藤原実方さねかた(生年不詳~999)
このおじさん、清少納言と恋仲だった時期があったとか言われます。
また、「実方中将」という呼び名で古典文学にチラホラ名前が出てきます。
父親は藤原定時、母親は源雅信まさざねの娘だそうな。
実方中将は歌人として名高いおじさんです。
かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを(後拾遺集)
小倉百人一首にも選ばれているこの↑歌が有名です。
かなり技巧的な歌です。
●えやは~・・・不可能を意味する副詞「え」に反語を表す「やは」が足され、「~できようか、いやできない」の意味を作る。従って「えやは言ふ」で「言うことができようか、いやできない」の意味となる。
●いぶきのさしも草・・・同音の反復により直後の「さしも」を導く序詞。
●思ひ・・・送り仮名の「ひ」に「火」が掛けられている。そして「火」と「燃ゆる」と「さしも草」が縁語になっている。
私の心の内はこうであると、ほのめかしてさえ言うことができようか、いや、できはしない。だからあなたはそうと知らないでしょうね。あなたへの想いが伊吹山のモグサのように燃えていることを。
かっこいいんだか何だか分かりませんが、技巧的な歌です。
ただ、モグサってお灸ですから、燃え方はそんなに激しくないですね。
だから、激しい愛ではなく、心の中で密かに燃え続ける静かな想い(えやは言ふ)を表現するにはちょうど良いのかもしれません。
ちなみに『後拾遺集』では「ある女性に初めて送った歌」という詞書きがついています。
ある女性が誰のことかは不明です。
さて、先述の通り、清少納言と恋仲だったと言われています。
ですが、『枕草子』の中にはそれらしい記述が見あたりません。
「小白河殿といふ所は」や「宮の五節出ださせ給ふに」という章段に実方中将は出てくるのですが、親しい関係という感じではなく。
もちろん、その時点では親しくなかっただけかもしれませんが。
ただ、「まことにや、やがては下る」というクソほど短い章段に、実方の「かくとだに」の歌と似た清少納言の歌が載っています。
思ひだにかからぬ山のさせも草誰か伊吹の里は告げしぞ
●させも草・・・さしも草と同じでモグサのこと。伊吹山の名産。
●伊吹・・・「言ふ」が掛けられている。
●里・・・「そうであると」の意味になる「さと(然と)」が掛けられている。実方の歌と違い、「伊吹の里」と「させも草」は言葉遊びの要素が強く、実質の意味がないのは勿論のこと、比喩としての機能もない。「誰か言ふ⇒誰が言ったのですか」「さと⇒そうであると」という内容を、言葉遊びを交えて表現したに過ぎない。
このようなことになるとは思ってさえもいませんでした。そのように告げたのはどなたなのでしょうか。
間もなく地方へ下るという人に対して、清少納言が詠み送った歌なのだそうです。
一見して実方の歌に似ていると思いますが、「さし(せ)も草&伊吹」を詠み込むのはとりたてて珍しいことではなかったようで、実方の歌をなぞったと決めつけることもできません。
2人が恋仲だったことを考えると、実方の歌を下敷きにして実方に送ったとしたらロマンティックですけどね。
後述しますが、実方も地方に下っていますので、状況的にも矛盾はありません。
清少納言と贈答した和歌としては次のものがあります。
忘れずよまた忘れずよ瓦屋の下たく煙下むせびつつ
〔あなたを忘れることはありませんよ。決して忘れはしませんよ。瓦葺きの屋根の家で焚く煙にむせぶように、密かにむせび泣きながらあなたを恋しく思っているのです〕
しばらく訪問が途絶えていた頃、言い訳がましく詠み送った歌です。
これに対する清少納言の返歌です。
葦の屋の下たく煙つれなくて絶えざりけるも何によりてぞ
〔葦で葺いた粗末な小屋のもとで焚く煙は隙間から逃げてくれるからむせぶこともなく平気なわけですが、そんな風に平然としてあなたへの思いを絶やさずに過ごしてきたのはいったい何のためだったのでしょうか・・・〕
いささか難解な贈答なので、徳原茂実・(元?)武庫川女子大教授の論文を読みながら書きました。
なるほど、という感じです。
さてまた、平安時代に書かれた『俊頼髄脳』には次のような連歌が紹介されています。
[詠み人知らず]
誰ぞこのなるとのうらに音するは
[実方中将]
とまりもとむるあまの釣舟
●なると・・・「鳴る戸」と「鳴門」の掛詞。鳴る戸、とは開け閉めする際にギシギシ音が鳴る戸ということ。鳴門はもちろん地名。
●うら・・・「裏」と「浦」の掛詞。
●とまり・・・同じ「泊」の漢字だか、「港」と「泊まる所」の意味が掛かっている。
どなたですか、鳴門の浦を訪ねたのは。
― 鳴る戸の裏で声がするのはどなたですか。
港を探している漁師の釣り舟だよ。
― 泊めてくれる女性を探している私ですよ。
宮中での1シーンですが、相手の女性が誰なのか分かっていません。
最初に連歌を仕掛けた女房もなかなかの機智ですよね。
さて、この実方中将ですが、陸奥国に左遷され、そのままその地で没したと言われます。
そのいきさつは『十訓抄』によると、次のように書かれています。
殿上の間で、実方中将は当時まだ殿上人だった藤原行成と鉢合わせすると、何も言わずにいきなり行成の冠を叩き落として庭に投げ捨てた。
行成は騒ぎ立てることもなく、主殿司とのもりづかさ(宮中の掃除などを担当した身分の低い女官)に冠を拾わせてかぶり直すと、丁寧な言葉遣いでこう言った。
「これはいったい何事でしょうか。このような乱暴をされる心当たりはございません。まずは理由をお聞かせくださいませ」
行成のあまりに落ち着き払った振る舞いに、実方は戦意を喪失して逃げてしまった。
この様子をご覧になっていた天皇は、行成の振る舞いにいたく感心し、異例の特進人事で蔵人頭に引き上げなさった。
一方の実方については、中将を罷免し、「歌枕でも見て参れ」と陸奥守に任命なさり、実方はそのまま陸奥国で死んでしまった。
とのことです。
同様の話が『古事談』にも載っているとか。
『十訓抄』にせよ『古事談』にせよ、鎌倉時代の説話であり、話の細部については事実ではないかもしれません。
ただ、実方が陸奥守に任命され、その地で没したことは事実とされています。
『十訓抄』では「諸事を堪忍すべき事」という教訓譚として掲載されています。
どんなことも耐え忍ぶべきという教訓です。
耐え忍ぶ心が強かった行成は昇進し、大納言にまでなっています。
一方、短気を起こした実方は陸奥国に飛ばされ、帰郷することなく死んでしまいます。
先述の通り、短気を起こしたせいで左遷されたというのが史実かどうかは怪しいですが。
耐え忍ぶ心が強かった行成。
確かに、いきなり被っているものを叩き落とされて投げ捨てられたら怒りますよね。
ただし!
これは、現代の我々が感じる以上に、当時の人にとっては屈辱的なことなのです。
というのも、この当時の人は頭頂部を他人に見せることを極めて恥ずかしいことと考えていたのだそうです。
これは、「東北院職人歌合絵巻」という鎌倉時代の絵巻物に描かれている絵です。
※東京国立博物館様より拝借
これは博打を打つ人(職人)を描いた絵です。
負けがこみ、上下の衣服を取られてスッポンポンになってもなお、烏帽子のようなものを頭に被っていますよね。
現代人が野球拳をやって、ジャンケンに負けたらどんどん身につけているものを脱がなければならない勝負をしたら、帽子なんて1番先または2番目に脱ぐ人が圧倒的に多いのではないでしょうか?
それが、当時の人は何とか頭頂部だけは守ろうと烏帽子を最後の砦にしているんですね。
それくらい頭頂部を他人に見せることを恥としていたようなのです。
ですから、真偽の程はともかく、行成の我慢強さを伝えるエピソードとして、「いきなり冠を叩き落とされ頭頂部をさらされても怒ることなく冷静に対応してみせた」というのは非常に効果的なわけです。
最後は実方より行成の話になってしまいましたが、今回はこの辺で