
『国際政治―恐怖と希望』
もっと重要なことは、抑止力を確実で安定したものにすることで軍備が使用される可能性を減らそうとする軍備規制は、もともと核兵器を除去するも のではないから、人々の恐れと疑惑を根本的になくしはしないことである。「脆弱でない核抑止力」を持った国の間で全面戦争が始まれば、双方とも極めて多数 の国民を失うことが確実である以上、お互いにいかに組み合っていても、全面戦争という手段に訴えることはないという状態が成立しているからである。
しかし、そうした「恐怖の均衡」は、たとえそれが安定していてもなお危険を持つことがわかる。すなわち一方においては、核兵器以外の兵器をしだいに大胆に使うようになるだろう。そして、恐怖と疑いの中に長く住むことは人々の精神を不健全にする。
軍備規制の持つ危険は、短い期間で見ればほとんど存在しないほどわずかの危険ではあるが、それが長期にわたって集積されたならば、最後には大き な災厄が訪れるかもしれない。そして、軍備規制はこの不安な平和を安定した平和に変える方法を与えない。理論的には、確かに軍備規制は軍備削減も含んでい るが、それは軍備なき世界を目指すものではない。軍備規制を説く人々はその「最終の目標」がはっきりしないことを自認している。そして、「戦争と平和と国 際紛争の問題は、一挙にこれを解決する方法を持っていない。軍備削減のすべての段階において、さらには完全軍縮がなされても、世界を平和にしておくために は、恒久的な警戒と決意が必要とされるであろう」と述べる。この言葉は疑いもなく真理を含んでいる。
また、あらゆる対立が緊張緩和策によって解決するとは限らないのであり、時には武力の限定的使用のような強硬手段も必要になるかもしれない。だ から緊張緩和策と強硬手段とを交えて、相手側の反応を見ながら、賢明に行動し、対立を和らげ、終極的には緊張の緩和に向かうという態度が必要なのである。
軍備をなくすることだけを強調するのは、意味もなければ、可能でもないことを主張することである。極端な例だが、たとえ核兵器を全廃することが できたとしても、核戦争の可能性はなくならない。我々はすでに核兵器の作り方を知ったのだから、もし実力闘争が起これば、人々は核兵器を作るかもしれない のである。
もちろん、軍事力は危険なものだし、すべての力がそうであるように、賢明に使用されない時には特に危険である。したがって、それは最大の注意と できる限りの賢明さをもって扱われなくてはならない。しかし、基本的にはあくまでも軍備が緊張を作っているのではなくて、その逆、つまり緊張が軍備を必要 としているのである。緊張を生み出す根源は普通の人間である我々の中にある。
(72-76頁)
●解説 至高のモラリスト 高坂正堯教授の国際政治学
「各国家は力の体系であり、利益の体系であり、そして価値の体系である」。この短い、一見単純な言明に高坂教授の同作品の簡潔な力強さが典型的 に示されている。高坂教授は『海洋国家日本の構想』の中で、現代においては核保有も自国を「聖域」にはなしえないことを指摘し、日本の核保有の愚を説く。 他方、核使用の代価が高い状態こそ核使用を思いとどまらせる道であって、抑止力(懲罰的報復によって相手の攻撃を思いとどまらせる)ではなく、抑制力(相 手が得たい価値を獲得するためのコストを高くする)としてのある程度の通常兵力を持ち、アメリカとの友好関係があれば、日本に対する攻撃は抑制できると結 論付けている。
高坂教授の国際政治に対する分析手法は、イギリスの経験主義に近い流儀、すなわち、できるだけ事実を正確に追いながら、そこから常識に適合した一般化、抽象化を行うという手法であった。
「常識は常識だけを得ようとしても得られはしないのである。何か非常な努力を挫折を必要とする専門的なことに関わって―そして多分挫折を味わって ―常識は身につく。それに、現に起こっている事を理解するためにも専門的な知識がなくてはならない。しかし、専門家の判断はしばしば間違うことがある。専 門家の正しいか誤るかの分かれ目は、まず専門能力を得る際、それをどのように抽象化するかにあるように思われる。悪い方向は、専門家の間だけで通ずるよう な原則へと行くことであり、良い方向とは常識に合致し常識的に理解できるものとすることである」
高坂教授のこうした姿勢を方法論において不徹底な折衷主義という批判がなされるなら、それは全く的外れな批判でしかない。高坂教授にとっては、 いかなる方法も完全ではなく、もっとも忌むべきは、単一の方法論に偏執する「過慮」の精神であった。いかなる方法に基づいても、よい研究、よい知的分析に は価値があり、そうでないものは価値がないのであった。
(620-642頁)