従来の英語教育は教科書「を」教えてきたために英語力が十分身につかなかった。
教科書は静的でコミュニケーション能力の醸成には役立たない。
従って、今後は英語を使って何かができるように教科書「で」教える教育へ変わるべきだ。
例えば、電化製品の説明書を例にとろう。
説明書を読むことが目的か、説明書で電化製品を使えることが目的か。
勿論後者である。つまり、教科書を読破するのではなく、教科書をいちツールとして授業で活用しつつ英語を使えるようにする授業展開を試みるべきだ。
と。。
果たしてこれは熟考の末の結論なのだろうか?
お久しぶりです。
といっても読者はいないと思いますが、、、
また機会があれば更新していこうかと思っています。
さて本題へ戻ります。
この考え方はおそらく専門用語でイマージョン教育、CLILなどといったTBLT(Task Based Language Teaching)「タスク基盤型授業」の授業形態を中心に考えた指導法であろう。
確かにタスクを課したり、英語で教えることで認知的処理が早まることは可能であろう。
しかし、公立学校における教育はその程度で留まってよいのだろうか。
筆者は、浅い教育に陥るのではないかと危惧している。
そもそも「教科書を教える」で留まってならないという主張は教育の崩壊を予兆しているように思えてならない。
まず、教科書だけでは教えきれないと考える現場の教員がいるとするならば、彼らは自分たちが使用する教科書への信頼性が著しく欠けているといえる。
また、彼らの感覚が正しいとするならばそれは教科書を作成する側が能力不足である。
最近の教科書はあまりにも「上手く」作られている点も考慮に入れると教科書を作成している側と使用している側に信頼関係がほとんどないといえる。
また、信頼関係の崩壊に留まらず良質な教科書が生徒に行き届いていないことは明らかである。
ある意味現在流行りの浅い浅いコミュニケーション重視の傾向はこの辺りからも生じているのかもしれない。つまり、教えるに値しない内容に終始した本を教えるくらいなら、本を片手に口頭の英語力を向上させた方がマシだというわけだ。
筆者の主張としては、「教科書を教える」に真摯に向き合うべきだ。
生徒に教える価値のある教科書を作り、現場はその教科書の魅力を最大限に伝える。
そのうえで、発展として教科書の内容から関連する事項を用いた「教科書で教える」に通ずるのではないか。
筆者が提案するのは、文学教材を用いた指導である。
第一の理由はその作者にある。彼らは天才である。多少教養がある凡人の極みである教員や教授とは次元が違う。彼らの言葉一つ一つが藝術である。
第二の理由は、奥深さである。
教育者でもあり、文学者であったD.H.Lawrenceは、4冊の本を読むより1冊の本が4度違って読めることこそ価値があると説く。
1 lessonが終わると2度と読み直さない教科書ではなく、何度も何度も味わい、そのたびに見えるものが変わってくる文学教材であれば「教科書を教える」に値する。
また、Lawrenceは理解しきれないところに読む魅力があると述べている。つまり、先人たちも語りつくせなかった文学作品であれば読むに堪えうるのではないか。
深い捉えどころのない魅力にこそ、コミュニケーションの面白さが垣間見えるのではないか。
深夜で頭がボーとしてきたのでこの辺で終わらせて頂く。
誤字、脱字、論の飛躍に関しては随時訂正させて頂く。
ブログ復帰戦はなかなかの長文になりました。
