さっき、ふとある言葉を思い出した。
それは、予備校に通っていた時にある人から言われた、「あなたに悲しむ資格は無い」という言葉。
これを言われたとき「悲しいと思うのには、誰に言っても頷いてもらえる、恥ずかしくない理由がいる」ということを知った。
もちろん、その人が私にこの言葉を掛けたのにはちゃんと理由があって、それはその予備校に、詳しくは書けないが家庭環境が複雑な生徒が私と同時期に通っており、それでもちゃんと学校や予備校に通って、常に明るいそうなのだ。
だから、「かのさんにはちゃんとご両親がいて、(不登校、通信制高校、予備校など)自分のしたいようにさせてくれるんだから」、「あなたよりもっと現実的に辛い人が、世界なんて言わずともこんなに近くにいるのだから」、
「あなたは悲しんではいけない、悲しむ資格が無いよ。」「そういう(辛い人に)失礼だよ」
こう言われた。
基本、私の悲しみ(苦しみ)は理解されない。
「なにかあったの?」 現在は、まあ皆から見たら無いんだろう。でも、過去にはあった。その記憶に現在まで引っ張られてきた。
「なにが辛いの?」 過去の記憶や、自分自身の問題(鈍臭い、話せない、コミュニケーションが取れないetc…)、家族の事…。でも一番は、自分の考えや感情が、まったく他人に伝わらないことと、共感してくれる人が居ないこと。
私が一番辛かった時もそうだ。
「辛いのは皆同じ」、「ももなが悪いんじゃないの?」とか、「もっと辛い人が世界には…」こういう言葉で済まされた。そのくせに、私が暗い気持ちを抱えて過ごしているとけろっとした顔で「なにかあったの?」とか聞いてくる。
私は話したのに。無駄な時間だった、誰も聞いちゃいない。
私は、考えを尽くして分かりやすい話にすれば、誰もが自分の話を聞いてくれるというとんだ勘違いをしていた。
「辛いことがあったら周りに話すんだよ」。こう学校の先生も、親もテレビも言ってくるから、それをすっかり信じ込んで「辛い時はそうするのが理想」、「そうしなければならないんだ」と義務感のようなものさえ抱いていた。
でも違う。どれだけ前もって頭の中で構想して、出来る限り分かりやすく話をした所で、はなから耳を貸す気の無い人もいるのだ。自分と ““対話”” をする気が、最初から無いということ。
「どうすれば話を聞いてもらえるんだろう」「相手に伝わるように、もっと考えを深めて明確にしないと…」
→ 違う。最初からお前の話など聞く気が無いのだ。どう頑張ったって多分無駄。お前のことが苦手なんだよ。
それは自分の態度、話し方、話している内容、容姿、雰囲気など、どこかしらが相手の癪に障って、こちらの話を頭に入れる余裕なんてないから。あまり自分のことをよく思ってないから。
考えてみれば当然のことかもしれない。他人のネガティブな話を聞くのは、顔も知らないネット上の人ですら鬱陶しいと思う(ストレスになる)こともあるくらい、それほどエネルギーの要ることなんだから。
話を聞いてもらうには、相当自分を好意的に思っている人でないと無理なんだなーと、今このブログを書きながらも感じている。
でも、本当に辛いことって論理的じゃないというか、矛盾しているようなことの気もするんだよなあ…
いつかもう一度このことについて書くかも。
では👋