元太郎といっしょ…―統合失調症って何だろう
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代筆者の法的地位―その1

 今日、隣の市にある公証人役場へ行ってきました。

 実は先日、僕を含め6人で、僕の身に何かあった時のための書類を作っていたのです。その書類には、万が一事故などで意識を失った時に備えて、延命措置を望むか否か、薬物アレルギーがあるか無いかなど、自分がどんな医療を受けたいかが書かれています。そして、意識が無い時や判断能力を失っている時に、僕の身をどう扱うかを判断する代理人を二人選出しています。

 この間書類を作った時は、僕と二人の代理人、二人の立会い証人、そして代筆者の6人で集まりました。代筆者の方は、自分の手元が周りからじっと見られていることにかなり緊張しておられた様子でした。

 さて、ここからが本題。上記の書類は、僕が字が書けないため、代筆者を立てて書いたものですが、もしかすると僕が意識を失った時、「あれは本人が書いたものではないのではないか」という嫌疑がかけられないようにする必要があります。そのために今日、公証人役場へ行ったのでした。

 代筆者が書いたことはちゃーんと僕の意思ですよ、という宣誓供述書を作れば良いのかな、と思ったのですが、そうでもなかったようです。公証人の方も「今すぐにはお答えしかねます」というお返事。代筆ということの扱いについては、公証人の方もご経験がないようでした。とりあえず今日は、うちの電話番号を教えて帰ってきました。

 日本はとても豊かな国です。識字率の高さは世界でも稀です。それ事態は高く評価されるべきことなのですが、逆に、その識字率の高さが災いしてしまうこともある訳ですね。例えば、矛盾する二つの主張がある時、本人の口より印鑑の方が雄弁だったりする訳です。非常におかしな現象です。

 代筆者の法的地位というのは、選挙での投票を除いて、ほとんど考慮されていないのが現状だと思います。しかしながら、視覚障害者やディスレクシアなど、文字の書けない人たちは確かにいます。そういった人たちの存在をもっと広く認知してもらう必要があるでしょう。僕がその前例のひとつを作れるとしたら、それは嬉しいことです。

生理的欲求が思い出せない

 生理的欲求があってこそ、いろいろな意味で人は生活する上でのリズムを刻んでいくのだと思います。お腹がすいたりトイレに行きたくなったり、眠くなったり体温が上下したり。そして、その欲求を感じた時、トイレに行こうとしたり寝る準備をしたりする訳ですね。

 でも、僕は、自分の整理が何を求めているのかということが、まったく考えに上がらないことがよくあります。食事を食べておらず、お腹が鳴っているのに、食事を食べていないことを思い出せなかったり、もじもじしているのを周囲から詩的されて自分がトイレに行きたかったことを初めて知ったりするのです。また、「厚い厚い」と言いながらストーブの前に座って厚着をしていることもあり、こんな自分のまぬけさに自己嫌悪の毎日です。

 周りの人たちからは、僕がわざと周囲に迷惑をかけるために食事をしていないと誤解されたり、嫌味で「厚い」とか「寒い」と言っているように見えたり、白い目で見られたり笑われたり怒られたりすることがよくあります。

 これはさすがに僕も、誤解されてもやむを得ないなとあきらめます。自分の生理的欲求を忘れてしまう人なんて、健康的な人たちからすれば、全く想像出来ないことでしょう。

自己弁護が下手

 つくづく自分は損をする人間だと思います。自己弁護が下手なために周囲からいろいろ誤解されやすかったり、誤解される原因を自分から作ってしまったりするんです。

 今は弁解した方がいい時なのか、黙っておくべき時なのかという判断をよく誤ります。そして、ただでさえ誤解されているのにその誤解を増幅させたりしてしまう訳です。

 僕は自分が統合失調症であることについては、特に隠してはいません。かといって強調して語ったりもしません。学友などは、僕を理解しようとしていろいろ努力してくれているようです。また、飲み会などにも度々誘ってくれます。けれど、たまたま忙しくて断ったということが何回か続いたり、体調不良で表情が硬かったりすると、これまたあらぬ誤解を生む訳です。

 また、僕は、お世辞を言わず、誠実に答えるというポリシーを持っているので、口からでまかせの褒め言葉は言いません。僕自身、人の嘘は結構鋭く見破ってしまうタイプなので、褒められて心が傷付く時の痛みを、他の人には決して感じさせたくないのです。だから褒め言葉というのは、心から湧き出てくるのでないかぎりは言いません。ですから、人と接するとその人の長所を探すというのが癖になっています。そして、心から感動したことがあればそれを言い、特に褒め言葉が見当たらない時はノーコメントで通り過ぎます。
 言わないで後悔するよりは言って後悔した方がいい、という価値観をお持ちの方もいると思います。でも僕は、経験上自分に関して言えば、言わないで後悔する方が言ってから傷付くよりましだと感じる思考パターンが出来上がっています。したがって、ノーコメントでやり過ごしたことで自分が損をすることにはもう慣れ手います。

 そんなねじくれた気持ちのひずみで、このブログのような文章を書いているのかもしれません。

密室の迷子

 今日、初めて学校の最寄り駅の多機能トイレを使いました。この多機能トイレ、視覚障害者にとっては結構分かりにくいものなのです。

 そんな訳で、多機能トイレの中でいろいろ迷ってしまいました。これまでに何度もやったことのある失敗は、水洗ボタンと間違えて呼び出しボタンを押すというもの。でも、最近では多機能トイレにも基準となる指針が出来、迷うことは減りました。

 今日使った多機能トイレはだだっ広くて、全体を把握し、要を終えて出てくるまでに結構時間を要してしまいました。密室での迷子は、ばかばかしいようで、実は結構あせったりするものです。今日は、予定がつまっていなくてよかったですが、忙しい時には結構大変なことになります。

「ま~るく生きようよ♪」

 今日、5年前から付き合っている親友と電話で話しました。彼女はまれに見る天然記念物で、ワシントン条約に載ってもいいぐらいに珍しいほどのいいやつです。

 彼女は精神的な病気や障害を持ってはいませんが、僕と同様、周囲から「世間知らず」と見なされることが多く、結構自信をなくしているところもあるみたいです。けれど、彼女はすべてをプラスに捕らえて、悪いことはぱっぱと忘れ、いつも前向きです。

 「ま~るく生きようよ。とげとげしたって自分に刺さるだけだからさ」と語る彼女の言葉に、ここ数日の嫌な出来事もすべてどうでもよくなって、心の中からふわりと重い空気は抜けていきました。問題が解決するでも状況が改善するでもないけれど、ただ彼女と語っていると、見方が変わって気楽になれるのです。これってすごく大事だと思います。

社会的信頼を得るために

  誤解されたまま話が進んでいくのを呆然と見守っているのはすごくしんどいです。

 昨年の10月、2学期の中間試験の時期、僕は体調を崩していました。試験はほとんど欠席してしまい、追試を受けることになりました。けれど、今月にあった3学期の試験は欠席することなく受けることが出来ました。僕はこのことをただ、「ラッキーだったなぁ」と喜びましたが、周りの人からはそれ以上の評価を得ました。「去年の秋には試験を休んだのに、今回は休まなかったなんて、成長したね」と言うのです。そんな言葉を聞いていると、とてもブルーになってきます。

 僕は、2学期の中間試験に出られなかったのも、今月の試験に出られたのも、どちらもたまたまそうなっただけだと思っています。それ以上の理由は何も無いと感じています。これまで自己分析を試み続けてきましたが、結局のところ、好調な時期と不調な時期との波に、今現在何の規則性も見出せていません。調子が良くなるのは努力の結果でも何でもなく、ただそういう時期なんだな、と受け止めるのみです。

 しかしながら周囲からは、たまたま去年の秋の試験の時期に不調で、今回好調だったことを「成長」と捕らえられるのですね。まるで、学校に行っていないと存在価値を認めてもらっていないかのような、それぐらいきつい言い方をする人もいます。褒め言葉を聞く度に、心が傷つきます。

 これとよく似ている話ですが、学校を休んだりすると「健康管理がなってない」なんて言われることがあります。でも、こちらとしては健康管理のために学校を休んだのであって、健康管理がいたらなかった結果として学校を休んでいる訳ではないと言いたくなります。(まぁ、こちらの不摂生で休む日もたまにはありますが)

その証拠として、僕はぎりぎりのところで踏ん張っているからです。いくら定期試験を休むことはあっても、まさか2年後の国家試験当日に体調を崩すなんていうことはあり得ないと思っています。また、いくら授業を休んでも、欠時が多過ぎて進級に影響が及ぶような事態は決して許しません。僕は僕なりの目標を持ち、その範囲内でベストを尽くしている、ということは誇りを持って言えることです。本当の意味での本番には強いのです。

 親友は僕のこういった状況をよく理解してくれています。分かってくれる人が一人でもいてくれるというだけで、僕は満足です。その親友はいつも僕の愚痴を聞いてくれます。もちろん向こうの愚痴もいっぱい聞きます。お互いがそれぞれの胸の中にすでに答えを持っていることがほとんどで、アドバイスをすることもされることもめったにありません。そういう関係が、すごく気持ちいいのです。

 きっと、信頼には大きく分けて二種類あるんだと思います。かけがえのあるものと無いものの二種類です。

 例えとして、ニート問題を考えると、深刻な労働者不足に目をやらなくてはなりません。もっと働いてくれる人がいないと、安定した社会にはならないと言われます。また、少子化問題を考慮すると、女性がもっと子どもを産んでくれればと、大抵の人は言います。

 では、誰が働くか、どの女性たちが子どもを産むかというと、そんなのは社会にとってどうでもいい問題なのだろうと思うのです。ただ、誰でもいいからそういう人がいてくれれば助かる、というそれだけの期待です。ですから、ニート問題や少子化問題を語る評論家が、労働者や女性たちを物扱いしているかのように感じることもよくあります。マスコミはなんて無神経な表現を使うんだろうなんてびっくりすることもあります。一人ひとりの女性の生き方や各家庭の事情というのと数字合わせの評論家の唱えることとは、大きく乖離しているように感じます。

 誰でもいいから働いてくれると助かる、誰でもいいから子どもを産んでくれると助かる、こういうかけがえのある人への信頼と、親友同士の絆という心の信頼は全然似ていません。その人じゃないとだめな理由を持っていること、これが人と人とを結びつける信頼ではないでしょうか。

 とは言っても、僕はすべての人に自分の事情を知ってもらおうなどとは思っていないし、そんなのはあつかましいと思っています。また、ある程度は、社会的に信頼され、利用していただける柔軟な人間になりたいし、難しそうだけれど、自尊心を維持しながらも周囲に誤解されないように頑張る必要もありそうです。

 小学生のころ、毎日のように「宿題を忘れました」と言う友人がいました。彼に対して先生は、「買い物を頼んでも毎日『財布を落としました』と言っているやつがいたら、たとえそれが事実でもその人はお金を盗んでいると言われて当然なんだ」と語っていました。確かにそれはそうだと思います。僕も、「本当はそうじゃないんだけどなぁ」という切なさと深い孤独感を抱えつつも、サボっている訳じゃないですよ、というアピールのための努力をした方がいいみたいです。意識的にそんなことをせざるを得ないなんて、僕にとってはすごく不自然な話です。けれどやっぱり、多少の無理をすることにもそれなりの価値はあるだろうし、表面上だけでも誤解が解けるのであれば、それはそれでメリットがありそうです。

 分かってもらえないようなことをどこまで認め合えるか、その努力を辛抱強く続けていけるかが、学友や先生方とうまく付き合っていくための今後の課題かもしれません。共生と聞いて僕が思い浮かべるのは、手をつないでいる子どもたちの笑顔ではなく、共食いしているザリガニかもしれない、なんてね。

お酒の飲み方

 まずはじめに誤解の無いように書いておくけれど、僕は二十歳の誕生日を過ぎています。高校生ではあるけれど、お酒の飲める年齢です。

 お酒の飲み方で僕が日々心がけていることを書きたいと思います。

 一つ目は、アルコールが完全に身体から抜けるには十数時間かかるとも言われるので、大事な用がある日とその前の夜はお酒を飲まないということです。ですから、学校のある日の前の夜には飲まないようにしています。通常は金曜日と土曜日しか飲めないんですね。

 注意していることの二つ目は、定期的にお酒を飲まないということです。不定期に、不規則に飲むのです。毎日寝る前にコップ一杯のお酒を飲むなどのパターンを作ってしまうと、パブロフの犬のように、身体がそれを覚えてしまうのです。量に関係なくアルコール依存症は起こり得るという情報を読んだので、その点を注意しています。

 そして、最も用心深く気を配っていることは、気分が落ち込んでいる時や心細い時には、たとえ苦しくても飲まない、ということです。これはかなり堅い決意です。なぜかというと、感情的に不安定な時、それをアルコールで解決すると、アルコール無しでは問題に立ち向かえなくなるかもしれないからです。アルコールに限った話ではありませんが、何かに(または誰かに)感情的に依存するのは、主体的に生きるという生まれ持った人間としての自由を自ら放棄することになると考えているからです。
 これほどまでアルコールに慎重なのは、油断すれば自分が依存するのではないかという危機感をいつも感じているからです。アルコール依存症で悩んだという経験はありませんし、入院中にアルコール依存症の病棟の人を見て「ああなりたくはない」と思ったなどという発想から依存症に用心している訳ではありません。何かに依存することの恐ろしさと、そこから抜け出るための苦しさ、どんな物にも依存せずに生きる自由の素晴らしさを思い知ったからです。

 その自由な生き方には、孤独感がつきものではありますが、自分なりの意思と信念を貫くという喜びはかけがえのないものだと感じています。

 身体的にも感情的にも、アルコールへの依存を決して許さないこの努力を、これからも続けていきます。

元太郎って誰

 今日、学校は終了式で、いよいよ春休み。一年間お疲れ様、と自分に言ってあげたいです。

 元太郎(げんたろう)は僕の友だちのふくろうくんです。他の人は彼を木彫りのキーホルダーと呼ぶかもしれませんが、僕にとっては大切な友だちです。学校に行くにも旅行に出かけるにも元太郎と一緒です。友だちが箱根に行った時のお土産で、最初は彼女が喜ぶから身に付けていたのですが、だんだん愛着を感じるようになってきました。

 ぬいぐるみなどに話しかけるのが統合失調症患者にとってプラスになると聞いてからは意識的に彼に語りかけています。そうすることで、自分の考えを整理したり、気持ちを落ち着かせたり出来るからです。また、憶えておくことがある時にも、彼に語りかけます。そして、つい今週からですが、元太郎と一緒に学校の勉強の復習をするようになりました。

 なぜ、今僕がこうして統合失調症の体験談を書こうとしているのかを説明しなくてはいけませんね。けれど、それはもうちょっと待ってください。少しずつ自己紹介していきたいと思います。