久しぶりに映画を見た。

北野武監督の「菊次郎の夏」である。

以前に「その男、凶暴につき」を見て、芸人の一面しか見たことのなかった北野武の感性に触れ、こりゃ凄いと他の作品も見たくなった。

「その男、凶暴につき」はまた追々描こうかなと思うが、今回は「菊次郎の夏」だ。

 

まず、驚いたのが久石譲の「summer」がこの映画のために作られた曲だったことだ。冒頭や至る場面でこの曲がかかるのだが、完璧にマッチするのだ。いや、マッチするというよりかは、場面場面をより引き立たせるというか。

 

北野武の映画は匂いがする。何気ないシーンや、どうでもよさそうに見えるシーンのチョイスがめっちゃいい。自分の子供の頃の夏の記憶が五感を刺激しながら蘇るのだ。持論だが、人間の感性というものはコンピューター以上にいろいろな情報を受け取っていて、既存する言葉だけでは説明しきれないことがあると思う。例えば「色即是空」なんていう一見矛盾した言葉があるが、それを説明しようとすると何百何千という言葉が必要になるだろう。だからこそ小説や映画やアートが存在するのだと思う。北野武の映像には膨大な情報が詰め込まれている。

 

最近、デジタルジェネレーションが映画やドラマなどをスキップしながら鑑賞するという話を聞く。まぁ自分もそうなのだが。「菊次郎の夏」は静のシーンが多いにも関わらず、一つもスキップしないで見入ってしまった。あ、謎のダンスシーンはスキップしようかとは頭をよぎった。(まぁ、あれはちゃんと子供のみる悪夢を表現していたが、長い。長さも含めて悪夢を説明していたのかもしれないけど)

 

そう考えると、商業的に消費される今の映画は情報量としてはとても薄いと思う。あまり映画、映像に触れない人ならいいかもしれないが、無料でいろんな映画を漁る世代にとっては既視感に溢れたつまらない映画でしかないだろうから、スキップしてしまうのだろう。

 

思わぬところに話が飛んでしまったが、「菊次郎の夏」は文句なしに面白かったということで。

 

劉慈欣(リュウ・ジキン)が書いた中国SFの金字塔。

 

ふわっと噂は聞いていたが、やっと重い腰を上げて読んでみることに。

 

きっかけはなんだったっけ。最近、中国に興味津々なのかも。

 

色々な民族が入り乱れていて、地域によってまるで違う文明なのに、一つの国として動いてるのは面白い。

 

三体を読んでわかった中国の実態・・・謎。

 

そうなんです結局よくわからんです。

 

 

 

三体が他のSFと違うなと感じたのは文明の差異に敏感であること。かも。

 

地球外の文明を遥か先のテクノロジーを持った恐ろしいものと曖昧にするのではなくて、

 

どんな環境でどのように文明が育って、じゃあそこで育った生命体はきっとこうなるだろうね。という理屈が立っている。

 

そこで劉慈欣が定説した暗黒森林の定理が以下の2文。


1. 文明は生き残ることを最優先とする。
2. 文明は成長し拡大するが、宇宙の総質量は一定である。

 

ほほぅ・・・。

 

宇宙人はいるかいないか論争(フェルミのパラドックス)の新しい解釈である。

 

この辺りは書き始めるとキリがないので。

 

 

 

3部作らしいが、2部までしか日本語訳が出ていないので、3部を読みたければ中国語か英語で読むしかない。

 

英語で読めなくはないだろうが・・・この分厚い内容を他言語で読むのはきつい。

 

 

 

関係ないが、くるりの「琥珀色の街、上海蟹の朝」は中国SFにインスパイアされただろうな。

 

岸田氏、おそらく、読書家。

 

あぁ上海蟹食べたい。