ルイ・ラヴェル『〈私〉とその運命』(4)― 内的自己意識から万有の内部への透入へ | 内的自己対話-川の畔のささめごと

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ラヴェルは、旧来の形而上学を転倒させることで形成されたベルクソン哲学における新しい形而上学の正統的継承者の一人、おそらくその最後の一人である。

その意味で、ラヴェルはベルクソン哲学の最もよき理解者の一人と言うことができる。しかし、そのことは、ラヴェルがベルクソン哲学の単なる忠実な後継者であるということを直ちに意味しない。むしろ、ある点においてその厳しい批判者でもあったことは、ラヴェルのベルクソン論にはほとんど『創造的進化』への言及がないことからも推量できる。ラヴェルにとって、ベルクソンの「最も大胆で最も美しい著作」(Lavelle, La philosophie française entre les deux guerres, Aubier, 1942, p. 100)は、『物質と記憶』である。その純粋記憶論に、ラヴェルは、「精神の不死を経験そのものによって正当化するのに私たちに与えられている唯一の手段」(« l’unique moyen qui nous est donné de justifier par l’expérience même l’immortalité de l’esprit »)を見て取っている(ibid., p. 101)。『物質と記憶』の純粋記憶論と『道徳と宗教の二源泉』の神秘的な「完成」(ibid., p. 103)とをラヴェルは直接関係づける。このラヴェル固有のベルクソン解釈は、ラヴェル自身の哲学的直観に基づいている(因みに、このラヴェル独特のベルクソン解釈については、Jean-Christophe Goddard, Mysticisme et folie. Essai sur la simplicité, Desclée de Brouwer, 2002 の中の第三章 « L’un et le multiple » 第一節 « La pluralité des saints », pp. 139-153 が大変参考になる )。

『〈私〉とその運命』においても、ラヴェルは、『思想と動くもの』に、とりわけ、その二つの「序文」、「形而上学入門」「哲学的直観」などに依拠しながら、ベルクソンによる形而上学の定義を簡潔かつエレガントにまとめているが、その中にもまた、むしろラヴェル自身の哲学が表明されている箇所がある。

「自己意識は最初の形而上学的経験である」(p. 36)と述べている箇所で、それに続けてラヴェルはおよそ次のように述べている。

自己意識という最初の形而上学的経験は、私たちを私たち自身の内部に透入させることによって、万有の内部にもまた私たちを透入させる。かくして、私たちが私たち自身について有っており、決して切断されることのない経験を深め、膨らませることによって、私たちは現実的なるものすべての内的で漸進的な経験を獲得することができる。それは、物の内奥そのものを私たちに現前化する芸術、ある一人の他者の内奥そのものを私たちに現前化する愛、創造力の内奥そのものを現前化する神秘主義において見られる通りである。

ところが、ベルクソン自身は、〈私〉は〈全体〉と同じ本性を有っているとしか言っていない。ラヴェルは、しかし、形而上学的経験としての自己意識は己自身を深化・拡大させることで、万有の内奥へと透入することができると言っているのである。このような自己意識と万有との連続性のテーゼは、ベルクソンになく、ラヴェル固有の形而上学的直観である。