迫っていく本番の日。
システム移管には本来、十分な検証やリハーサルが必要であるが、とてもそんな時間を確保できなかった。
ただ過ぎていく時間。
縦割り社会の弊害であるが、部署間ではそれぞれの上司の面目があり、一担当者が「できません」とは言えない状況であった。
上にも下にも頼れる人はいなかった。
やれることはやった。
後はなるようにしかならない。
まさに神のみぞ知る。
私は腹を括っていた。
…
しかし、そんな心配をよそに、大きな問題もなく本番を乗り越えた。
自分の力では決してなかった。
担当システムの難解さを知り尽くす私だからこそ分かる。
神が働いたとしか思えなかった。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
コリントの信徒への手紙一 10-13
私はこの聖句を教会時代から好んでいた。
しかしそれは何となく目の前の苦難や責任から逃れることに対する言い訳として考えていた節があった。
その聖句をもとに休職か、転職か、悩んだ日々もあったが、
神に委ねること、それが逃れの道だったのだ。
物事に対して出来るところまで頑張る。
しかし結果は全てを計らってくれる神様にお委ねする。
無責任ではない、責任と信仰のちょうどよいバランスを神様によって示された気がした。
本来我々のような一般信徒の仕事は、霊的な働きと比較すると取るに足らない存在かもしれない。
しかし神は、こんな小さな存在である私の、こんな些細なところまで心遣いをして下さったのだ。
それならば、なおのこと私の人生や家族についても心遣いをして下さっているのだろう。
不思議にそんな確信が生まれ、晴れやかな心になった。
…
ふと人生を振り替える。
全ては線で捉えるべきだったのだ。
脱会後、神が沈黙した理由が何となく分かった気がした。
全てが順調に進んでいたら、今の私はいない。
世間や仕事を軽んじ、
与えられること、愛されることを当然だと感じ、
自身を善人だと誤解し、過信し、傲慢になっていたかもしれない。
全てを失って初めて、私は当たり前であることがいかに難しく、恵みであるかを知った。
もちろん私は多くの過ちを犯し、神が望まない道を選んだこともあっただろう。
全てが正解だったとは思わない。
しかしそれらを超越して、全てを益として下さる神の計らいがそこにあった。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、
万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
ローマの信徒への手紙 8:28
「主は愛する者を鍛え、 子として受け入れる者を皆、 鞭打たれるからである。」
ヘブライ人への手紙 12:6
…
全ては私を謙遜に、そして強く鍛えるための訓練だったのだ。
神は教会から離れた私を見捨ててはいなかった。
苦しい時も、絶望する時も、ずっとそばにいたのだ。
神の愛が私の心に触れた感覚があり、私は涙を流した。
ついに光が見えたのだった。
つづく