何様猫が冷たい処をこすられた時は、小宮山がその時の心持でありましょう。
嚔もならず、苦り切って衝立っておりますると、蝙蝠は翼を返して、斜に低う夜着の綴糸も震うばかり、何も知らないですやすやと寐ている、お雪の寝姿の周囲をば、ぐるり、ぐるり、ぐるりと三度。縫って廻られるたびに、ううむ、ううむ、うむと幽に呻いたと、見るが否や、萎れ伏したる女郎花が、無慙や風に吹き乱されて、お雪はむッくと起上りましたのでありまする。小宮山は論が無い、我を忘れて後にと坐りました。
蝙蝠は飜って、向側の障子の隙間から、ひらひらと出たと思うと、お雪が後に跟いてずっと。
蚊帳を出でてまだ障子あり夏の月、雨戸を開けるでもなく、ただ風の入るばかりの隙間から、体がすっと細くなり、水に映つる柳の蔭の隠れたように、ふと外へ出て見えなくなりましたと申しますな。勿論、蝙蝠に引出されたんで。
小宮山は切歯をなして、我|赤樫を割って八角に削りなし、鉄の輪十六を嵌めたる棒を携え、彦四郎定宗の刀を帯びず、三池の伝太|光世が差添を前半に手挟まずといえども、男子だ、しかも江戸ッ児だ、一旦請合った女をむざむざ魔に取られてなるものかと、追駈けざまに足踏をしたのでありまする。あいにく神通がないので、これは当然に障子を開け、また雨戸を開けて、縁側から庭へ寝衣姿、跣足のままで飛下りる。
戸外は真昼のような良い月夜、虫の飛び交うさえ見えるくらい、生茂った草が一筋に靡いて、白玉の露の散る中を、一文字に駈けて行くお雪の姿、早や小さくなって見えまする。
小宮山は蝙蝠のごとく手を拡げて、遠くから組んでも留めんず勢。
「おうい、おうい、お雪さん、お雪さん、お雪さん。」
と声を限り、これや串戯をしては可けないぜと、思わず独言を言いながら、露草を踏しだき、薄を掻分け、刈萱を押遣って、章駄天のように追駈けまする、姿は草の中に見え隠れて、あたかもこれ月夜に兎の踊るよう。
「お雪さん、おうい、お雪さん。」
間もやや近くなり、声も届きましたか、お雪はふと歩を停めて、後を振返ると両の手を合せました。助けてくれと云うのであろう、哀れさも、不便さもかばかりなるは、と駈け着ける中、操の糸に掛けられたよう、お雪は、左へ右へ蹌踉して、しなやかな姿を揉み、しばらく争っているようでありました。
どもり 横浜