久しぶりに映画を見た。
北野武監督の「菊次郎の夏」である。
以前に「その男、凶暴につき」を見て、芸人の一面しか見たことのなかった北野武の感性に触れ、こりゃ凄いと他の作品も見たくなった。
「その男、凶暴につき」はまた追々描こうかなと思うが、今回は「菊次郎の夏」だ。
まず、驚いたのが久石譲の「summer」がこの映画のために作られた曲だったことだ。冒頭や至る場面でこの曲がかかるのだが、完璧にマッチするのだ。いや、マッチするというよりかは、場面場面をより引き立たせるというか。
北野武の映画は匂いがする。何気ないシーンや、どうでもよさそうに見えるシーンのチョイスがめっちゃいい。自分の子供の頃の夏の記憶が五感を刺激しながら蘇るのだ。持論だが、人間の感性というものはコンピューター以上にいろいろな情報を受け取っていて、既存する言葉だけでは説明しきれないことがあると思う。例えば「色即是空」なんていう一見矛盾した言葉があるが、それを説明しようとすると何百何千という言葉が必要になるだろう。だからこそ小説や映画やアートが存在するのだと思う。北野武の映像には膨大な情報が詰め込まれている。
最近、デジタルジェネレーションが映画やドラマなどをスキップしながら鑑賞するという話を聞く。まぁ自分もそうなのだが。「菊次郎の夏」は静のシーンが多いにも関わらず、一つもスキップしないで見入ってしまった。あ、謎のダンスシーンはスキップしようかとは頭をよぎった。(まぁ、あれはちゃんと子供のみる悪夢を表現していたが、長い。長さも含めて悪夢を説明していたのかもしれないけど)
そう考えると、商業的に消費される今の映画は情報量としてはとても薄いと思う。あまり映画、映像に触れない人ならいいかもしれないが、無料でいろんな映画を漁る世代にとっては既視感に溢れたつまらない映画でしかないだろうから、スキップしてしまうのだろう。
思わぬところに話が飛んでしまったが、「菊次郎の夏」は文句なしに面白かったということで。