仕事を始めてからいくつもの街へ行ったが、今のところこの街が一番好きかもしれない。理由は説明しにくいけれど、なぜか居心地良く感じている。私は将来、こんな街に暮らしたいと思っていた。
時計を確認すると、もうそろそろ仕事の時刻になるところだった。
少し急な階段を登る。登りきると、すぐ左に黒くて大きな扉があり、『201』と書いてあった。チャイムのボタンに指を近づける。緊張している。この瞬間はいつもそうだった。どんな人が待っているのだろうか。
チャイムを鳴らすと、数秒後にゆっくりドアが開いた。立っていたのは、顔の整った若そうな男の人だった。わざわざお金を払ってこんなことをしなくても、この人にはいくらでも女性が群がってくると思えるほど。誰が見てもそう考えると思えるほど。
私は思いがけず高揚感を感じていたが、同時に違和感も感じた。いつもなら、扉が開くと、どの客も必ず最初に私の顔を見るが、この人は見ようとしなかった。緊張しているのかもしれないと思ったけど、そんな風にも見えない。ただこの人は、寂しそうな表情をしていた。
「今日はよろしくお願いします」
私は恐る恐る声をかけた。
「よろしくお願いします」
その人の声は、小さくて、優しそうだった。
靴を脱ぎ、部屋に上がる。
「じゃあ早速なんですけど、一緒にお風呂入りましょっか」
「いや、お風呂は入らなくても大丈夫ですよ」
男が不安そうに答える。男はまだ一度も私の顔を見ていない。
「一応決まりなので……」
この人は一体何を考えているのだろう。
「今日呼んだのは、ただ、僕が眠るまで隣にいてほしくて……」
思わず心臓が締め付けられる。あまりにも寂しそうな声をしていたから。
「……じゃあお風呂はやめときますね」
「ありがとうございます」
男が申し訳なさそうに言う。
「じゃあどうしましょっか?」
「布団入りましょう」
私は緊張していた。本当に好きな人と初めて布団に入る時のように。
男が布団に寝転び、右端による。
「私はどんな体勢になったらいいですか?」
「僕の隣で一緒に横になってください」
「分かりました」
私は左端に寝転ぶ。鼓動が速くなっていくのを感じている。
「一時間半で頼んであるけど、僕はそのうち眠ってしまうと思うから、そしたら好きな時に帰って大丈夫ですよ。終わりの時間にならなくても、なってからでも。お金は机の上に置いてあるので」
そう言って指を指す。大きめな机の上には一万円札が二枚置いてあった。
「……分かりました」
私はちゃんと理解出来ていない状態のまま返事をした。本当に、眠るだけのために二万円も払うのだろうか。
「じゃあ電気消しますね」
「はい」
電気が消えると、あっという間に音がなくなった。外から聞こえる音も全くない。本当に静かな街だった。部屋の中だと特に。
「あっ、帰る時、鍵は開けたままで大丈夫なので」
男が思い出したように言う。
「開けたままですか?危なくないですか?」
「別に大丈夫ですよ。入ってくる人なんていないですから」
本当は誰かが入ってくるのを望んでいるように聞こえた。
「分かりました」
暗い部屋の中に、二人の呼吸音だけが聞こえた。私が息を吸い終わる時に、男が息を吐き終わる。バラバラな呼吸音が、部屋の中で不自然なほど響いている。私の鼓動はさっきよりも早く、大きくなっている。男もそれに気付いているかもしれない。私が息を吸い終る時に、男が息を吸い始める。少しずつ、二人の呼吸音が近付いていく。部屋中にその音が響いている。さっきよりも大きく。不自然なほど。男は今何を考えているだろうか。少しずつ、また音が近づいていく。もう少しで音が重なってしまう。なぜか私は重なってしまうのを恥ずかしいと思っている。
「あの……」
不意に男が喋る。ずっと我慢していた言葉を話そうとする時のように。
「は、はい、どうしました?」
言葉が思うように出なかった。異常なまでの動悸を感じていた。
「……手を握ってもいいですか?」
本当に寂しそうな声で喋る。
「いいですよ」
私もそうしたいと思った。
お互いが同時に手を動かし、なぜか当たり前のように手を繋いだ。何年も連れ添った男女が毎晩そうしているように、本当に自然に。
「あの……」
「どうしました?」
「会った時から気になってたんですけど、この腕の傷って……」
男が、手を握ってない方の手で私の腕を触る。手首から腕の中心にかけて何本もある自傷行為の後を。それほど深いものではないが、他人を混乱させるには十分なほどの傷だった。
「これですか。理由はよく分からないんですけど、ついしてしまうんです。これをすると落ち着くというか……」
そう言いながら、私も自分の腕を触る。私の腕を優しく撫でる男の温かい指と重なり、彼を愛おしいと感じた。
「いつからしてるんですか?」
「確か高校生の時からです」
「この仕事を始めた時?」
「違います。この仕事を始めたのは高校を卒業してからなので」
「そっか……」
「でも、身体を売るのは高校生の頃からしてました。ネットで探せばいくらでもいたんです。そういう大人って。だけど、何度か嫌な目に遭って、辞めました。その頃からだったと思います。自傷行為をするようになったのは」
私はこんな話なんてしない方がいいと思っている。でも、男に聞いてもらいたいと思っていた。
「嫌な目って?」
男が心配そうに聞く。
「指定されたホテルの部屋に行って、私が服を脱いでる時に男の人が何人も部屋に入って来て、急に目隠しをされました。声を出そうとしても口を塞がれて、その後、無理やり何時間も……。もちろんお金も貰えなかったし、その後も、写真や動画をばら撒かれたくなかったら今から来いと呼ばれて何度も行きました。毎回何人もいて、毎回違う人でした。呼ばれる回数がどんどん多くなっていって、私は本当に限界になったんです。気が付いたら家の近くの交番の前にいて、男に電話をかけていました。私からかけたことはなかったから、男は驚いていて、不安そうに何度もどうしたの?って聞いてきました。私が、今から交番に行って全部話すと言ったら、何度も謝ってきました。実は写真も動画も撮ってなかったから安心してくれって、何度も何度も謝ってきました。私はすぐに電話を切りました。その後、その男から連絡がくることはありませんでした。結局、交番にも行きませんでした。恥ずかしかったし、私も捕まりたくなかったから。たった一言言っただけで、それだけで地獄は終わったんです」
私の呼吸は激しく乱れていた。
「じゃあ、なんでこの仕事をしてるの?」
男は心配そうに、だけど微かに怒りのこもった声をしている。
「お金ですよ」
「え?……お金?あんなに怖い思いをしたのに?」
男は驚いたように、本当に疑問を感じている時のように質問した。
「あの時、地獄だったのは、私が一番辛かったのはお金を貰えなかったことですよ?時間も体力も交通費も使ってお金が手に入らなかったことですよ?だから個人的にじゃなく、ちゃんと大人が管理してくれるような環境で働こうと思ったんです」
繋いでいた手につい力が入る。
「じゃあなんでリストカットなんてしてるんですか?」
男の握る力も強まる。私の手の甲に男の指が深く食い込み、痛いと感じるほど。
「……」
私は何も言い返せなかった。いつからだろう?本当はこんな仕事辞めたかった。ずっとずっと前から。でもいつからだったかは思い出せない。何でこんなに強がっているのかも分からない。
お互いの繋がれていた手の力が弱まる。
「ごめんなさい。僕はこんなことを言うために呼んだわけじゃないんです。本当にすいません」
「私の方こそすいませんでした。眠る邪魔をしてしまったかもしれないです」
どちらのか分からない汗でお互いの手はひどく濡れ、すでに冷たくなっていた。
私は必死に思い出そうとしていた。自分がこのようにしか生きられなくなってしまった原因を。それをこの男に話そうと思った。それは私の人生において、とても重要なことであると強く感じていた。
「私は物心ついた時から母と二人暮らしでした」
私は絞り出すように、思い出そうとしている。
「うん」
男も私の言葉を待つように、静かに返事をする。
「お父さんの記憶もないんです。私が本当に小さい時に離婚してしまったみたいで。今どこにいるかも分かりません。それが原因で学校ではよくからかわれました。母はいつも、私に幸せになるんだよって言っていました。素敵な人を見つけて幸せになるんだよって。私は言いませんでした。あんた達のせいで私はこんなに辛くて不幸で貧乏なんだとは。優しい母には言えませんでした」
「分かるよ」
男の声が部屋に優しく響く。
「高校二年生になった時、同じクラスの女の子から、簡単に稼げる方法があるけど一緒にやってみない、と言われたのがきっかけでした。最初は怖くて緊張したけど、本当に簡単でした。少しの間、目を瞑って我慢していれば終わったんです」
「そっか……」
男が寂しそうに返事をする。
「その時、母の言葉を思い出していました。幸せになるんだよという言葉を。初めて身体を売った直後に、ホテルのベッドの上で思い出していたんです。母が願う真逆の人間になってしまった私は、裸のままお札を握り締め、ようやく復讐を果たせたんだと高揚していたんです」
私は思い返しながら、本当に哀れな人生だったのだと感じていた。
「この先もずっと続けるんですか?」
「……わかりません。でも辞めるきっかけがあれば、たぶん……」
「きっと大切な人が悲しむし、その人から大切にしてもらえなくなるよ。今そういう人がいなくても、将来そういう人と出会った時に、きっとそうなってしまう。それはたぶん、すごく悲しいことだよ」
私を諭すように、優しい声で言う。
「こんな仕事をしてたなんて言えないです」
「でも、きっと君は誰かに話したくなる時がくるよ。それが大切な人であればあるほど。幸せになりたいと願えば願うほど、きっと」
私は、男の言うような人生になればいいと思った。私は、幸せになりたいと思った。
「もしかしたら、いつかまた呼ぶかもしれないけど、鍵はいつも開けてるのでそのまま入ってきてください」
そう言うと、男は静かに目をつむった。
きっと私はもうこの部屋に呼ばれる事はないと思いながら、それを寂しいと感じながら、彼が眠るのを見守った。

時間が少しずつ過ぎていった。男の呼吸が徐々に深く、遅くなる。その音が部屋の中に優しく響いていた。
もう少しで、本当に眠ってしまう。迎えの電話をするにはまだ早すぎる。私は、時間が許す限りここにいようと思った。

次第に、部屋の暗さに目が慣れていくと、私は、少しずつ見えていくこの部屋を不自然だと思った。一人暮らしにしては少し広すぎる。立地も良いし、きっと家賃も高い。この人はそれほどお金に余裕があるようにも見えない。
一番気になったのは、ところどころ、ぽっかりと穴が空いたような空間があることだった。本棚にも、服や雑貨を入れている透明な収納ケースの中も。引っ越してきたばかりならあり得るかもしれないけれど、きっと違う。何年も住んだような生活感がある。調味料の量も種類も。使い込んだキッチンの汚れ方も。

男は何年もここに住んでいる。たぶん一人ではなく、誰かと一緒に住んでいた。でも今は一人で、まるで、誰か一人分の存在が突然消えてしまったようなこの場所に住んでいる。そのぽっかりと空いた空間へ、何も置かないようにしていると思った。その空間には存在していないものを、この人は無理矢理存在させていると思った。またこの空間に、以前と同じ物が、同じように埋まり、怖い夢でも見ていたかのように、幸せだった日々が続くのを待ってるみたいに思えた。
きっと部屋の鍵を開けたままにして、誰かが帰って来るのを待っているような気がした。

カーテンの隙間から、ゆっくりと月明かりが差し込む。光が男の顔を照らしていく。男の顔は、微かに笑っているように見えた。とても安らかに、優しそうに。
あなたは今どんな夢を見ているの?こんなに幸せそうな顔をして。





(3)

それからしばらくして、私は仕事を辞めた。
辞めたというよりも、正確にはクビになった。あの人以外の客を全て断っていたから当たり前かもしれない。二ヶ月間待ってみたけど、あの人がお店に電話してくることはなかった。他の女の子たちに聞いても、あの人に会った子はいなかった。あの街に行った子さえもいなかった。

その後、私は普通のアルバイトをした。十代の普通の女の子がバイトをするような場所で。普通の女の子のふりをして。数年後、その職場で正社員として働かないかと言われ、私は正社員になった。腕の傷はもうほとんど消えていた。友達と行った飲み屋で今の彼と出会い、普通の恋愛をした。

あの頃の私は、自分を特別な存在だと勘違いしていた。
私と過ごすためだけに高いお金を払う男性が何人もいることで、自分は価値のある人間だと思い込んでいた。母が望むような人間にならなくても、それとは真逆の人生を歩んでも、私は幸せになるんだと思っていた。
あの夜、私はあの人に気付かされた。私は価値のない、無意味な人生を送っていたんだと。もちろんあの職業自体を馬鹿にしているわけではない。あくまでも私にとっては無駄なものだった。でも、あんな行為をしている人間の頭の中が正常ではないということも確かだと思っていた。

あの日と同じような夜に、私は、この静かな住宅街を歩いている。居心地の良い街をゆっくりと歩いている。
ここに来るのは五年ぶりだった。なぜ来てしまったのか自分でもわからなかった。でも私は、もう少しであのマンションに着こうとしている。あの人がまだあの部屋に住んでいるのかもわからないのに。
あの人は、まだ鍵を開けたままにしているだろうか。もしあの人がいたとして、私のことを覚えているだろうか。私の顔を一度も見ていないあの人は、私のことを思い出せるだろうか。
マンションにどんどん近づいていく。あの人の部屋が見えてくる。カーテンの隙間からは照明の光が漏れていた。あっという間に鼓動が激しくなる。でも、私はやめようと思わない。どうしようもなくあの人に会いたいと思っていた。
マンションの下に着き、一階にある郵便ポストを確認すると、名前はあの人のままだった。
私は階段に足をかけ、一段ずつ登っていった。あの人は今ここにいる。私は無意識に、婚約指輪を外している。私は、なぜここに来たのか、あの人とどうなりたいと思っているのかまだわからない。私の人生を変えてくれたことのお礼がしたいのかもしれない。変わった自分を見せたいのかもしれない。あるいは、あの夜触れ合ったようにまたそうしたいと思っているのかもしれない。それとも、私は、それ以上のことをしたいと思っているのだろうか。
ドアノブに手をかける。
引き返すなら今しかないと思っていた。でも、もうどうすることも出来ない。私はもうすぐ結婚するのに、あの人になら何をされてもいいと思っていた。
ドアノブをゆっくりと、ゆっくりと回す。扉を押したけれど、開くことはなかった。鍵は閉められていた。

部屋の中から、女の人の笑い声が聞こえた。明るくて優しそうな声が、この静かな街によく響いていた。あの人の笑い声も。あの人はこんなに楽しそうな声を出せるんだと思った。もしかして、女の人は、あの時待っていた人だろうか。
私はなぜか安心していた。何に対して安心しているのかはわからなかった。あの人が幸せそうなことに対してだろうか。私が道を踏み外さなかったことに対してだろうか。
私はゆっくりと階段を降りた。もうここへ来ることはないと思いながら、ポケットの中にある婚約指輪を指につけ直した。
私はいつか彼氏に、私の過去を全て話そうと思っていた。あの夜のことも。今日のことも。そうしなければ、私は幸せになる資格がないと思ったから。
結婚して、二人が落ち着いた後にでもゆっくりと話そうと思った。





『三十二歳の男』

(5)

男は、別れが来るたびに後悔していた。もっとこうしておけばよかったと。
十六歳の時、初めて付き合った人には束縛をしすぎたことを後悔した。だから、次付き合う人にはしないようにしようと誓った。
次に付き合った人には優しさと感謝の気持ちをしっかり表せていなかった。次の人には、たくさん可愛いと言えていなかった。次の人には、高価なプレゼントをあげられなかった。
束縛をせず、優しさと感謝の気持ちを表し、たくさん可愛いと言い、高価なプレゼントをたくさんあげた人には、結婚してと言えなかった。
男は努力したつもりだった。だけど、もっとこうしておけば良かったと思うことがまた増えただけだった。
男はもう決めている。次は必ず『結婚してください』と言おうと。

突然、玄関の開く音がした。
「……ただいま」
彼女が男を見て微笑んでいる。
「……おかえり」
男も思わず微笑んだ。
「帰るの少し遅かったね」
「……ちょっと寄り道してて」
「なんか久しぶりに会ったみたいだね」
「私もそんな気がする」
「あのさ……」
「うん、何?」
「……けっ、結婚しようよって曲知ってる?吉田拓郎の」
「知らないと思う」
「そっか……うん、じゃあいいや」
「変なの」
彼女が鍵を閉める。
彼女に触れようとしたけれど、男の手は小麦粉まみれだった。作りすぎた餃子が台所一面に並んでいるのを見て、彼女はまた微笑む。テーブルには、もうトマトとブロッコリーが並べてある。あとは餃子を焼くだけだった。











あとがき

クリスマスプレゼントと誕生日プレゼントには十五万円ずつ使おうと決めていた。別に高価なプレゼントが欲しいと言われた事はなかったけど、毎年必ずそうしていた。僕なりの感謝と愛情表現の証として。
あの頃、毎月の貯金とは別に、一年間で三十万円貯めるというのが僕の目標で、生き甲斐だった。一年中、今年は何をあげようかと考えながら過ごしていた。ある日、たまには文書でも書きなよと言われ、僕は次のクリスマスか誕生日には十五万円のプレゼントと一緒に小説を書いてプレゼントしようと考えた。だけど僕は、そんな大切な日にあげるような素敵な文章が思いつかなくて、結局あげることが出来なかった。だから今回書いてみることにした。クリスマスでも誕生日でもないし、明るくハッピーな話ではなくなってしまったけれど。もうその人はいなくなってしまったけれど。
今回、現在と過去と未来を何度も行き来する話を書いた。本当に何度も何度も行き来するけど、いつなのかというのは読んでいれば簡単に分かるように書いたつもりだ。
でも、ラストシーンだけはあえていつなのか分からないようにした。最後に登場する女性が誰なのか分からないようにするするために。僕の中では明確な答えがあったけど、誰にも分からないようにしたかった。それは各々で考えてくれればいい。
一つだけ確かなのは、この物語は一人だけのために書いたということだ。読まれるか、読まれないかは分からないけれど、今までの感謝の証として。メリークリスマス。ハッピーバースデー。