kobaのブログ

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DV避難から5年の裁判を経て、娘と離別。
その後 社会復帰と 夢の実現に向けて 再びもがいてみる日記。

Amebaでブログを始めよう!

わたしはバカ正直すぎて



世の中をうまく渡ることができずに



とても遠回りしてきました。





自分が自分らしく

世の中に受け入れてもらうには

どうしたらいいんだろう…



そんな思いで生きてきたんです。





つまりね



根底に「受け入れてもらいたい」

という思いがあるから、



意味もなく相手を非難することは

しなかったということです





自分が普通に過ごして、普通に生きて

世の中の一員としても

普通に過ごして普通に生きていきたい



ただ そう思ってました。





決して特殊な環境ではなかったと思うけど

決して一般的な環境でないことは

薄々気づいてたから



多分 私自身、

一般的な常識とか考え方とか感覚とは

少しズレがあるのかな…



そんな風に感じて生きてました。





だから、

一般的ってどういうんだろう、

みんなはどうなんだろう…



無意識にそれを

知ろうとして来たんだと思います。





自分が受けて、気分が良かったことがあれば

相手や人に、自分もそうしてあげたい

って思ったし、



自分が受けて、気分が悪かったことがあれば

相手や人には、自分はしないようにしよう

って思った







ただ、いざ自分がしてあげたいと思っても

取ってつけたようになってしまう気もしたし



してあげたことに

反応が薄かったり誤解されることも多くて



素直な思いが伝わらないことが多かったんです







なにが違ったのか、なにが原因か

いつもいつも探してました





だから余計に

なぜその人がそうしたのか、それができたのか

ものすごく探りました。







相手が特別な力の持ち主だったり、

相手が特別な教育を受けてたわけじゃないことは

わかっていたから



彼や彼女らに共通するのが何か、

そういう視点で見るようにもなってました。







わたし自身が子どもの頃

嬉しかったこと、悲しかったこと、

実はあまり記憶がないんですね。



覚えていないだけなのかも知れないけど



 

【子どもの頃の嬉しい記憶、悲しい記憶がほとんどなかった】

https://ameblo.jp/koba-mm/entry-12565654069.html







家族から学ぶことができなかったから

人から学ぶしかなかった。



当たり前がなにか、

なぜそれが必要なのか、





いつもいつも

そういう視点で人を見てるから、



その人の言動や表情や背景に

パターンが見えることもありました。



自分の素の言葉なのか、

人の受け売りなのかも

なんとなく見えることもあります。













わたしにも 素で話せる友人がいました。



相手が素で話してくれてる

と思ったことの方が多いです。





10代の頃は特に、

自分の立ち位置を探していて

自分の在り方を 

必死で守ろうとしてました。





だから、

いろんな柵(しがらみ)で、



自分を抑えなきゃいけない状況や、

本当はどうしたいのか、

こんなんじゃ嫌なんだ!

という心の叫びに 



とても敏感だったし共感できました。







表面的に悪ぶっていたり、意地の悪い子、

気の小さい子、優しくてノーが言えない子、



自分の素の感情を抑えてしまってる子の声は

すぐに気づきました。



だから相手にもそれが通じて

1対1で話す時は、

彼らは素の自分を出してくれました。



たとえ 暴走族のリーダーや

番長と言われる子でも、

わたしと話すときは、

リーダーでも番長でもない



普通の子でした。





リーダーや番長である以上、その間は、



自分についてきてくれる子がいる、

その子たちを守る責任がある、



その立場を維持しなければならない理由がある





べつに番長やリーダーでいたいわけじゃない

ただ慕って信じてくれてる以上 信頼を裏切れない



そういう葛藤もあるんです。





けど

わたしとは、そんな話しはしなかった。

なぜならわかってるから。





彼らは

リーダーや番長でいる時には見せられない

表情や笑顔を見せてくれました。







一方

わたしの周りに 

そういう立場の子が集まるから

わたし自身がそういう人間だと

知らない人からは 

そう思われたこともあります。





でもわたしは違う。



彼らも、そしてわたしも

1個人、ひとりの人間として付き合ってた。







彼らが番長だろうと組長だろうと、

大会社の社長だろうと





正直関係ない。

(そもそも非道な人間は、わたしに近寄らなかった)







見栄を張って 実績をひけらかすような相手とは

わたしも腹を割って話さないし、



彼らがもしそうである間は、

わたしもその線から超えることはしないから。









ただ、

そこそこものが判断できる年齢になってからは



その人の実績や経験があってこその

いまだと受け入れてるから、





自分の未知のことや、

学ぶべきところは素直に学んでる。



彼らも逆に、

わたしの価値観や考え方を尊重してもくれる。





そういう時間を過ごすことが楽しいし、

有意義だと思ってる。





そうやって人間関係を築いてきたし

自分の知らない世界のことも

垣間見ることができた。





それと同時に、



その世界に生きるリスクや覚悟も

おおよそ理解できてると思う。







だからこそ、

関わるか関わらざるか

冷静に判断することもできてるのだと思う。









わたしが失敗してきたのは、





おおよそ覚悟の上だったことで

最悪の場合を想定してなかったわけじゃないから、

 

だから、これまで多分

パニックになったり慌てたりせずに

淡々として見られるんだと思う。



それが、

“本当に大変なこと”になってるようには見えない

という理由でもあるかな…





これは相当、損な立ち振る舞いだということは



学習しましたw







こうなる前に、もっと手立てがあったはずだし、

もっと被害が少なくてよかったんじゃないか

っていうようにも思います。









だからね





そういう経験や体験や感情や間違いや気づきや

そういうもの全部ひっくるめて



わたしはすべて 説明ができる。





いまわたしがわかってる と思ってることが

すべてあってるかどうかはわからない。





だけど、

あの時どんな選択肢があって 

どれを選んで

どう動かしてきたか、



そのあとの選択肢はどうだったか、





わたしは なんの柵もない分、

自分に正直に素直に従って来れた。





その結果 こうなった、

という事実は



話すことができる。





そう、柵がないから、

できた。





柵があって学べないこともあると思うし

柵が邪魔してできないこともある。





もし、柵がないことを望むとしたら、

そのリスクは知っててほしい。





でも

柵がないからできることはたくさんあるんです。









それが、



家族がないこと、

身寄りのないこと の 強み!















あ、、、

母がなぜわたしを避けたのか…

 

 

母はなぜあの人たちにわたしを託したのか…

 

 

 

 

 

わたしには3学年(ほぼ4歳)年下の妹がいます

 

 

わたしが9歳(小3)の年に母は 

 

父の独立を機に父の仕事を手伝う形で

仕事に復帰しました。

 

マンモス校だったので分校になり、

4年でわたしは新校に通うことになりました。

 

妹は学童に入り、

夕方になると同じ学童のお友達の家で

母が帰るまで預かってもらっていました。

 

わたしはひとり、家でかぎっ子でした。

 

 

低学年の頃わたしは 

駅近くでバイオリンを習わされていて

 

そこに来ていた一歳年下のユミちゃんと時々遊びました。

 

ただそれはわたしの意思ではなく、

母が

そのユミちゃんのお母さんと話しているうちに

「家に遊びに行く」ということになったからです。

 

ことの経緯も、どちらがどう言ったかも知りません。

 

 

たしか2度ほど発表会があったのですが、

わたしは一度だけ出て、そのあとは

バイオリンが嫌で、

自分の弾くバイオリンの音色がストレスで、

急性胃腸炎(胃潰瘍の一歩手前)になり

やめてしまいました。

(ヘタなバイオリンは今でも拒絶してしまいます)

 

多分小2頃、そのユミちゃんの家に

4〜5回遊びに行きました。

 

でも、大きなお屋敷の門をくぐり、

玄関までのスロープを歩く間に、

 

ユミちゃんが外へ出てきて、行こ!

と言って自転車で出てくるので、

 

わたしはユミちゃんの家に

入ったことはありません。

 

 

玄関の中も見たことがありません。

お母さんにも会ったことがありません。

 

 

薄暗くなるまで遊んで、時間になると

ユミちゃんは家に帰ると言い、

 

門の前で、じゃあね!

 

と言うから、わたしは仕方なく

しばらく一人でウロウロしてから家に帰ります。

 

 

でも家には誰もいないから、

一人でテレビを見て過ごしています。

 

 

時々母から電話がかかってきて、

妹を迎えに行くように言われることもありました。

 

行くと、そのお友達のお母さんが、

家で一緒に待ってなさいと言ってくれて

そこでテレビを見て待っていました。

 

たしかその間、妹はお風呂に入ったりしてました。

 

母が迎えに来て、ひとしきり話してお礼が済むと

妹の手を引き、わたしはあとをついて家に帰ります。

 

 

母が妹の世話をしてる間、テレビ映画を見たり、

わたしも一人でお風呂に入ったりしました。

 

 

それが長年小5くらいまでの日常でした。

 

 

 

 

 

そういえば

やっぱり小3の頃、

 

同級生数人が市の合唱隊に入っていたので、

母に勧められて入会しました。

 

何度か練習に行きましたが、同級生の輪に入れず

そのうち行かなくなりました。

 

 

 

クラスの同級生のお母さんが絵画教室を始めたので

その教室に通うように言われて何度か行きました。

 

その日のテーマをもらって描くように言われても

あまり描く気になれませんでした。

 

 

 

 

合唱隊も絵画教室も同じ同級生で

恭子ちゃんといいました。

 

母はわたしとその子を仲良くさせようと必死でした。

でも悪い子じゃないけど気が合わなかった。

 

彼女も自分の意思ではなく、

親に言われて仕方なく

わたしと仲良いフリをしているのが

見て取れたからかもしれません。

 

小4で新校になった時、

その恭子ちゃんと同じクラスになって、

なんとなく暫くは仲良くなりました。

もう一人仲良くなったゆうこちゃんが

共通の友人だったからです。

 

三人でよく一緒にピンクレディを歌って踊りました。

手紙の交換もよくやりました。

時々約束して放課後遊ぶこともありました。

 

ただわたしが仲よかったのは、

間にいたゆうこちゃんだったから

その恭子ちゃんと直接仲良いわけじゃなかったんですね

 

ゆうこちゃんを誘うと、

先にその恭子ちゃんと遊ぶ約束してて、

今日は遊べない、と言われたり、先に約束していても

家に迎えに行くとすっぽかされて、

 

その恭子ちゃんが誘いに来て

二人で先に出かけてしまったことをあとで知ったり、

 

 

そうこうしてるうちに、

自然にわたしは

その仲間から抜けるようになった 

ということがありました。

 

母は、恭子ちゃんのお母さんにそのあとも

色々相談はしていたみたいでした。

 

 

ゆうこちゃんは時々わたしに話しかけてくれたり、

申し訳なさそうな顔をしてたから、

その恭子ちゃんが色々言うんだろうな、

と想像して、「いいよ」というしかありませんでした。

 

 

 

 

そのあとは、

わたしは学校でも家でも 

あまり人と話しをしなくなって

教室でもボンヤリしてることが多かったと思います。

 

 

通学路で、いつも会う同級生と

いつのまにか一緒に登校するようになりました。

 

その子はほとんど誰とも口をきかず、

返事や発言もも蚊の鳴くような声で、

とてもおとなしい子でした。

 

登校の時は、ほとんど黙って歩くだけだったけど

時々話して、時々ニコっと笑う子でした。

 

その子といるとホッとしたのを覚えてます

川崎なおみちゃん…だったかな

 

 

小5に上がってからも 

朝はナオミちゃんと通いました。

クラスも同じでした。

 

なぜそうなったのか覚えていません。

 

 

 

中休み、トイレに入ったナオミちゃんを見かけて、

わたしもトイレに行きました。

誰もいなくて、ナオミちゃんも洋服を直す音が聞こえた。

 

すぐ目の前に水の残ったバケツに突っ込んだモップがあって、

 

わたしはそのモップを、

トイレの個室のアタマから突っ込んだ

 

 

きゃー!  と声がして、暫く静まりかえった。

 

 

 

 

わたしはそのままトイレを後にして、

廊下でナオミちゃんが出てくるのを待ってた。

 

ナオミちゃんは、

髪の毛と洋服の背中と肩が濡れてた。

 

 

わたしの顔を見ても、

表情を変えず黙って通り過ぎ、

いつも通りに席に座ってた。

 

 

 

数ヶ月ナオミちゃんを避けた。

 

 

ある日ナオミちゃんの方から 

おはようと声をかけてくれた。

 

 

心の中で「ゴメンね」と言ってたけど、

声には出せなかった。

 

 

(そのあともずっと、

「故意に人を傷つけた」という思いが残り

「わたしは絶対人を傷つけたりしない!」

とは人に言えなかった…)

 

 

その頃にはもう、わたしは

誰に対しても心を閉ざしてしまってたように思う。

 

 

 

 

 

 

 

話し逸れてしまったけど…

 

母がなぜバイオリンのユミちゃんや 

絵画教室の恭子ちゃんと

仲良くさせたかったのか…

 

 

バイオリンのユミちゃんの家は

お屋敷でお金持ち。

 

絵画教室の恭子ちゃんは、

お父さんがエリートアナウンサー。

 

 

 

母はわたしが近所の借家の子と遊ぶことを嫌ってた。

 

「借家の貧乏な家の子」と言わんばかりに

汚ならしいものを見るような目をした。

 

唯一裏のユキちゃんの家は

大きなお屋敷で持ち家だし

三代一緒に暮らしていて、

ご隠居さんも立派な方だった。

 

ユキちゃんは一歳年上で、

生まれつき耳が完全に聞こえない子だった。

 

初めて会った時からそうだったから、

わたしはユキちゃんとだけに通じる手話のような合図や

口や体の動きで会話をしていて、

 

不自由に思ったことはなかった。

何も特別だとは思っていなかった。

 

 

ユキちゃんが中学に上がって、

遠い学校に通うようになるまで、

 

ずっとこのまま友だちだと思ってた。

 

 

 

 

母は、わたしがユキちゃんと遊ぶことだけは

黙って見ていた。

 

わたしがカラダの不自由なユキちゃんと 

心を通わせて一番仲が良かったことを

 

どんな理由かは知らないけど、

喜んでいたようだった。

 

 

たしか、母がユキちゃんのお母さんと 

珍しく話した後からだったから

何か嬉しいことを聞かされたのかもしれない。

 

「あ、何か言われたんだな」と思ってたから。

 

 

 

 

 

 

そんな母をずっと見てきて、

 

 

母は自分の見栄を維持するために

 

わたしをいいトコの子に見えるように

したかったんだと思ってた。

 

 

中身はともかく、

見た目や印象や交友関係が

いいトコの子に見えるように

したかったんだ

 

と思ってた。

 

 

わたしが

ことごとくそれを裏切り、

そのように振る舞わないことに 

嫌気がさして

 

母は、わたしのことを「失敗作」だと思ってる

 

と、思い込んでた。

 

 

だから妹には別の方法で接してるんだと思った。

 

1度目失敗して学んだから 

妹にはやり方を変えたのだと思った。

 

 

それくらい、

わたしに対する態度や言動と 

妹へ対するものとはまったく逆に近いものだった。

 

 

 

 

母もずっとわたしを避けてきてたと思う。

 

 

わたしはずっと 

母の期待に応えられなかった失敗作だと思って生きてた。

 

 

 

 

 

 

 

さっきから、ここまで書いているうち、

ハっとしたことがある。

 

 

わたしがナオミちゃんを避けた理由…

 

 

 

 

もしかして、それと同じだったのだろうか…。

 

 

 

 

 

 

 

 

母は、

 

 

自分が教えられなかったことを、

 

ここから学べ

 

 

 

 

というつもりだったのだろうか…

 

 

 

 

 

 

 

母はもういない…

 

確かめようがないじゃない

 

 

 

……ねぇ母さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしはいま、

いまいる環境から学ぶことができないなら

学べる環境に自ら行けばいい、

 

そんなことを言おうとしてた。

 

 

そのことを伝えようとして、

 

なぜそう考えてるのか話そうとした

 

 

そして自分自身がそう考えるようになった経緯を

思い返していて、

 

今まで忘れてたことをどんどん思い出したし、

その時の空気感や感情も思い出した。

 

 

わたしには 

嬉しい思い出は数えるほどもなかったけど、

 

 

 

 

ただ母がわたしに伝えたかったのは

 

 

 

 

わたしが考えていたようなことじゃ

なかったのかもしれない

 

 

 

 

 

 

 

じゃぁどんなことだったのか…

 

 

 

 

これからもう一度、

確かめてみようと思ってる。

 

 

 

多分、きっと、

 

 

わたしが今こう考えてることの裏付けが

一つ、ふたつ、たくさん増える気がしてる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母さん、あんなんじゃ伝わらないよ

母さん、なんでもっと話してくれなかったの…

ちゃんと確かめたかったよ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いまふと思い出した一番小さい時の

嬉しかったことは

 

幼稚園の年長の担任から、

小学校に上がってから、

リンゴの形の年賀状が届いたこと。

 

手作りのリンゴ型の紙を半分に折って、

中にメッセージが書かれてた。

草野つるこ先生だったかな…(お元気だろうか…

 

 

真っ赤なリンゴがとっても可愛くて、

ホントに嬉しかったことを覚えてる。

 

 

(だけどそのつる子先生に対する印象は

それまで、そんなに良くなかった

ってことだけ覚えてて、

ハガキが来るまで先生のことは

忘れてしまったんです…

言わなきゃいいんだけどね(笑))

 

あとは…

 

 

めちゃくちゃ考えたけど

 

 

思い出したのは、

 

時々阪神百貨店のフロアにある

有名な(モロゾフだかなんだかの)喫茶室で、

いつも「モンブラン」を頼んだこと

 

月に2、3度家族で

駅前にある「ルエン」っていう中華料理店に行ったこと

 

あ、それから

その頃四条河原町の角にあった

ユーハイムの二階で時々お茶したこと

(いつもはミートパイを買いに行くだけだったと思う)

 

それから、

あんまり好きじゃなかったけど、

「大三元」という仰々しい中華料理店にもよく行った。

 

記憶に残っているわけは、

「母と一緒に出かける」ということと、

「母に連れられていつも行く」ということからだと思う。

 

ただ、そこに嬉しいとか楽しい感情は残ってない。

連れられては行ったけど、

会話や、誰かと一緒に過ごした空気感はないんだよな…

 

思い出すのは、テーブルに出された食器とか店内、壁。

 

 

嬉しい思い出じゃないな

 

 

 

 

嬉しかった記憶……

 

楽しかった記憶なら少しある。

 

小3頃まで、近所のお友達といつも

外で走り回り、ヌスタン(盗人と探偵)や缶蹴り

靴隠しや「だるまさんがころんだ」や木登りをした。

 

 

ある時、小さい子たちを交えて遊んだら、

隠した靴が見つからなくて、靴隠しが禁止になった。

 

ずっと遊んできたガキ大将と冬に半袖を張り合ってて

2月のある日、その子が高熱を出して危なかった。

 

同じその子と木登りを張り合ってて、

わたしがいない日に一人で登り、

高いところから落ちて頭を何針か縫う怪我をした。

 

そこから自然に、近所の子同士で遊ぶ機会が減って来た

大人がいい顔をしなくなったからだった。

 

 

 

やっぱりあんまりいい記憶じゃなかったな…

 

 

 

 

思い出せるのは、どれも

背後に大人の影があることばかり。

 

 

 

嬉しかったこと、めちゃくちゃ考えてる…

 

だけどホントにないや

 

 

 

わたしの誕生日は正月3日で、

その当時お正月はどこのお店もお休み。

 

 

あ、たしかクリスマスに何度か

教会のクリスマスバザーに行って、

手作りの小さな人形やフェルトの小物なんかを

手に握ってた記憶がある。

マリア様の絵が描かれたハガキとか。

 

 

わたしの幼少期のクリスマスや誕生日は

そんな記憶しかない。

 

 

妹が小学校に上がった頃になって初めて

クリスマスやお誕生日というものを意識したんです

 

 

なぜなら

妹の誕生日は12月2日。

 

世の中ではクリスマスプレゼント用の品物がいっぱい。

 

 

妹はその中からプレゼントを買ってもらってた。

ケーキは忘れたけど…

 

妹は「クリスマスという一緒に」って言われて

ちょっと奮発してもらってた気がする。

 

「だからクリスマスはケーキだけね」みたいに。

 

 

その時はじめて、「わたしは?」って思った。

 

 

 

「もうすぐお誕生日のオネエちゃんも一緒に」なんて

お祝いしてもらうことはなかった。

 

「お正月はお店がお休みだから」って。

 

 

お年玉も、多分ほかのお家の子よりずっと少なかった。

 

「お誕生日の分と一緒に」とは言ってもらえなかった。

 

 

お正月なんか嫌いだった。

お誕生日も大嫌い。

 

クリスマスにプレゼントをもらったことなんか

当然なかった。

 

 

妹がもらってたのは、

クリスマスプレゼントじゃなくて誕生日のプレゼント。

だから、ウチにはクリスマスプレゼントはない

 

 

 

 

「わたしも欲しい」とは言えなかった

 

 

 

なんとなく、

「お正月はお店が休みなんだから仕方ない」

って言い聞かせてた。

 

 

お年玉はいつも千円札1枚だった記憶がある。

中学校に上がって、

三千円くらい入ってたことがあったかな…

多分一度きり。

 

 

中2から、もう、親と会話することなんか

ほとんどなかったから。

 

 

 

 

ウチは裕福でもないけど、

決して貧乏ではなかったと思うんです。

 

 

だって、週のうち1〜2回は、

高そうなお店で外食だったし

パンは近所のパン屋じゃなくてドンクだったし… 

 

母はよくデパートの

MOGAやCOMSADEMODEのブティックで買い物をしてたし…

 

 

そう、その頃、わたしは母の近くに居たくて

両親の店に行き、英文タイプを打ってたんです。

親と会話することなんかなかった中2の頃です。

 

 

中学生の間、わたしは、ほとんど母のお下がりの

BIGIの服を着てました。

 

 

 

小5の頃かな、駅前で母と妹といる時、

「大阪の阪神百貨店に行く」と言われて、

 

勇気を振り絞って

「おもちゃ買ってくれる?」と言ったことがある。

 

本当はおもちゃなんか欲しかったわけじゃないってことも

今でもはっきり覚えてる。

 

母は「おもちゃぁ!?」と思わず言ったけど、

わたしは黙って下を向いて、

ただドキドキを鎮めようとした。

母はそのまま妹の手を引き先に歩いた。

 

 

 

そして次にわたしが母にねだったのが、

中2のあの頃。

 

デパートで買い物をしてる母に、

その隣にあったプライベートレーベルの店で

普段着たこともないような趣味の洋服を手にして

「コレ…  」と言ったんだった。

 

母は黙って、首を横に振った。

 

 

買い物してる間も、途中喫茶室でお茶を頼む時も、

わたしに直接コトバをかけたりしなかった。

メニューを差し出され、自分で頼んだ。

 

 

いつだって仕方なく、わたしを連れて行ってた。

 

店に来てる娘を置いて出かけるわけにいかない

ってことだったのかな。

 

 

 

空気をぶち壊したくて

時々わたしはくだらない話しを始めて

ことさら大笑いして見せたことがあった

 

黙って聞いてた母は

(やり過ごしてただけかもしれないけど)

大声を立てたわたしに、ピシャリと

「バカ笑いするんじゃありません」

そう一括した。 

 

小学校高学年から中2までの間に、

それが何度かあった。

 

いつもわたしが空気を壊そうとして

それをピシャリと一括する母。

 

まったく進展しない。

 

 

多分そーいうやり取りに疲れたのか

通じ合わない気持ちに諦めたのか、

 

 

 

わたしは心から母を消した。

 

 

 

 

デパ地下でモロゾフの缶やロゴを見たり

ユーハイムやドンクを見ると、少し気持ちが沈む。

 

なのに、ユーハイムのミートパイが期間限定で売られてると

思わず買ってしまうんだよね…

 

ターンテーブルのある中華料理店がキライなのも

中華料理に気が進まないのもは多分それが原因。

 

MOGA やCOMSADEMODEの載ってる雑誌で

気持ちがザワつくのもきっとそう。

 

 

 

 

母のことを好きだと思うことは一度もなかったけど

それでもわたしにとっては唯一、たった一人の母。

母からたくさんのことを学びたかった

たくさん教えてほしかった。

 

母の真似をしたかったけど、

真似したいと思うところはなくて、

 

 

 

 

そーか。

だから母のそばにいて、

少しでもいいところを

見つけようとしていたのかもしれない。

 

 

 

 

 

だから消したんだ。

 

 

だから、自分が母に探したところや

自分が母からして欲しかったことを、

もう真似したい相手がいないから

自分で探して、

自分で見つけて、

自分がやればいいって思ったんだろうな…

 

 

 

 

【母は なにか伝えたかったんだろうか…】

https://ameblo.jp/koba-mm/entry-12565655431.html