「むかしの人の詩にありました」ではじまる相田みつをさんの「憂」という詩の「むかしの人の詩」の言葉です。
何も言わなければ、まるで何の憂いも無いかのように見える。
明るく振舞っていれば、なんの苦労もなく、悲しみも経験したことがないかのように見える。
でも、どんな人の人生にも、人には言えない悲しみやつらいことはあるものです。
口に出して説明しても、誰にも分かってもらえない悲しみ。
それを受け入れ、あえて口にすることなく、黙って、ただ静かに生きていく。
そういう人の心は、誰を責めることもない。
そういう人の眼差しは、穏やかで澄み渡っている。
それは決して投げやりな「あきらめ」から来る世捨て人の目では無い。
それはむしろ、物事をあるがままに受け入れた「明らかに見極める」という意味での「あきらめ」。
言い換えると「心の平安」と共にある澄んだ美しい目。
そういう人を見て、人は「幸せそうな人」と簡単に言う。
でも本当は、
じっと 黙っているから
眼が澄んでくる
のかも知れません。
耐えることも、我慢することも、美徳とはしなくなってきた今の時代。
何でも口にして表現しなければ分からないという人が多くなってきた今の時代。
だんだんと、人の心の奥底に心をはせて、人の心の真実を知ろうとする力も失われていっているのではないか。
それの良し悪しは別にして、ときどき、そんなふうに感じてしまいます。
詩の最後をこうまとめています。
澄んだ目の底にある
深い憂いのわかる人間になろう
重い悲しみの見える眼を持とう
君看よ
双眼の色
語らざれば憂いなきに似たり
語らざれば憂いなきに似たり
自分本位な人との関わり方をしていては、人の本当の心の奥底に触れることは出来ない。
憂いが分かる人間に
そういう人に自分もなりたい
