東京タワー オカンとボクと、時々、オトン |  ◆ R I N G O * H A N

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歌うパステル画家5*SEASON鈴御はんの蒼いブログショー

内なるタワー

In My tower


それはまるで、独楽のようにきっちりと、ど真ん中に突き刺さっている。
東京の中心に。日本の中心に。ボクらの憧れの中心に。


リリー・フランキーさんの著書
『東京タワー』の出だしを読んだとき、
頭の天辺から炭酸ガスが抜けるかのように、
とんでもなくスッキリした。
ああ、そうか、そういうことか、
東京タワーはそうだ、
だから、ふいの東京タワーに私は弱い。
それを目にした時、
とんでもなく胸が締め付けられたり、
思い余って泣いたりしてしまうのは、
ヤツが“突き刺さっているから”なんだ、
憧れとして、中心として、
日本の、東京の真ん中にスクっと。

東京タワーは突き刺さってる、
地面にも、私の左胸あたりにもシッカリと。
それは東京の魔力がそうさせるのか、それとも⋯?

東京で暮らすようになって、もう10年になる、
こちらの暮しに慣れないはずはない、
けれど、なぜだろう、
いつも喉元に魚の小骨が刺さったかのような、
手のひらのどこかに棘が刺さっているような、
得体の知れないチクッとした“何か”があって、
でも本当は 何もないのかもしれないのに、
その“何か”ときたら、
時に故郷の京都を想ったりすると、
急激にジンジンして、いったいそれは
なんだなんだ、いったい何だろう、
ずっと考えてたのに分からなかった。
でも、そっか、東京タワーか。
ヤツはかつての日本の憧れを背負っているだけでなく、
東京砂漠で迷い飢えた者を、
ほんの一瞬で和らげてしまうし、
初心 思い出させるに充分な輝きを放っている。
つまり、東京タワーは、原点。
そして回帰する。つまり、母。

「母=東京タワー」

母は私の“ささえ”。
そして“弱味”。
ときに思うだけで涙する。
親不孝してる、いつ孝行できる⋯?

『東京タワー』は
リリー・フランキーさん ことボクと、
母親のオカンが物語の中心で
父親のオトンは時々しか登場しない。
まさに副題どおりに「時々、オトン」なのだけど、
このオトンが実に おいしい人物だ。
オカンにくらべたら、
まるでポツポツしか登場しないオトンなのに、
“ボクの人生”への関わり方ときたら、
ポイントを押さえ過ぎるぐらい押さえているから
効率的に まずオイシイ。
しかも、オトンの印象は物語の前半ではサイテーだが、
徐々に好感度アップアップアップゥ~
もうツボ押さえまくり、実にオイシイ役回り。
いや、このお話は実話なのだから
役ということばは失礼なのだけど、でも つまり、
「だんだん好かれる」というのは実に微笑ましく、
それは「だんだん運のめぐりが良くなる」と同じで、
物語がハッピーエンドで着地してくれたほうが、
ぜったいに読後感は よろしく好ましい。
だから、この物語の空気が
一気に笑えない方向へ走り出してからも、
オトンのおかげで読んでいる側は救われる。

人生って、こう。
ひとつなくしたとしても、ひとつ手に入れる。
この繰り返し。
誰かと別れても、別の出会いが必ず待っている。
『東京タワー』は端的にいうと、こんな話。
なんていうと達観しすぎか、いやいや、
とんでもない、私は出だしの二行で
これは泣かされるに ちがいないと腹をくくり、
実際それは大当たり、
メソメソと涙をこぼしながらページをめくった。
ただし多くの読者が後半の部分、つまり
ボクが「死」と向き合ったあたりから号泣した⋯
と想像するけれど、
私の場合は前半から中盤にかけてだった。

オカンとオトンの、ボクへのさり気ない愛情、
よもすれば見逃しそうな
ささやかな親としての思いやりに、
ジワッと泣けて泣けて。
オカンの弁当とか、オトンが作った木の船とか、
どうにもこうにも不器用な親ふたりと、
自分のことだけで精一杯の息子、
この力一杯生きているから噛み合わない三人家族が、
私の子ども時代の記憶とも重なって、
瞼から熱いものがボトボト落ちた。

物語の最後の、「死」に関しては、
書き手は身を切り裂くような想いで
懸命に綴られたのではないか、
もしかしたら嗚咽ながらに書かれたかもしれない、
そんな気がしたので、
読む側の私も気を引き締めて、
しっかり読み、きっちり向き合おうとした、
だから涙で読めない、そんなことではいけないと、
一字一句、頭に刻むように読み、正座した。
怖いけれど、やがて私にも“その日”が来るのだ⋯。

物語を読んでいるとき、
私に突き刺さっているだろう東京タワーが
キリキリキリキリ回転し、胸が痛んだ。
作者は私よりたった一年あとに この世へ生まれて来た人、
まぎれもなく同世代で、同じ時代を生きたその人が、
まだ私が味わったことのない痛みを
真正面で受け取っている、その姿に感動し、
やはり涙を流さずにはいられなかった。

『東京タワー』、
これは自分の思想を追求するものでも、
感動を創ろうと意図されたものでも、
芸術性を極めるために書かれたものでもないだろう、
作者が自分と向き合うために綴られたもの、
私はそう思う。
だから読後は「もっと巧妙に」などの
ごたく 云々を述べるのではなく、
読者は自分の生い立ちの中から、
キラリと光るものを取り出して今一度ながめ、
一番 見つけやすいところに置いておく、
そうするのがいい、たとえば
日本の中心に立つ東京タワーのように。
それは リリー・フランキーさんご自身による、
紅白に金をほどこした
“オメデタイ装丁”をも語っている。

この本、生きるのが下手で、体当たり。
駆け引きが苦手で
真正面からぶつかって 傷付いてばかり、
そんな人にとっては忘れられない一冊になるのでは。

だとしたら私は近頃、ずるさを覚えたかも。
いや、心身共に強じん⋯? いえ、それとも⋯。



●リリー・フランキー


リリー・フランキー
東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~