今日は、「著者前書き」(« Avertissement de l’auteur »)の一部を読んでみよう。
同書に集められた十六の哲学的エッセイは、それぞれある著者のある著作の読書経験がそのきっかけになっており、各エッセイの最初の頁の脚注に当該の著作名が明記してある。
しかし、ラヴェルにとって、それらの著作の書評を書くことが目的ではなかった。それぞれの著作はラヴェル自身の省察の出発点になっているのであり、その省察にすべての読者を参加させたいとラヴェルは願う。なぜなら、他者が考えたことを探し求めるのは、自分自身で考えなければならないことを知るためだけだからである。ある思想・学説・理論に私たちが抱く心理的あるいは歴史的関心は、真理への関心によってつねに凌駕されている。それぞれの思想・学説・理論は、私たちの精神にとって、一つの刺激、一つの手本、一つの実践例なのである。
このような考えからすべての著作は読まれ、その結果として生まれたエッセイ群であるから、そこには自ずと統一性がある。読者はラヴェルの本の中のいたるところに同じ思想の息吹を認めることになる。それは、著作やその言及箇所の選択の中に、或はそれぞれの著作が提示する異なった視角の収斂のさせ方に見て取ることができる。
ラヴェルは、その同じ思想の息吹を以下のように表現している。
諸個人(les individus)は、互いに対立し合い、相手に対して勝利を得ようと、争いに身を投じる。しかし、人間の意識(la conscience humaine)は不可分(indivisible)であり、その全体が各人間に現前している。だから、各人間は己のうちに自分と他者とを対立させているのと同じ諸々の争いを見出す。精神の生み出す作品の中に、私たちは、つねに、私たち自身の底にその芽を感じ、私たち自身においてその成長と成熟もまた獲得されなければならない生きている思想を探す。私たちすべては同じ世界の住人なのであり、同じ実存に与っている。私たちの運命は同じであり、たとえ各人は真理の一断片にしか気づくことができなくても、それらすべての断片は調和させられている。それは、各人が自分のものとしている同じ意識は、すべての人に共通だからである。諸個人は互いにとって媒介者でなければならないのに、諸個人を闘争状態に置くことは、その同じ意識を引き裂くことである。
このように考えるラヴェルは、それぞれ出自を異にする思想を一書に取り集め、それらを同じ源へと立ち返らせることによって、真理の散り散りの断片しか捉えられずにいるために、自分たちの中に灯っている同じ光に必ずしも気づいていない人たち同士を接近させ、和解させたいと願う。ラヴェルにとって、それこそが哲学であり、exercice spirituel なのである。