わたしはバカ正直すぎて
世の中をうまく渡ることができずに
とても遠回りしてきました。
自分が自分らしく
世の中に受け入れてもらうには
どうしたらいいんだろう…
そんな思いで生きてきたんです。
つまりね
根底に「受け入れてもらいたい」
という思いがあるから、
意味もなく相手を非難することは
しなかったということです
自分が普通に過ごして、普通に生きて
世の中の一員としても
普通に過ごして普通に生きていきたい
ただ そう思ってました。
決して特殊な環境ではなかったと思うけど
決して一般的な環境でないことは
薄々気づいてたから
多分 私自身、
一般的な常識とか考え方とか感覚とは
少しズレがあるのかな…
そんな風に感じて生きてました。
だから、
一般的ってどういうんだろう、
みんなはどうなんだろう…
無意識にそれを
知ろうとして来たんだと思います。
自分が受けて、気分が良かったことがあれば
相手や人に、自分もそうしてあげたい
って思ったし、
自分が受けて、気分が悪かったことがあれば
相手や人には、自分はしないようにしよう
って思った
ただ、いざ自分がしてあげたいと思っても
取ってつけたようになってしまう気もしたし
してあげたことに
反応が薄かったり誤解されることも多くて
素直な思いが伝わらないことが多かったんです
なにが違ったのか、なにが原因か
いつもいつも探してました
だから余計に
なぜその人がそうしたのか、それができたのか
ものすごく探りました。
相手が特別な力の持ち主だったり、
相手が特別な教育を受けてたわけじゃないことは
わかっていたから
彼や彼女らに共通するのが何か、
そういう視点で見るようにもなってました。
わたし自身が子どもの頃
嬉しかったこと、悲しかったこと、
実はあまり記憶がないんですね。
覚えていないだけなのかも知れないけど
【子どもの頃の嬉しい記憶、悲しい記憶がほとんどなかった】
https://ameblo.jp/koba-mm/entry-12565654069.html
家族から学ぶことができなかったから
人から学ぶしかなかった。
当たり前がなにか、
なぜそれが必要なのか、
いつもいつも
そういう視点で人を見てるから、
その人の言動や表情や背景に
パターンが見えることもありました。
自分の素の言葉なのか、
人の受け売りなのかも
なんとなく見えることもあります。
わたしにも 素で話せる友人がいました。
相手が素で話してくれてる
と思ったことの方が多いです。
10代の頃は特に、
自分の立ち位置を探していて
自分の在り方を
必死で守ろうとしてました。
だから、
いろんな柵(しがらみ)で、
自分を抑えなきゃいけない状況や、
本当はどうしたいのか、
こんなんじゃ嫌なんだ!
という心の叫びに
とても敏感だったし共感できました。
表面的に悪ぶっていたり、意地の悪い子、
気の小さい子、優しくてノーが言えない子、
自分の素の感情を抑えてしまってる子の声は
すぐに気づきました。
だから相手にもそれが通じて
1対1で話す時は、
彼らは素の自分を出してくれました。
たとえ 暴走族のリーダーや
番長と言われる子でも、
わたしと話すときは、
リーダーでも番長でもない
普通の子でした。
リーダーや番長である以上、その間は、
自分についてきてくれる子がいる、
その子たちを守る責任がある、
その立場を維持しなければならない理由がある
べつに番長やリーダーでいたいわけじゃない
ただ慕って信じてくれてる以上 信頼を裏切れない
そういう葛藤もあるんです。
けど
わたしとは、そんな話しはしなかった。
なぜならわかってるから。
彼らは
リーダーや番長でいる時には見せられない
表情や笑顔を見せてくれました。
一方
わたしの周りに
そういう立場の子が集まるから
わたし自身がそういう人間だと
知らない人からは
そう思われたこともあります。
でもわたしは違う。
彼らも、そしてわたしも
1個人、ひとりの人間として付き合ってた。
彼らが番長だろうと組長だろうと、
大会社の社長だろうと
正直関係ない。
(そもそも非道な人間は、わたしに近寄らなかった)
見栄を張って 実績をひけらかすような相手とは
わたしも腹を割って話さないし、
彼らがもしそうである間は、
わたしもその線から超えることはしないから。
ただ、
そこそこものが判断できる年齢になってからは
その人の実績や経験があってこその
いまだと受け入れてるから、
自分の未知のことや、
学ぶべきところは素直に学んでる。
彼らも逆に、
わたしの価値観や考え方を尊重してもくれる。
そういう時間を過ごすことが楽しいし、
有意義だと思ってる。
そうやって人間関係を築いてきたし
自分の知らない世界のことも
垣間見ることができた。
それと同時に、
その世界に生きるリスクや覚悟も
おおよそ理解できてると思う。
だからこそ、
関わるか関わらざるか
冷静に判断することもできてるのだと思う。
わたしが失敗してきたのは、
おおよそ覚悟の上だったことで
最悪の場合を想定してなかったわけじゃないから、
だから、これまで多分
パニックになったり慌てたりせずに
淡々として見られるんだと思う。
それが、
“本当に大変なこと”になってるようには見えない
という理由でもあるかな…
これは相当、損な立ち振る舞いだということは
学習しましたw
こうなる前に、もっと手立てがあったはずだし、
もっと被害が少なくてよかったんじゃないか
っていうようにも思います。
だからね
そういう経験や体験や感情や間違いや気づきや
そういうもの全部ひっくるめて
わたしはすべて 説明ができる。
いまわたしがわかってる と思ってることが
すべてあってるかどうかはわからない。
だけど、
あの時どんな選択肢があって
どれを選んで
どう動かしてきたか、
そのあとの選択肢はどうだったか、
わたしは なんの柵もない分、
自分に正直に素直に従って来れた。
その結果 こうなった、
という事実は
話すことができる。
そう、柵がないから、
できた。
柵があって学べないこともあると思うし
柵が邪魔してできないこともある。
もし、柵がないことを望むとしたら、
そのリスクは知っててほしい。
でも
柵がないからできることはたくさんあるんです。
それが、
家族がないこと、
身寄りのないこと の 強み!