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自殺願望はないが(笑)タイトルに惹かれた\(^O^)/

「避けて通れない、人生における最後の大問題」

「先達が教えてくれる「死に方」読本」


必要ねー\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/


よくもまーこんな帯が付けられたもんだな、出版社ww

そうです、売るためには何でもありなんです(`´)キリという商業主義丸出しの帯だズラ\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/


さて内容は決して「死に方読本」ではなく(笑)、先人たちが死に至るまでの話が若干の私見を添えて書かれているというもの。


以下はうちが読んだ先人達の死の話から。


●江藤淳

江藤淳と言えば、今の若い人は知らない方が多いのかもしれないが、保守の論客として名を馳せた文芸評論家であるほっとした顔ぴかぴか(新しい)

そして、この本の作者である福田和也氏を見出だした人物でもある

つまり福田氏の師匠である。


さて福田氏が言うように、論壇で活躍していた頃の江藤淳氏は決して自殺するような人物ではなかった。

「生きるに値するから生きるのではない、何ものかへの義務のために生きるものだ」

「ある瞬間から死ぬことが汚いことだと突然感じるようになった」

と生前江藤は述べていたからだ。

さらに言えば、江藤淳は後に出てくる三島由紀夫の自殺も「病気」と批判していたのである。


その江藤が1999年に自殺した訳である。

江藤の自殺は、今日「最愛の妻の死が引き金となった自殺」という評価が通説的見解であるが、最愛の妻を亡くしてからも最期まで生き抜いた城山三郎氏のことを考えると、なんとも江藤の死は遣り切れない想いが残るばかりである。

●有島武郎

そもそも有島武郎が自殺したことを知っている最近の人がどれだけいるのかは少し気になるところだが…

本によれば、有島は若い頃内村鑑三の弟子と同性愛の関係になり、自殺を試みるも失敗

ここまではまだ分かる。

その後、創作活動に精力的に取り組む中で、今度は女性関係がお盛んになる…




マジか\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/


んで戦前にあった姦通罪を恐れて有島は自殺…




これ読んで、昔有島武郎の自殺にはきっと深い文学的悩みがあったのだと思っていた自分を猛烈に恥じました\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/


有島のバカン\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/



●芥川龍之介

「唯ぼんやりとした不安」と書き遺して死んだ芥川

本によると、芥川の神経質な性格とプロレタリア文学の台頭、睡眠薬使いすぎておかしくなった友人の宇野浩二(後に復活ww)が禍して自殺したらしいです。

●太宰治
太宰は、「自分の生」は「仮構的な抽象的な生」であり、そのフィクションを完成させるためには死を選ばなければならなかった

と太宰嫌いの福田氏(笑)は指摘しています。

この指摘については、太宰の一番有名な『人間失格』における太宰の考え方を踏まえると恐らく正しいと思いますし、全く同意見です

●三島由紀夫
三島は死を覚悟していたけれど、決して死だけを求めていなかったのではないか。市ヶ谷の自衛官のなかで、三島に同調するもの、蜂起に参加する者がいれば、刀をふりあげて、走りだしたのではないか。たとえ万分の一でも、十万分の一でも、維新の可能性を信じていたのではないか

と三島好きの福田氏(笑)は指摘しています。

50%は同意見ですね。なお、三島の死は今日この種の意見が通説的見解です。まー私の場合、太宰にせよ三島にせよ、もう少し文学的見地から自殺の要因があったのではないかという立場をまだ捨てきれていないので保留します(^^)るんるん

●川端康成
川端康成は日本人初のノーベル文学賞を受賞した数年後に、逗子マリーナで、原稿を執筆している時(岡本かの子全集推薦文)に、原稿を残したままガス毒自殺しました。

福田氏の言葉を借りれば、「突然思い立った」かの自殺でありました。

福田氏は川端の『地獄』を例に挙げて、川端は「生と死の世界が曖昧」であると考えており、「人は死ぬのは簡単だが死後に存在すると考えられる魔の世界に入るのが困難だ」と考えていた。

だから川端は平然と自殺できた。何とも恐ろしく、無気味な自殺で、川端はもしや人間ではないのではみたいな指摘をしています。



オカルトか\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/\(^O^)/

川端の自殺は今後のうちの研究課題の1つです(^^)
粘りの交渉で「超大型案件」森ビルの森稔会長死去(日本経済新聞)
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819696E3E0E298E48DE3E0E2E1E0E2E3E08698E1E2E2E2

森ビルの森稔会長が死去…六本木ヒルズ手がける(読売新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120312-00000876-yom-bus_all

森稔氏死去:都市再開発に情熱 上海でも高層ビル(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/biz/news/20120313ddm008020127000c.html

名を馳せた昭和の経営者がまた1人亡くなったことをニュースで見て、コラムを書かずにはおれませんでした。

そこで今から森ビル会長森稔氏の話をする訳ですが、話の取っ掛かりとして、まずは森会長と旧知の仲だったリクルート創業者江副浩正氏の本から森会長を紹介していきますほっとした顔ぴかぴか(新しい)

ところで江副氏と言えば、あのリクルート事件の江副氏ですが、その是非は別として、江副氏が生み出した「情報がカネを生む」ビジネスモデルは凄いなと当時大学2回生の私は感心したものです。

ただリクルートは嫌いな会社ですけどね(笑)


さて本題です。
●森稔さんのビジネスモデル
 私が森さんと知り合ったのは、リクルートの創業グループで東大駒場寮で森さんと同室だった名前が一文字違う森村稔を通してであった。森村の話で は、森さんは駒場寮の中で建物の図面を描いていて、外壁の色などを森村が相談されていたとのこと。当時学生だった森さんは父(森泰吉郎氏)を手伝い、学業 よりビルづくりに熱中していた。

 森ビルの成功の大きな要因は、近隣地権者との共同建築というビジネスモデルき切り換えたことである。
 森ビルのナンバービルのほとんどが地権者との共同事業であり、アークヒルズ、六本木ヒルズ、表参道ヒルズなどである。安藤忠雄さん設計の表参道 ヒルズは、戦前からの同潤会アパートの居住者や店舗経営者と、長年にわたって交渉を重ねて完成した。アークヒルズ、六本木ヒルズもその権利調整の交渉に 20年近くを要している
 一人の反対があっても街は出来ない。長い時間と根気を要し、大きなリスクが伴う事業である。しかし成功すれば、大きなリターンが得られる。
 森ビルは権利調整の専門家集団で日本有数の「大家」に成長し、高収益会社になった。そしてその蓄えでさらに大きな権利調整事業に進出することが可能になった。ナンバーワンが強いビジネスモデルの一つである。

●江副氏の話を踏まえて
 森稔氏が今日長者番付に載るほどの人物になり、森ビルが安定企業となった所以は「時代の潮流」を読み切った点にあると思う。
 一つ目は高度成長期における東京のオフィスの売り手市場である。他方で、当時大蔵省が決める銀行の融資順位は上位が製造業で、不動産業は下位 だったため、東京は深刻なビル不足であった。ゆえに従来から都内の主要地域に土地を有していた森ビルは高収益を保つことが可能だった訳である。
 二つ目はバブル期に積極的な不動産投資を行わず、近隣地権者との共同事業という手法を採ったことである。あくまでも「大家」としてのビジネスモデルに徹した森稔氏の慧眼である。
 だが無論それだけではない。複雑な感情が入り交じる権利調整をやり遂げ、かつレジャー施設として圧倒的ブランド力を誇る六本木ヒルズなどを造り上げた最大の要因は、やはり森稔氏の人柄にあったのだろう。

●森稔氏の人柄
 無料で掲載する会社が四十社ほどだったため、大日本印刷への頭金が、これまでの蓄えと申し込みを受けた会社の前受金ではまだ50万円ほど足りなかった。
 貸付課長の浅川さんからは「お貸し出しの実績もなく、担保もないお話なので……」と断られた。それでも粘って「そこを何とか」と私は懇願した。
 雑談で森稔さんは大学の先輩で親しいと話したら、浅川さんの表情が変わった。
「森ビルに事務所を借りたとき、保証金をいくら払っているの」
「60万円払っています」
「その保証金を譲渡担保(返済できなければリクルートが森ビルを出て、森ビルに払った保証金は信用金庫に渡す)にするとの森さんの承諾書を貰えれば、私が本部と交渉しますよ」
 私は早速、森さんに頼んだ。
 保証金は、通常ビルを借りている会社が家賃を滞納したときのために差し入れるもの。それが譲渡担保にされることはない。だが森さんの好意で譲渡担保の承諾書をもらい、信用金庫に持っていき、融資が実現した。
 この融資がなければ、『企業への招待』(後のリクルートブック)は頓挫していたはずだ。

江副浩正『リクルートのDNA』61、97、98頁よりぴかぴか(新しい)

●最後に
森稔会長のご冥福をお祈り申し上げますほっとした顔