近くの現象学(七)― 「眼」を鍛え直す | 内的自己対話-川の畔のささめごと

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どんな武道の達人でも、目だけは鍛えることができないと言われることがあります。これは、しかし、視覚器官としての目は、筋肉のように鍛えて強くすることはできないという意味で、眼の動かし方や相手の見方や周囲へ目配りの仕方が鍛えられないということではありません。むしろ、この後者の意味での「眼」を鍛えなければ、いかなる武道においても、大した上達は望めないことでしょう。

これは何も武道にかぎったことではありません。一般に、スポーツにおいても、「眼のよさ」は、とても大切です。野球の「選球眼」などその典型ですね。F1レーサーの動体視力のよさは、常人の想像を超えるものがあります。体操選手のバランス感覚も、演技中どこを見ているかということと密接に関係があります。

もっと初歩的で、基礎的なこととして、誰にでも当てはまることは、目線と見る対象をどこに置くかで体のバランスの取りやすさが違ってくるということです。足元を見ながらと少し離れたところにある柱を見ながらとでは、後者の方が、遥かにバランスが取りやすいことは、皆体で知っていることでしょう。

学問においても、「眼」は大切だと思います。ただ闇雲に勉強すればいいというものではありません。もちろんそういう藻掻くような時期があって、その中でこそ、徐々に「眼」が鍛えられていくということはあるでしょう(ただし、しばしば視力の低下という代償を伴って)。ただ、この場合の「眼」は、真偽を見分ける能力や善し悪しを判断する能力の暗喩として使われてしまっていることが多いかもしれません。

哲学の場合は、端的に「見ること」そのことがとても大切になってきます。ある意味で、「考える」こと以上に大切です。なぜなら、私たちは、しばしば見ないで考えているか、見るかわりに考えているか、あるいは、或る考えに従って見てしまっていて、端的に「見る」ということができなくなっているからです。しかも、そのことになかなか気づけないほどに、ある考えに囚われてしまっていることが少なくありません。「考えずに、見る」ということは、頭でっかちの「知識人」や「研究者」のようなものになってしまうと、易しいことではなくなってしまいがちなのです(ここを読まれて、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』の中の「考えるな、見よ」(第六十六節)という有名な一文を想起された方もいらっしゃるかもしれませんね)。

「役に立つ」情報がいたるところに氾濫している現代に生きる私たちには、端的に「見る」ことがますます難しくなってきているように私は感じます。ある事柄がそこに立ち現れてくるのを待っていられない、それを「見て」いるだけの辛抱がきかなくなっているのです。私たちは、その「ことなり」(序ですが、先週書き上げた心身景一如論文の仏語版では、「こと(=事・異・言)なり」の仏訳を « phénoménalisation » としました)を待たずに、「答え」を出してしまったり、「結果」を求めたり、「解釈」を当てはめたりしてしまっていないでしょうか。

端的に「見る」ということは、この「ことなり」を「待つ」ことにほかなりません。現代の私たちは、その意味での「見る」時間が極端に少なくなっていて、「見る」ことを忘れかけているのではないかと疑われるほどです。

ここで、ちょっと横道に(またかよぉ、とおっしゃられませんように)。「見る」と来れば、万葉集の「見ゆ」の世界、そして「見れど飽かぬ」という表現がここでどうしても懐かしく想い出されます。

さらに横道にそれますと(おいおい、大丈夫かい?)、これは今後発展させたいテーマの一つなのですが、ちょっと本居宣長っぽく、「現象学」を「ことなりのみちのまねび」と読み、日本語の特性を駆使した「やまとことばの現象学」なんてできないかなあと夢見ています(「夢見る自由」あるいは「夢見る権利」なんて、どこの国の憲法にも、明文化された形では保証されていませんが、これを禁じている国もないですし、そもそも禁じようがありませんでしょ)。

もうひとつおまけに横道にそれますと(「そんな、おまけ、いらん」って?)、バシュラールは、「想像力は、つねに夢見ることと理解することとを同時に欲する、よりよく理解するために夢見ることを、よりよく夢見るために理解することを欲する」(« L’imagination veut toujours à la fois rêver et comprendre, rêver pour mieux comprendre, comprendre pour mieux rêver », La Terre et les rêveries du repos, 2e édition, Librairie José Corti, 2010, p. 324.邦訳『大地と休息の夢想』饗庭孝男訳、思潮社、1970)と言っています。

「見る? そんなことして何になる? それこそ時間の無駄じゃないか」と、お忙しい方々からお叱りを受けるかもしれません。「だから、哲学なんて何の役にも立たないんだよ!」と非難する方もいらっしゃるかもしれません。確かに、「忙しい人に役に立つ哲学」などというものは、金輪際ありえないでしょう

「ほんとうの哲学」としての「世界を見ることを学び直す」とは、私たちがほとんど忘却しかけている、この端的に「見る」ことを思い出し、それを繰り返し練習し、やり直すことだ、と私は考えています。それは、私たち自身が実践する「見る」ことにおいて、世界にその立ち現れるがままの姿を、世界それ自身のうちに(再び)到来させることだ、と言ってもいいかもしれません。少なくとも、私にとっては、そのための日々の実践が「近くの現象学」にほかなりません。そして、それが、いつの日か、「言霊の幸はふ世界共和国における、ことなりのみちのまねび」になることを夢想しています。