前回の「神の目からの弁護士批判」について考えてみます。

 

・ 弁護士は他人の喧嘩の一方に肩入れする仕事、・ 着服したり詐欺をする弁護士もいる・・・。

 着服して刑務所に言っている弁護士は複数います。検事がそう言っていたと言うと、弁護士界の中では「それは元検察官が多い」などと言われます。それはともかく、それを弁護士一般についてのイメージのように言えるかは考えなければいけないところです。

 「喧嘩の一方への肩入れ」は、表現の問題で、民事事件では一方の側に立って主張立証をするのが日常です。必要以上に声高に言うようなこともあるでしょうが、その程度のことは裁判官が対応しています。

・ 高額の報酬を払う依頼者を大事にする。「勝ち組」の側に立つ・・・。

 難しいことですが、資本主義の社会の中で、これと逆の対応は難しいと思います。

・ 裁判では、迷った後で説明を変えた人を切り捨てる・・・。

 説明を変えただけで切り捨てるようなことは見たことがありません。程度の問題で、私は司法修習のときに、「3回も説明を変える人は信用できないんじゃないでしょうか・・」と意見を言ったことがあります。日常の社会も同じで、普通は納得できる説明に時間がかかっても、説明は徐々に確かになるものでしょう。説明変えた場合に、変えた理由はどういうことですか・・と聞かれても仕方がないところと思います。

 

                 

 

・ 司法試験の勉強の段階「無駄なことをしない」、「損か得かを見分ける」能力を身に着けている・・・。

 これは特に裁判官に言いたいのだと思います。一般社会でも同じで、通常のルールとかけ離れたことをした後で、「外国の学者は」、「真の原因は」というような長い説明をされることは珍しくありません。

 民事裁判では、裁判官は、双方の主張と立証の範囲で判決をするのがルールで、基本になる直接証拠を第一の基準にします。それに対して山積みの書類が出されても結果に影響しないのがルールです。これと逆の場合がどれだけ怖いかを考えれば分かることです。

 私は目にしたことがありませんが、税務などの必要のために予め打ち合わせた証拠だけ出して判決を下さい・・ということもあり得ます(仮定ですが)。裁判官は出来レースであることが薄々分かっても法廷の主張と証拠の範囲で判決するのがルールです。これに対する批判は裁判の外の世界の問題になります。特に司法消極説(司法万能論でない)ではこのようになります。

・ 弁護士の増加で人権派弁護士の基盤は失われ・・・。

 この筆者は弁護士の肩書のペンネームで言っているので、私も少々の想像を交えて意見を言うと、私にはわが国において人権の保護は後退していないし、人権を扱う弁護士の基盤が失われる理由もないと考えています。

 弁護士の増加で、長年弁護士界を支配してきた「人権派」弁護士グループの政治力が低下したことはあるかもしれません。

・ 不動産業や金融業のビジネスマンのイメージ・・・。

 今では、弁護士が数百人いるような事務所の弁護士が全国で2000人にもなっている。これは大企業のビジネスマンと同じといえる。私の知っているだけでも、こういうところを辞めて身近な弁護士を目指した人もいるし、大事務所を辞めて検事になりその後最高裁判事になった女性の弁護士・元検事もいる。

 考えられるのは、ビジネスも、それに携わる弁護士も、常に人権を頭の隅におけるような進化を期待することで、どの世界でも理想は理想であり、それを認識しているかどうかの問題と考えている。