今、クローゼットの断捨離をしています。

まだどうしても捨てられない服は

若い頃大好きだったワンピースやスーツ数着。

可愛いし、かっこいいし、私に似合ってた。

結構高かったし。

 

でも人は体型が変わりますから

若い頃の服なんか着られません。

ウェストのサイズが太もものサイズ…は大げさだけど

すべからく布が足りない。

 

捨てなきゃいけないんだけど

捨てられない。

 

だけど思うんです。

着物はなんぼでもサイズを変えられますから

大好きな着物は捨てなくていいんです。

自分が元のサイズに戻るのが一番省エネなんですが

それがなかなか困難な場合は

洗い張りをして仕立て直しさえすれば

新品のような自分ピッタリの着物に華麗に生まれ変わる。

これはすごいことです。

 

着物は一反の布を八つに直線裁ちして

余った布は全部縫い代の中に入れてしまう。

そう考えると

どんな大きな人の着物も

小柄で細い人の着物も

同じ重さなんですよね。(同じ生地なら、です)

 

昔の家の女は

夏になると着物を単衣に仕立て直し、

涼しくなると洗ってまた袷に仕立て直し、

真冬はそれに綿を入れたんだそうです。

家族全員の分をそうやって仕立て直し直して着てたんだそう。

4月になるとその綿を抜くことから

4月1日を綿ぬきというそうです。

「わたぬき」と入力すると今でも「四月一日」と変換されますので

やってみてください。

そして流石にボロになればもんぺや野良着に作り替え

それも着られないほどになったら最後は雑巾にするそう。

まあ、木綿の日常着の一生ですが。

 

ユニクロに行けば1,980円でたいていの服が買える現代と比べたら

ものすごく手間のかかる暮らしだったんですよね。

 

着物を着るようになって

着物の色んなことを少しずつ知っていくに従って

これぞサステナブルの鑑と思わずにいられません。

思えば昔…多分明治、大正くらいまでは

着物だけでなく生活のあらゆるシステムがサステナブルだった。

 

たとえばトイレだってそうですよね。

100年選手の古い古民家に行くと

トイレとお風呂は別棟でした。

お風呂の水がトイレの便槽に流れ込んでいく作りになってるそうです。

便槽はいわゆる”どっぽん”で、その糞尿で堆肥を作って作物を作った。

よくおばあちゃんなんか柿の葉でおしりを拭いたと言ってましたが

それはいずれ堆肥にするからなんでしょう。

野菜のクズなんかも庭の一角に捨てて

それも堆肥にしていた。今で言うコンポストですね。

 

見事に循環してます。

 

「もったいない」という言葉は、他の国にはないそうです。

「いただきます」も。

でもきっと、古い文化を持った国はどこも

その国式の循環型持続可能な生活様式を持ってたはず。

 

着物から話が反れてしまいましたが

私が着物を切って服にリメイクできないのはこのせいです。

大げさに言えば着物の真髄って

解けば元の反物に戻ってまた一から作り直せる

っていうところだと確信してるから

ハサミを入れるってことは

なんかね、着物としての息の根を止めてしまうような気がするんですよ。

 

いやでもこれはちょっと感傷に寄り過ぎで

せっかく集めたリメイク用の着物達はやっぱり

解いて洗ってワンピースでもかっぽう着でも、何かにしてあげないとなぁ。

着物としてじゃなく、生地として再生するって考えたら

人間が仏に成仏するようなもんで、別に悪いことじゃないかもね。

いや、使命全うしてボロ雑巾になるのが成仏だから、リメイクは輪廻転生かな。

 

そんな事どうでもいいんだけどとにかく

着もしないで置いておくのはそれこそ生殺しになってしまうもんね。